番外編:三番目(中編)
あれから五年が経った。
三番目は『サン』という名を与えられ、大公家で働いている。
この大公家にやってきた時、使用人たちに名前を聞かれ三番目だと答えたら、少し間を置いて「じゃあサンと呼ぼう」と言われたのだ。
あの日、綺麗なのにくっついて屋敷に入ったら、あまりにも汚い浮浪児を見た使用人たちに悲鳴と共に出迎えられた。
大急ぎで用意されたらしいお湯で何度も何度も洗われ、全身がふやけた。
温かいお湯を頭から掛けられたり、それを溜めた大きな桶に体を沈められたりといった経験がなかったサンはそれはそれは気が動転して、お湯も鼻や口から入ってくるし、人生で最低の気分を味わっていた。
服とも呼べない襤褸は庭で焼却処分された。
代わりに着せられたのは誰かのお古だったのだが、少しブカブカのそれは汚れもなく、破れたりほつれたりしているところもなく、きちんと服としての機能を全うしていたので感動した。
人生で初めての『服』を着せられた後は、温かい食事が出された。
パン粥だよ、と言われて眼の前に差し出されたそれは、口に入れたら熱くて驚いて、スプーンを床に落としてしまった。
新しいスプーンを差し出され、持ち方を教えられ、恐る恐るもう一度パン粥を口に入れた。
喉を通って腹が温かくなってくると、ボロボロと涙がこぼれて止まらなかった。
今まで裏路地で必死になって探していたのが食べ物ではなく、腐敗した生ゴミだったのだと知った。
真っ白で甘い匂いのするこれは、安心して体に入れていい『食べ物』だった。
初めて腹が満たされた夜、ベッドを与えられて眠った。
一番目と二番目――今にして思えば、彼らはサンの兄だったのだろう。
もしかしたら姉だったかもしれないが、それはもう分からない。
一番目は大通りの大人に腹を蹴られたことが原因で死に、二番目は食べたものに当たって腹を下し死んでしまったのだ。
二番目と同じように苦しんだサンが回復したのは、きっと運が良かっただけだった。
衣食住だけでなく、大公家で仕事やある程度の学を与えられたサンは、自分に家族がいたことを知り、二人が死んだことを知り、もう二度と会えないのだと知った。
*
更に五年が経つと、大公家やその当主のこと、周りにどう思われているかなどを理解してきた。
当主は十年前に裏路地でサンを拾った『綺麗なの』だ。
今ではサンの主人である綺麗なのの名は、オルキス・ヴァロアと言う。
この国で最も高貴な貴族として有名ではあるが、変わり者としても有名だった。
いつになっても妻を娶らず、魔法騎士だったのも早々に辞して王都の屋敷を売り払い、わずかな使用人だけで辺鄙なところに引っ越してしまったのだ。
貴族社会には一切顔を出さず、基本的には自室にこもって何やらやっている。
それが何なのかはサンには分からなかったが、時々朝でも昼でも夜でも時間に関係なく、また距離にも関係なくふらっと出かけては、いつの間にか戻ってきているのだ。
出かけていく主人を見送りながら、主人と出会ったあの裏路地で、いつも動かないのに虫が湧いて腐敗するでもなかった大きなのから受け取っていたものを思い出す。
あれは本だっただろうか。
帰ってくる主人は時々、あれと似たようなものを持ち帰ってきて、また部屋にこもって出てこなくなってしまうのだ。
この頃恐らく十五歳にはなっていると思われたサンは、決まった持ち場はなく屋敷内のあれこれとした雑用を行っていた。
この日は執事に頼まれて、煙突掃除に精を出していた。
これから寒くなる前に掃除をしつつ、点検も兼ねているのだ。
食べてもろくに太らない体のおかげで、煙突には楽に入り込める。
本日三本目の煙突に屋根側から潜った時、一瞬緩んだロープを締め直すことができず、サンは暖炉へと落下してしまった。
「いでっ!」
夏の間に溜まった埃を撒き散らし、まともにそれを吸い込んでしまって咳き込みながら起き上がる。
強かに打ち付けたお尻をさすりながら暖炉から這いずり出て、辺りを見回した瞬間、これはまずいと青ざめた。
ここは主人の部屋だ。
数日前から出かけているので屋敷にはいないが、いつ帰ってくるかも分からないのに、部屋を灰や埃でしこたま汚してしまった。
主人の部屋は滅多に掃除ができないのだ。
大事なものが床にまでたくさん置いてあり、それを勝手に動かされては困るから、らしい。
