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転移と、出会い

「一体どこなのここは?!」


 石兼(いしかね)エレナは、森の中で叫びを上げた。歩けども歩けども、決して終わらない木々の連なりと、変わりばえしない風景に頭が狂いそうになっていた。


 高級リゾートホテルの料理人として働いていたエレナは、従業員寮への帰り道をとぼとぼ歩いていたはずだった。


 ホテルは景観を謳う豊かな自然の中にあり、従業員寮は隠されるように建てられている。それでも、道は整備されて迷うはずがなかった。なのに、いつの間にか、見知らぬ深い森の中にいた。それから彷徨い歩くこと2日。


 エレナの魂からの叫びに答えるものは誰もいない。ささやかな小鳥の鳴き声と葉ずれの音だけの、静かな森である。


「もう限界、このままじゃ死んじゃう!!」


 斜めがけバッグには、飲みかけのペットボトルと、疲れたときに食べる干し梅しか入ってなかった。それらも既に飲み、食べてしまった。頼みの綱のスマートフォンは、迷ったと自覚して取り出したときにはなぜか壊れていた。画面すらつかない。


「ホテルなら捨てるほど食料あるのに……」


 頭に思い浮かぶのは、もう食べ物のことばかりとなっている。減らそうと取り組んでも、どうしても出てしまう廃棄食料。あれらが目の前に現れないかと願うほどに、何でもいいから口にしたかった。


「ん?」


 空腹ゆえの幻覚か、エレナは香ばしいパンの匂いを嗅ぎ取った。最早やけくそで、疲労で感覚の鈍った重い足を無理に急がせ、その方向へと向かう。


 徐々に木立が開け、清らかな泉が目の前に現れた。


「み、水!」


 空腹感もひどいが、喉の渇きも極限に近かった。エレナは最後の力で泉に近寄り、水を確かめる。幸い水は透明で何の匂いもしないので、手で掬ってびしゃびしゃになりながら飲んた。途中でペットボトルの存在を思いだし、汲んでから喉を鳴らしてぐびぐびと飲んだ。生水を飲む危険性はこの際考えないことにした。


 更に、泉のほとりに石造りの祭壇が設置されている。そこにはこんがりと焼けたパンと、新鮮そうな果物が供えられていた。


「お供えものを食べてごめんなさい! でももう限界だし、そういうときはいいっておばあちゃんが言ってた」


 2日間、なけなしの干し梅で過ごしたエレナは我を忘れてパンにかじりついた。


 パンは、どこかの高級店で売っていそうな細長い形のバケットだった。パリッとした黄金色の皮と、柔らかい白い部分が渾然一体となって口中を満たす。料理の修行のために行った、フランスの有名店のものよりも美味に感じられた。


「めちゃくちゃおいしい……焼き立て……? ってことはこれをお供えした人が近くにいるんじゃないの?」


 急激に冷静さを取り戻したエレナは、パンを持ったまま足跡を探した。よく見ると雑草が踏みしめられた獣道がある。しかしそこにあるのは、人の靴の跡だ。追いかけようと足を踏み出しかけたそのとき――


「待ちなさいよ」

「へっ?!」


 誰もいない泉のほとりであるのに、突然女性の声が聞こえてエレナは竦み上がった。振り返ると、泉に浮かび上がるように緑色の髪の女性が睨んでいる。


「この偉大なる女神への捧げ物を勝手に食べて、お礼も言わずに立ち去ろうとしたわね?許されないわ~」

「えっ……」


 パンを取り落とし、エレナは両目を擦った。とうとうこんなはっきりした幻覚を見るようになったのかと、自分が信じられず足元がふらついた。女神と名乗る女性は薄絹のようなドレスを着ていて、風もないのに裾が優雅に揺れ動いている。


「そうよ、いいこと思いついた。呪ってやるわ」

「の、呪うんですか」

「そうよ、私は恋と愛を司る女神だから、恋をしたら死ぬ呪いをかけてあげるわ」

「意味わかんない……」


 もう頭がおかしくなったのかなとエレナは諦めた。恋と愛を司るのに、なぜ恋をしたら死ぬ呪いなのか。大体、これまで恋愛とは無縁に生きてきた。


「何よ、もっと恐がりなさいよ、むかつくわね」

「あはは、あなたの言葉遣いに私の想像力の限界を感じる。これ幻でしょ?」

「ふん、もう呪いはかかったんだから!さあ森を出たいんでしょう?私の導く先に行くといいわ、すてきな出会いが待ってるわよ~」


 自称女神が、白い指で小道の先を指し示す。ほのかに、両端が光って見えた。


「あっ、どうも。それじゃ」


 幻といつまでも話していたくないエレナは、やっぱりこっちだったかと早足になった。しばらく進んだ先に、倒れている男性を見つける。


「大丈夫ですか?!」


 慌ててエレナは駆け寄った。何がすてきな出会いなのか、とも思うが2日ぶりに人を見つけた喜びと、緊急事態に鼓動が速くなる。


 横向きにうずくまるように倒れているのは、初老の男性だった。苦しそうに胸を抑えているが、まだ息があった。ベストに白いシャツ、スラックスを着ていて、山中にしては、不思議な服装だった。どこか中世ヨーロッパの衣裳のようだ。


「しっかりして下さい!」


 エレナが肩を軽く叩くと、男性は力なくまぶたを開いた。焦点が合っていないが、狼のような金色の瞳にエレナはハッと息を飲む。


(こんな瞳の色、初めて見た)


