お礼参り
小鳥が高らかに歌う森の中を、エレナたちは歩いていた。3人で泉の女神にお礼参りに行く最中だ。
先頭はこの場所を歩き慣れているダビド、続いてエレナ、最後尾にリカルドがいる。
「歩く速度は大丈夫かな?」
「はい!全然大丈夫です」
ダビドはたまに振り返り、エレナのペースを気遣った。しかしダビドは、発作さえなければとてつもなく健脚だと見て取れた。エレナはたまにハア、などと息を吐いてしまうがダビドは息切れひとつしていない。
後ろのリカルドに至っては、小鳥をからかって上手な口笛を吹く余裕ぶりだ。ダビドが女神に捧げるパンを持っていることもあり、ちょっとしたハイキングの雰囲気である。
そのとき、エレナの耳元で震える低い羽音がした。
「きゃっ!」
ぞっとして耳の辺りを手で払い、もう虫は行ったかと周囲を見回す。リカルドが大慌てのエレナの行動を見て笑った。
「何だ、虫が苦手なのか?」
「そうよ、嫌いにきまってるでしょ」
「しょうがないな、虫除けをかけてやるよ」
「持ってるの?」
虫除けスプレーでもあるのかと期待するが、リカルドは何も持っていない手をエレナの頭の上にかざした。
「プレモディ・リド」
と、エレナの耳には聞こえたが普段の会話とは違い、はっきりとは聞き取れなかった。淡い緑色の光が一瞬エレナの全身を覆い、見えなくなる。
「えっと……魔法?」
「当たり前だろ。俺は父上の次に優れた大魔法使いだ」
「……そうなの。ありがとう」
すっかり父親思いの好青年の皮をかぶったリカルドは、眩しい白い歯を見せた。
「すまないな、私はもう魔法が使えなくてね」
「そんな、気にしないで下さい」
ダビドは残念そうに肩をすくめるが、ヘルシェル病のせいだろうとエレナは手を振る。
「しかしエレナは虫が苦手なのに、この森で二晩過ごしたとは大変だったな」
「はい。とてもつらかったですね。とにかく、つらかったです」
感情が溢れ、エレナは難しい表現ができなかった。夜の森は真っ暗で恐ろしかった。たったひとりで過ごす暗闇の恐怖は、虫ごときを上回った。
風で揺れる木の葉が、大きな獣に感じた。疲れ果てているのに、耳だけが様々な音を拾う。適当な大木に寄りかかり、ただ身を縮めていた。
地面は濡れて冷たく、下半身全体が痺れた。脱水症状で何度も足が吊り、ついには耐えがたい激痛にもなった。
(もしかすると、あのときに死んで生まれ変わったのかもしれない。折角なら美少女とかになりたかったけど、ダビドに会えたのなら幸運よね)
一行は再び歩き出し、少し汗ばむ頃には忘れもしない泉に到着した。水面は青く透きとおっていて、美しいといえる光景である。
木々はこの周囲だけ切り払ったように開けていて、小鳥も虫もいない。静謐そのもので、やはり神秘性はあった。
「ここなのか」
リカルドが柔らかな下草を踏みしめ、泉の少し手前でぴたりと立ち止まる。草の生え方からして、しばらく誰も訪れていないようだった。
「ああ、古い伝説があるが、近年は忘れられている。この祭壇は私が建て直した」
ダビドは白い小さな祭壇に、パンとブドウを供えた。その手つきはやはり慣れている。
「……不思議なことに、この供え物は獣などに食い荒らされることなく、翌日にはきれいに消えているんだ」
「えっ」
エレナの心臓がぎゅっと痛いほどに脈動した。ダビドが複雑な顔つきをした。
「だから、私は女神を信じているよ。私がエレナをこの世界に呼んでしまったのかもしれないが、エレナは今、幸せか?」
「もちろんです!私は、前の世界よりずっと幸せです」
それは心から、胸を張って言えた。母を亡くし、空っぽになっていたエレナに大切な人ができた。ダビドに出会えて良かった、そう言いたかった。
