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 大公が話している内容は残念ながら、慎重に階段を降りるエルーシアの頭には全く入っていなかった。

 以前と同じことを言っているのだろうか。

 以前もその後の事件のせいで、直前まで話していた内容は一切記憶に残っていない。

 大公の声だけを、適当に相槌を入れて聞き流しながら、エルーシアの意識は背後に集中していた。


 振り向きたい。

 しかし今振り向いてしまえば、犯人は何食わぬ顔で階段を降りるだけだ。

 諦めるか、次の機会を狙うのかも分からず、そもそもその人物が犯人なのかはっきりする訳でもなく、疑惑だけを残して。


 だからエルーシアは絶対に振り向かず、大公が突き落とされるその時を待っていた。

 形だけ見ればエスコートされているように、エルーシアの手を大公の腕に添えている。

 実際は何かあった時に支えとなるために添えている手だが、突き落とされた時はその勢いに負けてあっさりと離れていってしまった。

 今度は絶対に離さないと、手にも力が入る。


 考えがまとまらないままここまで来てしまったが、結局はこうするしかなかったのかもしれない。

 前と同じような状況で大公は突き落とされて、エルーシアは今度こそ絶対にその手を離さない。

 どうあがいてもエルーシアの力で大公を支えきれるはずがないので、大公と一緒に階段を転がり落ちるつもりだ。

 二人で落ちればお互いが緩衝材代わりになって、せめて大公だけでも死なずに済まないだろうか。

 どれだけの怪我を負ったとしても、二人とも命があればそれでいい。


 できることなら、落ちる時には大公を突き落とした人間の顔も見ておきたい。

 二人で落ちてしまえばエルーシアに罪をなすりつけることもできず、必然的に階段の上にいる人間に注目が行くだろう。


 ぐるぐると考えているうちに、一発目の花火が上がった。

 夜空が光ったと思えば大きな破裂音が響いて、花火は溶けるように落ちて消えていく。


「間に合わなかったようだ。すまない」

「いえ……ゆっくり参りましょう」


 この場にいる客たちや、主会場からも届く歓声を聞きながら、エルーシアは必死に以前の記憶を辿っていた。

 以前は一発目の花火が上がったとほぼ同時に突き落とされていたはずだ。

 これまでのエルーシアの行動によって未来が変わってしまったのだろうか。


 二発目の花火が上がる。

 三発目からは、間髪入れず多数の花火が次々と打ち上げられ、誰もが花火に夢中になっていた、その時だった。


「っ!」


 あ、と思った瞬間には既に、大公はエルーシアの視界を横切っていった。

 落ちる――そう考えるより先に、大公の手を必死で掴み取る。

 階段の途中、手すりは大公側にあったためエルーシアの立ち位置からでは手が届かず、あっけなく大公と共に階下に転がり落ちていく。

 大公がエルーシアを庇おうとして腕を回すのと同時に、エルーシアも大公の頭を抱えるように腕を回していた。


 *


「う……っ」


 体のあちこちが痛むような気はするが、覚悟していた程の衝撃はなかった。

 しかし、階段を転がり落ちたせいか頭がクラクラとしていて、自力で起き上がれるほど体に力が入らない。


「エルーシア!」


 頭の中で声が反響するようで、叫んだのが誰の声だったのかも分からなかった。

 気付いた時には腕を強く掴まれ、エルーシアは無理やり立ち上がらせられていた。


「オルキス公子、私が現場を目撃しておりました!」


 この台詞はモーリアンだ。

 立ち上がろうにも足は痛い、掴まれた腕も痛い、耳元で大きな声を出されて頭に響く、などの不快感はあるが、次第に頭がはっきりしてくる。


 恐る恐るあたりを見回してみると、直ぐ側に倒れている大公を見つけて血の気が引いた。

 周りには徐々に人が集まって来て、オルキスもこちらへ駆け寄って来る。

 

