番外編:幸せに暮らせるおまじない
「なんですって?」
「婚約解消?」
トリシャの両親は、それはもう驚いた顔をしていた。
年頃の娘が突然、婚約者との婚約を解消したいと言い出したからだ。
「トリシャ、急にどうした? 何があった?」
「そうよ、何かあったの? 今朝まで仲良さそうにしてたじゃない。喧嘩?」
両親はすっくと立ち上がり、腕まくりした。
尋常ならざることを言い出した娘を心配して、相手の家に殴り込みに行きそうな勢いだ。
トリシャは焦って二人を元の椅子に座らせた。
「ちょっと待って、お父様もお母様も落ち着いて。二人で相談して決めたことなのよ。そのうち、あちらからも正式に連絡が来ると思うわ。だからお父様はそれを承諾して。お願い」
「……」
「……」
座ったら座ったで、二人は落ち込んでしまった。
「考え直すことはできないのか?」
「できないわ」
「トリシャ、どうしてもなの?」
「どうしてもよ。私の幸せな将来のためよ」
幸せのため、と言われてとうとう両親は何も言えなくなってしまったようだった。
申し訳なさが募るが、こればかりは諦めてもらうしかない。
トリシャは将来幸せに暮らしたいし、両親にも驚いて――喜んでもらいたいのだ。
*
数日後、父の従僕がトレイに一通の手紙を載せて歩いていた。
トリシャは従僕を呼び止めトレイを覗き込み、手紙の封蝋を確認した。
婚約解消したばかりの元婚約相手からの手紙だ。
「来たわ、待ってたわ!」
「この手紙、お嬢様の差し金ですか?」
「差し金っていう言い方はどうかしら」
この従僕は当家の次期執事として目をかけられているが、トリシャにとっては兄のような存在でもある。
だから二人だけの時は、少し砕けた口調で話してくれるのだ。
「そんなこと言って、また何かやらかしましたね。そういう顔をしてますよ」
「うふふ、バレた? お父様たちはまだ気付いてないみたい。意外と鈍いわよね」
「お二人とも、ものすごく落ち込んでおられますよ。今朝も朝食にはほとんど手をつけておられず……」
「この手紙を読めば二人共、食欲なんてすぐ戻ってくるわよ」
「その前に叱られるのでは」
「今回に限ってそれはないと断言できるのよね」
意味が分からないという顔をする従僕をしゃがませて、内緒話をするように囁いた。
もちろんその前に周りを見渡して、誰もいないことを確かめた。
まだ両親には秘密だ。驚かせたいから。
「あなたは聞いたことない? 婚約解消してからもう一度婚約し直すと、その二人はずっと幸せに暮らせるのよ」
「なんですか、それは」
「私のお父様とお母様のことよ」
「あぁ……そう言えば聞いたことありますね。旦那様と奥様には婚約解消してた期間があると。あの話、まさか本当だったんですか?」
知らない者、もしくは知っていても信じない者が多い話だが、トリシャの両親は一度婚約を解消し、また婚約し直したという過去がある。
知らない、信じない、というのは、二人は婚約解消後の方が仲の良い様子だったから。
現在、貴族社会においてトリシャの両親はおしどり夫婦として有名である。
それにあやかって最近、婚約解消が静かに流行しているのだ。
幸せに暮らせるおまじない、信じる信じないはあなた次第、と言って口から口で若い恋人世代に伝えられている。
聞いたところによると、平民でも同じことをする者が現れ出したらしい。
本当の婚約解消となれば役所に行って正式な手続きを踏み、公的な記録にも残され、事務処理に多くの人を巻き込んでしまうため、このおまじないは手紙で『あなたとの婚約を解消します』と言うだけだ。
相手はそれに『分かりました』と返事をして、実際の手続きはしない。
そして数日後『あなたにもう一度婚約を申し込みます』『受け入れます』とするだけ。
「サンも彼女と結婚する前にやってみたらいいわ。綺麗な方を掴まえてきたじゃない。隅に置けないわよねぇ」
「ちょ、お、お嬢様何故それを! え、え? いつバレた?」
「お父様にはまだ秘密にしておいてあげる。だから何食わぬ顔でこの手紙を渡してきてね。婚約の申込みよ」
そう言って走り去った令嬢の名はトリシャ・ヴァロア。
父にオルキス、母にエルーシアを持つ、大公家のお転婆娘である。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました!