「……俺がエレナを幸せにするから」
リカルドがさりげなく肩を抱く。接触は嫌ではないが、その物言いはエレナの気に障った。
(男の人に頼りきりで幸せにしてもらおうなんて考えてないし……)
それでも、ダビドの望みはこれなのだろうと微笑んだ。肩に置かれたリカルドの手に、そっと自分の手を重ねる。
「それならいい」
ダビドは満足したように頷いた。そして祭壇に向かって両手を組み、目を瞑る。エレナも同じようにして祈りを捧げた。
(ダビドが長生きしてくれますように。リカルドに、本当にふさわしい伴侶が見つかりますように。あと、余力があったら私の呪いも解いて下さい)
ふう、と無意識に止まっていた息を吐く。必死に祈っていたらしく、二人に見守られていた。
また同じ道を通って戻るが、エレナはどうしても言えなかった。
(私がパンの盗み食いをして女神に呪われたなんて、言っても心配かけるだけよね。婚約するのにリカルドに恋愛感情がないこともばれちゃう)
ダビドの命の期限はいつまでかわからないからこそ、この瞬間を大事にしたかった。
◆◆◆
数日後、リカルドとエレナの婚姻許可が下りた。昼食後のお茶の時間、執事のディミトリが満面の笑みで書簡を捧げ持ってきたのだ。
「おめでとうございます、ご主人様」
「私を祝ってどうする」
そう言いながら、ダビドも喜びを顕にした。ちらりと書簡を確認してから、エレナに手渡す。
国王の立派な印が捺された文面を目にして、エレナは胸が詰まった。もちろん、嬉しい訳ではない。
(この婚約を後で破棄するとき、どれだけめんどくさいんだろう?)
エレナは異世界人だが、ダビドがすっかり手続きを済ませ、きちんとした身分を持っていた。なので婚約に際しての問題は何もなかった。ダビドが国王の弟というのもあり、融通も効いたのだろう。
「ところでエレナって、俺と同じ25歳だったんだな」
横から書簡を覗いたリカルドが言った。
「悪い?」
今にも失礼なことを言いそうなリカルドに、先に不機嫌になって眉を上げる。
「いや、もっと若く見えてたから」
「あなただって25歳なのに何なの?」
「今さらだが……向こうでは結婚してなかったんだな?」
「ええ。リカルドに会わなければ生涯独身だったかもしれない」
ダビドが見守っているので、嫌み半分、甘え半分のよくわからない語調になる。ダビドは、若い二人のやり取りを眺める趣味に目覚めていた。熱心な観客として、金色の瞳をキラキラさせる。
「結婚しようとは思わなかったのか?」
「思わなかったわ」
「なぜ?」
「それは……」
どの理由から話したらいいのか、エレナは混乱しそうになる。単純に、誰かと付き合うようなことにならなかったのも理由のひとつだ。ごくたまに声をかけてくる男性はいたが、その人と付き合いたいとは思えなかった。好きでもない人のために、自分の時間が奪われるのは嫌だった。
とにかく一流の料理人になるために邁進していた。しかし、ダビドの前でそうとは言えない。
そう言ってしまえば、ダビドはまた責任を感じてしまう。自分がエレナをこの世界に引っ張ってきてしまったと思っているからだ。
「えっと……本当に好きな人とじゃなければ、一生を過ごす覚悟ができないじゃない。リカルド、あなただけなの」
恥ずかしさにテーブルの下で拳を握りしめながら、エレナはくさい台詞を言った。
「そうか、俺も同じ気持ちだ。俺だってエレナじゃなければ無理だ」
笑ってもいいのに、真面目にリカルドは応じた。彫りの深い顔立ちを更にキリッとさせて見つめてくる。全て演技であるとわかっているが、エレナの胸が疼いた。
(たとえ演技でも、愛を語り合うのってすてきなことね)