一定期間ごとに執事が主人に頼み込み、メイドを掃除のために入れさせてもらう。
主人直々の監督の元、本や紙の束を慎重に動かし、その部分だけ掃除をしてはすぐに元の場所に戻す、というちょこちょこした作業を繰り返してなんとか対処しているので、こう予定外の汚れが発生してしまうと、とにかくサンは絶対に執事に怒られる。
取り急ぎ応急処置をと思い、手元にあった書類の埃を手で払った。
無造作に置いてあるように見えても勝手に位置をずらしてはいけないので、慎重に手を動かす。
「……ツイてない」
こんなの無駄だと思いながら泣きたい気分で手を動かしていると、ある一枚の羊皮紙に目が止まった。
丸の中に、更に丸や三角、文字のようなものがびっしりと描かれている。
「もしかして……魔法陣だ、これ! 初めて見た!」
この屋敷に来てからいつか読んだ本の中に『魔法には魔法陣が必須』というような記述と、魔法陣を構成する要素の簡単な説明があった。
文字だけの説明だったので全くイメージが湧かずもやもやしながら読んでいたのだが、図解なしの不親切なその本によると、実際に魔法を発動させる時の魔法陣は一般人の目には映らないものらしい。
こうやって何てことない紙に、何てことないペンで描かれていれば見える。
魔法陣を見るのは初めてだが、きっとそうに違いない。
「ひかり……光? と、えーと空間?」
魔法陣の中に小さく描かれている文字を読もうと試みる。
あまりに文字が小さくて線が潰れており、簡単な単語しか読み取れなかった。
そしてこういう間の悪い時に限って、主人が帰ってくる。
ドアを開けて固まった主人と、顔に手を当て天を仰いでいる執事に、サンは慌てて羊皮紙を元の場所に置いて渾身の土下座をした。
「旦那様、お帰りなさいませ!」
言って、いやそうじゃないと気がつく。
「お部屋を汚してしまって申し訳ございません! 煙突掃除をしていて、ドジをして落ちてしまい……」
埃っぽい床に額を擦って許しを請う。
しばらくの無言の後、久しぶりに主人の声を聞いた。
「とりあえず頭を上げろ。その体勢は何だ?」
「はい。これは以前書物で読んだ、遥か東の国に伝わる、最も深い謝罪を表すものです」
「……そうか」
執事が大きなため息を付いているのがサンの耳にまで届く。
これは後で間違いなく、拳骨が落ちてくるだろう。
それはともかく、主人の命令なので恐る恐る顔を上げた。
主人はつかつかと近寄って来て、先程までサンが熱心に眺めていた羊皮紙を手に取る。
「お前、これが読めたのか?」
「いえ、読めたと言うほどでは……」
「これは光と空間に関する魔法陣だ」
「うわぁ」
まさか、読めていたとは。
ぴらりとこちらに向けられた先程の羊皮紙を再び眺めて、更に読み取れる文字がないか目を凝らす。
文字が小さいので、もっと顔を近づけないとよく見えない。
だんだん前のめりになってバランスが取れなくなって、倒れる寸前に床に手を突いた。
そんな様子を眺めていた執事が、ゴホン、とわざとらしく咳払いをした。
「旦那様、提案がございます」
「何だ」
「このサンを、旦那様の助手になさいませ」
「助手?」
「助手?」
これには主人だけでなく、サンも驚いた。
この執事、一体どうしてしまったのだ。
痴呆にはまだ早いだろうと考えていたら、執事に睨まれた。
恐らく拳骨が一発追加されるだろう。
「こう見えてサンは物覚えが良うございます。読み書きはもう全く問題ありませんし、今ご覧になった通り、魔法文字もいつの間にか読めるようになっていました。少々馬鹿ですが、恐らく頭はいいのです」
「なるほどな」
何がなるほどか。
しかし主人はこの提案を一蹴するでもなく、考える素振りを見せていた。
「サンに書類の整理と、ついでに掃除もさせるといいでしょう。いつも申しております通り、この部屋は換気、掃除が足りておりません。それが祟って体調を崩せば、旦那様の研究も進まないのですよ」
確かになるほどだった。
そしてこの提案は、サンにとっても嬉しいものだった。
この部屋には少し見渡しただけでも、魔法に関する本や書き付けがたくさん目に入るのだ。
それらを堂々と眺めることができるのであれば、サンは一も二もなく助手になりたい。
やがて主人が頷いたので、サンは正式に主人の助手、という仕事を手に入れた。
その日の夜、執事には二発の拳骨を落とされた後、煙突から落ちた時の怪我の有無を確認された。




