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 モーリアンの身柄が確保され、大公が自分の足で立ったことも確認した安堵からか、エルーシアはオルキスに抱きかかえられたまま気を失っていたらしい。

 気がついた時にはベッドに横たえられていて、横からオルキスが悲痛な面持ちでエルーシアの顔を覗き込んでいた。


「……ずっと私の寝顔を見ていたの?」

「ごめん」


 書類上ではまだ婚約者であるとは言え、未婚のレディの寝顔を眺めていたとは褒められたものではない。

 しかしそれを本人に言う気も失せるほど、オルキスは分かりやすく消沈していた。


 そもそもオルキスは、夜会が始まる前から疲れたような顔をしていたのだ。

 今やそれが更に色濃くなっていて、オルキスこそ横になった方がいいように思える。

 エルーシアにとっては二度目の今日も、オルキスにとっては初めてのことだ。

 驚くのも疲れるのも無理はない。


「痛っ……。足首、捻挫しちゃったのね」


 階段を転がり落ちる時に捻ったのか打ち付けたのか、オルキスの指摘通り足首が痛む。

 上半身を起こしてスカートの裾を少しめくってみると、左足が靴下越しでも明らかなほど腫れて、触ると熱を持っていた。

 これではしばらくの間、歩くのに苦労するだろう。


「動かさないで。すぐに医師を呼ぶから……その前に少し、話がしたい」

「……そうね」


 幸いにして、一番ひどいのがこの足首だ。

 他にもあちこち痛みはするが、脳が揺れるような感覚はすっかり収まっていた。

 足首さえむやみに動かさないよう気をつけていれば、あまり問題はないだろう。


 何より、エルーシアもオルキスと話をしておきたかった。


「でもその前に、大公様はご無事でいらっしゃるのよね? あの後具合が悪くなったりしていない?」

「元気だよ。怪我一つしてない。君が一番重症だ」


 それを聞いて、心の底から安堵した。

 大公が生きていて、エルーシアも無事だった上に、真犯人も分かった。


 一度死んだことも、やり直してきたこの三年間も、無駄にはならなかったらしい。

 モーリアンのことを考えると胸がチクリと痛んだが、今はそれを無視することにした。


「エルーシア、君にきちんと言わないといけないことがある。でも……どう話せばいいのか……」

「ゆっくりでも大丈夫よ、時間はたくさんあるわ」


 すっと出てきた言葉が、自らの胸の中にすとんと収まったような気がした。

 エルーシアには時間がある。

 大公邸に軟禁されることも、騎士に連行されて城の牢獄へ閉じ込められることも、処刑されることもないのだ。

 

 時間が遡ってからはずっと今日を乗り越え生き延びることを目標としてきたが、その甲斐あってこの先もエルーシアの時間は続いていくことが決まった。

 今度こそ何も分からない、まっさらな未来だ。

 想像のできない未来に思いを馳せて、エルーシアは少し震えた。


「寒い?」


 言うやいなや、オルキスは上着を脱いでエルーシアの肩に掛けた。

 肌寒くて震えた訳ではないのだが、上着の適度な重さと暖かさが落ち着く。

 ありがとうと小さく呟いて、このまま借りておくことにした。


「実は、というか、もしかしたらもう君は知っているのかもしれないけど」

「何かしら」

「……前のことを覚えているんじゃないか?」

「前のこと?」


 それはいつのことだろうかと首を傾げるエルーシアに、オルキスは言いにくそうにしばらく視線を彷徨わせた後、重々しく言葉を続けた。


「君が一度、死ぬまでのことを」


 絶句したまま目を見開いているエルーシアを見て、オルキスは肯定と取ったらしい。

 堰を切ったように言葉を続けた。


「エルーシアが殺されてからずっと、魔法の研究をしてたんだ。何十年もかけてようやく、時間を巻き戻すことのできる禁術を見つけた。エルーシアのいない世界には未練なんてなかったから、禁術を見つけてからは悩まなかった」

「気がついたら右目の視力と、魔力が全部なくなってた。日付を確認して禁術が成功したことを知ってすぐ、急いで手紙を書いてアルハンに行って……生きて、動いている君を見たら、失ったものなんてエルーシア以外全部どうでも良くなった。また会えて、本当に嬉しかったよ」

