後日談
「え? 婚約解消? は?」
シーズンが終わり冬を迎えようとしているある日、大公邸の応接室で素っ頓狂な声を上げたのはグレイだった。
オルキスとグレイの休みが重なる今日に合わせて、エルーシアもアルハンから王都へやって来ている。
婚約を解消したと言う二人は仲良く並んでソファに座り、紅茶を飲みながらにこにこ笑っていた。
耳にした言葉と目の前の光景の差に、座っているのに目眩がしてグレイは天を仰ぐ。
「何で?」
「まぁ、グレイ様ったら」
「そんな野暮なこと聞くなよ」
「……」
野暮と言うのなら、これ以上のことは二度と聞くまい。
グレイは話題を変えることにした。
「ところで姫様、足の調子はいかがですか?」
「もうすっかり良くなりましたわ。本当に、グレイ様には感謝しかありません」
「俺にできることをしただけです。お元気そうで本当によかった」
捻挫した左足首は医師の処置を受けて、今ではほぼ元通りになっていた。
痛みも全くないので、もう完治と言ってもいいようだ。
階段から落ちたエルーシアが捻挫や全身の軽い打撲だけで済んだのは、グレイのとっさの対応によるものだった。
オルキスに聞いた話から、階段から落ちるのは大公一人だけだと思っていた。
だからグレイは、大公が突き落とされる瞬間を目撃するため、階段のよく見える物陰に潜んでいた。
ルズベリー兄妹が何を言おうが、グレイは見たままを真っ向から伝える要員のつもりでいたのだが。
まさかエルーシアが大公の手を掴んで離さず、二人揃って階段を転がり落ちるとはオルキスもグレイも考えていなかったのだ。
大公には自身で守護魔法をかけてもらっていたが、エルーシアは無防備。
前回大公が落ちて、結果亡くなってしまったこの階段から落ちたエルーシアが無事で済むとは思えない。
考えるより先に、グレイは動いていた。
動く目標には向いていない防御魔法しか知らなかったのと、一か八かの無詠唱で魔法を展開させてしまったために多少の怪我は免れなかったのだが、打撲と捻挫程度で済んでいるのはこの機転によるもので間違いなかった。
エルーシアが落ちた時のオルキスの顔ときたら、墓から蘇った死人のそれと変わらないのではないかと思うほどだった。
今こうして、好いた女の隣に座っていられるオルキスの気持ちはグレイには推し量れないので、あの時の顔をからかって笑ってやる材料にはできないが。
そんなオルキスがふと顔を上げた。
「グレイ、ルズベリー家への措置は聞いたか?」
「いや、聞いてない。それ今日聞こうと思ってたんだ」
つい先日、モーリアンへの沙汰が決まったとどこからともなく耳にしたのだが、その詳細はまだ聞いていなかった。
下手に周囲の同僚なんかに聞いて、又聞きを繰り返したような不確かな情報を得るのも嫌だったので、オルキスとエルーシアの揃う今日まで待っていたのだ。
「モーリアン兄さんは三年の懲役刑、叔父様はルズベリー子爵の爵位返上となったそうです」
「そうですか……」
誰も死んでいないのだから、エルーシアのような極刑にはならないだろうと踏んでいた通りになったようだ。
この決定が軽いのか重いのかグレイには分からなかったが、オルキスも、エルーシアですらも、特に不満げな顔はしていない。
「モーリアン兄さんはまだ納得していないみたいですが、叔父様は異議を申し立てなかったのです。王都の屋敷も手放すと聞きましたわ」
「なるほど……。というか、そもそもなぜモーリアン卿はあんなことを?」
これにはオルキスが答えた。
「父上に私怨があったようだな」
「両者の繋がりが全く想像できないが」
「僕も予想外だった。子爵の経営する商社絡みで何かあったらしい」
あの日以来、モーリアンが支離滅裂なことしか言わないような状態なので、これ以上の詳細は不明だそうだ。
子爵に聞いても大公との取引はないと言っているし、大公本人もそれは認めている。
これについてはモーリアンが落ち着き次第、聴取が進められるという。
「大公閣下への私怨を晴らすために階段から突き落とし、そこにいた姫様を犯人扱いして、憂さを晴らそうとしたと?」
「そうみたいです。モーリアン兄さんにとっては、私は子供の頃の気弱そうな従妹のままだったようですから……犯人扱いしやすかったのでしょう」
にこにこと笑うエルーシアが気弱だとは、グレイには到底思えなかった。
