番外編:三番目(後編)
主人の助手になってからどのくらい経ったのか、もうすっかり分からなくなってしまった。
何年も経っているのだから、それなりに色々あった。
と言いたいところだが、実際はそうでもなかった。
そのあまりに変化のない日常が、この屋敷にいる人間を徐々に蝕んでいったのかもしれない。
いつのまにか大公は世の中から忘れ去られた存在となり、近くの街の人間も「あの屋敷に気味の悪い男が住んでいる」「いやいやあそこにいるのは人間ではなく亡霊だ」という程度にしか認識していなかった。
確かに、サンの主人は気味が悪いと言えば非常に悪いし、亡霊と言っても差し支えない。
これは助手になって更にしばらくしてから知ったことだが、主人の寝室には誰だか知らないが金髪の少女の肖像画が大小様々に飾られていて、主人は時折それに話しかけているのだ。
興味本位で屋敷を覗きにきた街の人間がいたとして、運悪くそれを目撃してしまったのだとしたら、気味が悪いとか、亡霊だとか言われても仕方のないことだろう。
この屋敷で働く使用人は、そんな主人のことを理解して付いてきた少数精鋭の者たちだったが、それが何年何十年と続くと、さすがに精神がやられていくらしい。
事前に暇を申し出るのはいい方で、何人かは夜逃げした。
執事は使用人が荷物をまとめてこっそり出ていくのを知っていながら、見ないふりをしていた。
使用人が減るのには他にも理由がある。
長年受け取っていた大公としての年金が、いつの間にか止まってたのだ。
主人はそれに気がついても、国に対して何も言わなかった。
そんなことだから余計に世の中から忘れ去られていくのだ。
給金が減っていくにしたがって、使用人も減っていった。
サンは元々、人間とも認識されないような最下層で生きてきたので貧乏は気にならないが、そうでない人間がいるのは仕方のないことだ。
屋敷の維持は最小限にして、時にはサンが日雇いの仕事などをこなしながら、細々と食いつないでいた。
やがて執事が寝たきりとなり、いよいよ今夜が峠か、というところまで来てしまった。
大公がほんの子供の頃から仕えてきた執事は、大公より十五ほど年上なのだそうだ。
それにしては老け込んで見えるのだが、執事本人には言わない方がいいだろう。
「サン……旦那様を、頼んだよ……」
「うん。任せとけよ、父さん」
執事も大概頭がおかしいと言うか、きっと心を病んでいたのだ。
かつては生ゴミ同然だった元浮浪児に自らを父と呼ばせるようになったのだから、どう考えてもまともではない。
執事は何だかんだで婚期を逃し、子を持つこともなかった。
だけどサンのことが可愛くてしかたがないから、サンさえよければ、二人きりの時は父と呼びなさいと、少し照れたように言った。
その時には返事のできなかったサンは、辞書で『父』を調べた。
調べなくても知っていたのだが、調べずにはいられなかったのだ。
結局、父と呼べるようになるまで一年近くかかったが、初めて呼んだ時に執事改め父は泣き、その時はまだいた料理人がいつもより少し豪華な夕食を用意してくれた。
翌日、父は主人の前でも「サンが、息子が、父が」などと言って泣いていた。
父が死んで、屋敷の側に墓を立てた。
墓前には一輪の花が置いてある。
近くの森でよく見かけるこの花は、サンが摘んで来たものではない。
控えめに花を咲かせるそれを見て、ボロボロと涙が溢れてきた。
父に拳骨を落とされた時の生理的な涙を除けば、こんなに泣いたのは屋敷に来て初めてパン粥を食べた時以来だった。
こうして、この忘れ去られた屋敷には、サンと主人の二人だけになってしまった。
助手として、長いこと主人の側に仕えてきた。
書き散らかした書き付けに目を通して内容ごとにまとめるのも、それを所定の場所にしまうのも、十数年前のあの書き付けを持ってこいと言われて、物置と化した埃だらけの客間を漁るのもお手の物である。
サンは手先が器用だったので、主人の指示の通りに魔法陣を描く、といったこともできた。
主人が研究しているような魔法に使う陣は非常に複雑で、一つの魔法陣がこれでもかと細かい上に、それを多重立体構造で展開する必要があるのだそうだ。
毎日主人の書き付けを確認し、恐ろしく緻密な魔法陣をいくつもいくつも描き続けていたのだから、主人が何をやろうとしているのかくらい、とっくに分かっていた。
主人が何も言わないので、サンも何も言うことはなかったけれど。
父が死ぬ前、エルーシア・アルハンという女性のことを教えてくれた。
主人の婚約者であり、先代大公を殺害し処刑された女性で、寝室にある肖像画その人だという。
主人も、この屋敷で働いていた使用人の誰もが、エルーシアは無罪であると思っている。
だからこんな辺鄙なところにまで付いてきたのだと、そう言っていた。
やがて魔法陣が完成して、探していた道具も揃った。
*
その日の朝、サンは屋敷に残るありったけの食料を使って思いつく限りのごちそうを作った。
料理は得意ではなかったので、焦げたり煮込みすぎてグズグズになることはよくあったが、主人はいつも文句一つ言わずに食べてくれた。
そもそも食に興味がなかっただけのようだが、残さず食べてくれるのが嬉しいと思うのも、これで最後になるだろう。
食卓についた主人はやや驚いたような顔をしていたが、いつも通り、全部綺麗に食べてくれた。
手入れが行き届かず荒れ放題となった庭で、主人が魔法陣を展開させた。
非常に複雑な魔法陣だから、全て展開させるには時間がかかる。
主人の足元から、絵の具を垂らしたようにじわじわ広がっていく青い光を見て、サンは初めて自分にも魔力があったらしい、と知る。
魔法が展開される様子というのは初めて見るが、とても綺麗なものだ。
それはさておき、あれ程の魔法陣をゆっくりとでも展開できるのは流石としか言いようがない。
下手に使えば魔力欠乏症で死んでもおかしくはないのだ。
やがて最後の陣まで完成させると、ずっと後ろに控えていたサンの方へ、主人が振り返った。
「旦那様、どうかお元気で」
こちらのことは心配する必要はない。
「今までがなかったこと」になるだけなのだから。
金はないし、食べ物も今日でほとんど全部使ってしまったけれど、そのせいでこの先サンが餓死することはない。
サンにも、近くの街の住人にも、世界の誰にも、この先の未来は残されていないのだから、何も心配することはない。
サンは深々と頭を下げて、主人の足元を見ていた。
次第に向こう側が透けて見えてきたので、思わず視線を上げる。
主人はまだこちらを見ていた。
「今度はお前を探しに行く」
そう言い残して、主人の姿はなくなってしまった。
魔法陣と魔法具だけが、その場に光を放ったまま残っている。
「怪しげな本のついでじゃなくて、俺を、迎えに来てくれるのかな……」
たまたま案内させた浮浪児に、行くあてがないなら付いてこい、なんて言うのではなくて。
三番目を迎えに来た、と言ってくれるのだろうか。
連れて行かれる屋敷にはあの肖像画より少し大人になった女性がいて、奥様と呼ばれているのだろうか。
もしかしたら小さい子供もいるかもしれない。
そうであれば、なんて嬉しいことだろう。
この嬉しさは過去の三番目にはきっと分かるまい。
やがて、周囲が光に包まれて何も見えなくなった。
禁忌という割には、意外と優しげな魔法だ。
そう思いながら目を閉じたのが、最後となった。
活動報告に後日談1話と番外編3話で終わりと書きましたが、あれは嘘だ!
ものすごく短い小話を書いたので、明日更新します。それで本当に終わります。