「本当は僕以外、前の記憶は残っていないはずだったんだ。君が全部覚えていたなんて、あり得ないはずだ。正直、今でも信じられないけど、君の様子を見ているとそうなんじゃないかと……」


 相変わらずエルーシアは言葉を失ったまま、それでもオルキスの言葉に頷いていた。

 他の誰よりも違和感のあったオルキスの謎が解けて、パズルのピースがどんどん埋まっていくような感覚だった。

 それでも納得の行かない部分はある。

 何を今更、という気持ちも強い。


「私のこと、信じてくれてなかったのに」

「信じてた! 信じてたけど……今何を言っても、もう言い訳にしかならないから……」


 ふぅん、と横目でオルキスを見る。

 居たたまれなさそうに俯いていて、被害者がどちらなのか分からなくなりそうだ。


「父上にはご自分で守護魔法を張るよう説得していたから怪我しなかったんだ。記憶があると分かっていれば、君にあんなことをさせることはなかった……。三年前、君に拒絶された時に気がつくべきだった。何もかも僕のせいだ、本当にごめん、エルーシア」


 前のエルーシアは大公に手が届かず、落ちていくのを見ていることしかできなかった。

 それが今回は二人で一緒に転がり落ちていくとは思わなかったのだろう。

 実際のところは、どう立ち回るべきか、他にいい方法が思いつかなかっただけだ。

 もし大公が以前と同じ運命を辿ったとしても、一緒に落ちたエルーシアを犯人に仕立て上げるのは難しくなるだろうと最低な打算もあったので、オルキスが謝ることはない。


 お互いに記憶があると知っていれば、二人で相談してもっと安全な方法で事を収められたかもしれない。

 しかしエルーシアもオルキスが妙だとは思いつつ、自分と同じように以前の記憶があるとは思ってもみなかったのだ。


 常に無表情で感情の起伏もあまりなく、言葉も必要最低限だったオルキスは、時間が遡ってから言葉数が増えて笑顔もよく見せるようになった。

 今はずっと辛そうな顔をして、エルーシアにごめん、と何度も呟いている。

 時間が巻き戻って急に変わったというよりも、オルキスの言う『何十年』の間に変わっていったのかもしれない。

 

「ねぇオルキス。禁術だなんて、どうしてそんなことまでしたの?」


 愚問だと知りつつも、思い切って口にした。

 これまでのオルキスの態度と今日の話で、ほとんどその答えは出ているようなものだ。

 それでも、はっきりとオルキスの言葉を聞かせてほしかった。


 オルキスは少し悩むように何度か瞬きしていた。

 しかしすぐに意を決したように、エルーシアを真っ直ぐに見据えた。



「もう一度、エルーシアに会いたかった。君と一緒に生きていきたかった。全部やり直して、僕が君を、この世の誰よりも幸せにしたかった」


 ここで一度言葉を切ったオルキスは椅子に座り直して、改めてエルーシアに向き直る。


「エルーシア。君のことが好きだよ」


 たったこれだけの短い言葉に込めた感情の、その全てはきっと、エルーシアには伝わらないだろう。

 ずっとそうしてきたのはオルキスだ。


 好きなのに、それを伝えたことがなかった。

 婚約者として尊重はしても、それ以上のことはしなかった。

 エルーシアの気持ちは伝わっていたし、嬉しくて満たされていたが、宝箱にしまうように蓋をして誰にも見せなかった。

 正しい大公公子としての姿しか、エルーシアには見せて来なかった。


 エルーシアの死ぬ間際の絶望も、全て覚えたまま時間が巻き戻ったことを知った時の悲しみも、オルキスには想像することしかできない。

 以前からもっと二人で感情を共有できていれば、こんなことにはなっていなかったのだろうか。


「ずっと愛してる、エルーシア。だから」


 エルーシアは三年前のあの時から、以前とは違う人生を自らの意志で進もうとしていた。

 命を顧みず大公と階段を落ちていったあの様子を見た今、それを認めないわけにはいかなかった。

 もうこれ以上、彼女の人生を土足で踏みにじるようなことはしてはいけない。


「婚約を、解消しよう」

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