「モーリアン殿」

「我が従妹であるこのエルーシアが、ヴァロア大公閣下の背を……押す、ところを……」


 以前と同じ事を言ってはいるが、だんだんとその言葉は尻すぼみしていった。


「よく聞こえなかった。すまないが、もう一度言ってくれないか。僕の婚約者が、何だって?」 

「はっ。その、エルーシアが、大公閣下の背を押して……」


 周囲を取り囲む人々が、手で扇で口元を隠しながらも囁きはじめる。


 それは、おかしくはないか。

 であればなぜエルーシア嬢も落ちた。

 普通、そこまでできるだろうか。

 彼女は怪我をしているように見える。


 以前とは似たようでいて、真逆の状況だった。

 結局、モーリアンは最後まで言い切ることができず、逃げ場もないのに後ずさりしている。

 貴族たちの容赦ない囁きは、それはそれは恐ろしいことだろう。


「恐れながら……わたくしもその瞬間を見ましたわ」


 静かなざわめきを遮って、階段からディアナが降りてきた。

 驚いたことに階段を降りるディアナは、以前エルーシアがバルコニーで出会った、くすんだ金髪の男にエスコートされている。


「公子、わたくしに発言の許可をいただけますでしょうか」


 階段を降りきったディアナが、オルキスに対して膝を折る。

 オルキスが頷いたのを見た後、ディアナはモーリアンとエルーシアを一瞥し、堂々と言い切った。


「わたくし、兄を探しておりました。見つけたと思ったら、兄が大公閣下の杖を蹴り、背を押して階段から突き落とすところでした」

「何を言っているんだディアナ! 俺はしていない! 大公を突き落としたのはエルーシアだ、そうだろう!?」

「エルーシアさんがそんなことをする方ではないと、お兄様もよく知っているはずよ。やり方が稚拙でしたわね」

「ディアナ、お前……っ!」

「止めなさい」


 兄妹を止めた声に、エルーシアは息を呑んだ。

 夫人に支えられながらではあるが、しっかりと自分の足で立っているのはヴァロア大公だ。

 先程見た時は倒れて動かずにいたが、血を流している様子もない。


「私を突き落としたのはエルーシアではない。見て分かるだろう、彼女の方が重症だ」

「それは……たまたまで……そうです。天罰が、下って……」


 乱れた衣服を片手で整えながら、悠然と大公が近づいてくる。

 それに合わせてモーリアンが逃げるように下がろうとして、しかしうまく足が動かないようだった。


「それに私はエルーシア越しに見たよ。私達を突き落としたのは、君だ」

「ひっ」


 決定的な一言に、モーリアンの体から力が抜けたようだ。

 不意にエルーシアの腕が解放されて、モーリアン共々床に崩れ落ちそうになる。

 エルーシアだけは完全に床に座り込んでしまう前にオルキスの腕に支えられ、更にはそのまま抱き上げられた。


「っ、オルキス……!」

「足、くじいているだろ? 大人しくしてて」


 言われてみればあちこち痛む中でも、足首がかなり痛むことに意識がいってしまう。

 ドレスだけでも結構な重さがあるはずなのに、オルキスは涼しい顔をしているので、周りの視線は気になるが文句は言わずに黙っていることにした。

 

 少しして、エルーシアたちと一緒に階段から落ちていた杖が大公に手渡されると、夫人の支えもなく自分の力と杖だけで立って見せた。

 その姿を見て安心してしまい、エルーシアの体から余計な力が抜けていく。

 今だけは、抱き上げられていてよかったかもしれない。

 

 駆けつけてきた大公家の護衛たちがモーリアンを取り囲み、茫然自失とした様子の男を連れ去って行く。

 その様子を見届けたディアナが、エルーシアに向き直り頭を下げた。


「エルーシアさん、本当にごめんなさい」

「ディアナさん……」


 ディアナが悪いことは一切ないので、ゆるゆると頭を横に降る。

 次にディアナはヴァロア大公に対して深々と腰を落とし、完璧なカテーシーを見せた。


「我が兄の行いは到底許されることではございません。兄とルズベリー家に、どうか厳しいお裁きを」


 それは社交界の華にふさわしい、美しい姿だった。

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