 しかし瞳の色などを気にしている場合ではなく、男性は息も絶え絶えである。エレナはともすれば意識を失いそうな男性に必死で呼びかける。


「しっかりして!発作ですか!?薬とかありますか?!」


 見たところ外傷はどこにも見当たらず、勘で持病か何かの発作かと問う。


「く、薬はここ……」


 男性はかすれ、震える声で答えた。力なく自身の胸元に手を当てるが、取り出せない。


「探しますよ?!」


 エレナは代わりにベストの内側に手を入れ、ポケットを探る。取り出せたのは、薄紙に包まれた黒い丸薬であった。思っていた薬とは違いすぎて、戸惑うしかない。


「これでいいんですか?大きいけどこのまま飲めそうですか?」

「うっ……」


 なんとか男性の重い上半身を抱き起こし、飲むように勧めるが、ぜいぜいと喘ぐ彼にはとても飲めそうにない。それにこの丸薬は、水なしで飲むには難しそうなサイズだ。無理しても喉に詰まって死んでしまいそう、とエレナは心配になった。


「こ、この水で何とか……!」


 エレナは強引に、さっき泉で汲んだ水が入っているペットボトルを彼の手に押し付けた。男性は驚いたように、肩で息をしながら金色の目を見開く。


(緊急時とはいえ、人の飲みかけとか嫌よね。しかもさっき泉の水を汲んだのだし)


 だが、今は衛生面を気にしている場合ではないと判断したのか、男性はキャップに手をかけた。エレナは開けるのを手伝う。やっとのことで男性は丸薬を口に入れ、次いでペットボトルの水をごくりと飲み下した。エレナは懸命に背中をさすった。


「落ち着くまで傍にいますね。というか、私は迷子なんです、誰かほかの人を呼んで来られなくてごめんなさい」

「いや……あ、ありがとう」


 しばらくすると、男性は瞳に力が戻り、呼吸も落ち着いたものになった。


「ありがとう、かなり良くなった」


 彼は苦しそうながら、少し微笑んだ。よく見ると俳優のように素晴らしい顔立ちをしている。皺はあるが秀逸に刻まれ、渋さが熟成された男の色気になっている。


(この人若い頃は、もてまくったでしょう。いや今でも)


 美形の初老男性に、エレナはすっかり安心していた。持病はあるようだが、紳士的で頼れる雰囲気がある。この人なら道をわかっていて、一緒に出られるだろうと期待していた。


 症状が落ち着いた男性は、やがて立ち上がった。察していたがかなり背が高く、がっしりしていた。


「お嬢さんに世話をかけて、すまなかった。私の家でお礼をしよう」

「お礼だなんて、別にいいです。あ、でもスマホを貸してくれたら」

「スマホというものが何か、私は知らない」

「携帯電話ですよ、やだ」


 笑いかけたが、エレナは男性の醸し出す不穏な空気に固まった。


(怒ったの?)


「お嬢さんは異世界から来た人だろう?」

「え……」

「この辺りでは見かけない服装と、この水の入れ物がその証拠だ。安全に過ごせるよう取り計らうから、私のところに来るといい」

「あれ、私、何語を喋ってます?」


 エレナの勤める高級リゾートホテルには、様々な人種が訪れるので、男性の日本人らしからぬ見た目には違和感がなかった。だが、エレナの英語や留学先で覚えたフランス語は片言である。


 焦っている場面で、思った通りに話せたりはしない。同情的な眼差しで、男性は口を開く。


「あなたはジーノシュア語を、流暢に話しているが」

「何語ですかそれ……」



 ◆◆◆


 男性はダビドと名乗り、エレナも自己紹介をした。


 ダビド曰く、『実は、祖母が異世界人だった。これも縁だと思うので、私のところに来て欲しい』とのことだった。少し怪しい気がするが、頼れる人は彼しかいない状況である。


 話しながらダビドの案内で森を抜けると、そこには黒く塗られ、金色の飾りが豪華な馬車が待っていた。御者の若い男性が、エレナを見てぎょっとする。


「森で出会った。彼女を連れて帰るつもりだ」

「左様でございますか。かしこまりました」


 御者は、不躾な質問はせず頭を下げた。


 エレナは理解が追いつかないながらも、先ほどの発作が嘘のように元気になっているダビドにエスコートされ、馬車に乗り込んだ。


 見たところかなり裕福な層の紳士であり、助けた恩もあるので数日くらいはお世話になれるかな、と現実的な算段もする。


(私を売って得られるはした金なんていらなそうだし、大丈夫よね)


 生まれて初めて乗る馬車は、御者のかけ声で静かに動き出した。よく言われるほど、悪い乗り心地ではない。


 森を離れると、窓から覗く風景は街並みへと変わった。


「わあ……」


 エレナは目を丸くしっぱなしだった。朱色に塗られた屋根と、出窓のついた小さな家が建ち並んでいる。ほとんどの女性はスカートを履き、男性はベストを着用していた。


「ここはのどかな田舎の街といったところだな。私は息子に後を任せ、隠居して静かに過ごそうと思ってね」

「静かに過ごせるはずだったのに、ご迷惑をおかけします」

「エレナは命の恩人だよ。私も、まだもう少しは生きていたいから助かった」


 ダビドはうるさくない程度に、街のことなどを説明したり、エレナに元いた世界について質問をしたりと、車内の空気はリラックスしたものだった。


 やがて御者のかけ声が聞こえ、馬車はゆるやかに速度を落とした。


「え、ダビドのおうちって、この豪邸ですか?」

「ささやかな別邸だよ」


 そこは白い外壁に金色の装飾がなされた城館だった。左右の棟の中央に半円形の玄関があり、前庭では薔薇の植え込みが咲き誇っている。

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