鞍無しで飛行型の魔獣を御し、あの階段から落ちるのも厭わず大公に手を伸ばすような令嬢だ。
どちらも命を失ってもおかしくはない行為なので、どちらかと言えば豪胆だろう。
確かに黙っていれば大人しそうな令嬢には見えるが、エルーシアの本質を見抜けなかったのがモーリアンの不幸だった。
「そう言えば、オルキスは前世で犯人探しとかしなかったのか?」
「しなかった」
「なんで?」
「犯人を見つけてもエルーシアは戻ってこないから。僕にとっては犯人探しより、魔法の研究の方がエルーシアにまた会える可能性が高くて、意義があった」
「オルキスったら、もう」
「あっそ……」
どうやらまた野暮なことを聞いてしまったようだ。
グレイはしばらく口を閉じることに決めた。
*
それから数時間後、エルーシアは王都の東門に立っていた。
久々の休日を楽しんでいるオルキスとグレイはその場に残し、護衛を除けばエルーシア一人で来ている。
東門に着いてしばらくすると目的の人物が歩いて来た。
「エルーシアさん?」
赤い髪をすっきりとまとめて、簡素な服に旅行鞄を持ったディアナだ。
傍らにはあの日と同じく、くすんだ金髪の男が立っている。
男も旅行鞄を手にしていた。
「ディアナさん。よかったわ、間に合ったみたいで」
「お父様から聞いたのね」
「そうよ」
モーリアンは懲役刑、ルズベリー夫妻は王都の屋敷を手放した後はアルハン領へ移り住む。
そしてディアナはこの男と二人で隣国へ行くのだと、叔父から聞いていた。
エルーシアは男へ向き直り膝を折った。
「いつぞやはご迷惑をおかけしました。改めまして、エルーシア・アルハンと申します」
「ロン・ファーリンと申します。ガルム男爵が三男でございます」
ロンは今日も人好きのする顔で、エルーシアとディアナに近くのベンチを勧めた。
ディアナに断られるかと思いきや頷いてベンチに向かって歩き出したので、エルーシアもその後を追いかける。
ディアナと二人でベンチに座って、声の届かなさそうな距離にロンとエルーシアの護衛が待っている形となった。
「わたくしたちのことを笑いに来たのではなさそうね」
ベンチに座るなり、ディアナがそう切り出した。
兄が罪を犯し、両親は爵位を失い屋敷も手放し、本人は爵位も望めなさそうな男爵家の三男と国を出る。
貴族の中には嘲笑を隠さない者も多いだろう。
「少しでも話せたらいいなって思って来たのよ」
以前偽りの証言をしたディアナは今回、本当のことを言ってくれた。
元々状況はエルーシアに有利にあったが、ディアナの証言も強い押しの一手になったことは間違いない。
モーリアンは前回と同じように大公を突き落とし、その罪をエルーシアになすりつけたのに、どうしてディアナは変わったのか。
手持ち無沙汰なせいか護衛に話しかけているロンを見ながら、それが答えなのだろうなと感じていた。
「また会えるかしら?」
答えはすぐに返ってこなかった。
しばらく間が空いて、くすっと笑う声が聞こえる。
「あなたたちの結婚式に呼んでくれるならね」
「必ずご招待するわ! 落ち着いたら、お便りくださいね。絶対ですよ」
「婚約解消したって聞いたのが嘘のようね」
「色々あったのよ、私たちも」
そうよね、とディアナが言った後、しばらくどちらも無言だった。
二人は日が暮れるまでに今夜の宿に入らなければならないだろう。
あまり引き止めても悪いと立ち上がろうとした時、ディアナが言った。
「わたくし、貴女のことが嫌いだったのよ」
急に何をと目を丸くするエルーシアに対して、ディアナは妙に爽やかな笑顔だった。
「そうだろうなって思ってたわ。でも、あの時……」
「当然のことをしたまでよ。わたくしは、わたくし自身とあの人に恥じない人間になりたいの」
言うやいなやディアナは立ち上がり、ロンの元へ歩いて行った。
預けていた鞄を手に持って、二人で門の外へと向かって行く。
エルーシアは遠ざかる二人の背中に叫んだ。
「二人の結婚式にも必ず呼んでね!」
振り向いたディアナは頷き、それを見たロンはここからでも分かるほど顔を赤くしていた。
――どうかあの二人に、幸多からんことを。
しばらくその場で祈ったエルーシアは、護衛と共に反対側へ歩き始めた。
オルキスの元へ、帰るために。




