エピローグ ― 一線を越える
――この駅、来たことあるよな……?
八紘から教えてもらった竜野チューリップの丘公園へ向かう電車のなか。通りすぎた駅のホームに見覚えがあった。
――ここって、風璃の……。
まちがいない。二年前、風璃の家――楡野家ではない、前の家――に訪れるとき下車した駅だ。
ここから四つ先の駅が公園の最寄り駅である。
――わりと近いな。
ではあの写真は両親と一緒にハイキングにでもでかけたときのものだろうか。
車窓から夕日が射しこむ。なんだか胸がつまるような思いがして、俺は目をつむった。
駅を出ると、時刻は十六時四十分を過ぎていた。徒歩で五分のところにあるとはいえ不案内な土地だ、迷うかもしれないしぐずぐずはしていられない。
スマホのマップアプリを開きっぱなしにしたまま、俺は知らない道を歩きはじめる。
川沿いの道を歩いていくと住宅の数が徐々に減り、代わりに木々が増えていく。さらに進んでいくと、木々のあいだからだだっ広い草原と小高い丘が顔を出した。
竜野チューリップの丘公園。ここがあの写真の場所だ。
しかしいま、あの写真のようにチューリップは咲いていない。丘には草の緑と土の茶の二色しか見られなかった。
開花の時期ではなく、閉園時間も近いためか来園者はごくわずかだ。
だから、高校の制服を着てぽつんとベンチに座っている風璃はとても目立っていて、すぐに見つけることができた。
ここにいるだろうという確信に近い予感はあった。しかし実際に姿を目の当たりにすると、やはりほっとする。
俺は風璃に歩み寄る。彼女はこちらを一瞥し、すぐに目を丘のほうへもどした。
隣に腰かける。
風璃は言った。
「学校、休んでごめん」
「それはべつにいい。ただつぎからは、休みたかったら休みたいと言ってくれ」
「……それで休ませてくれるの?」
「ああ」
「甘いね」
「そう、俺は風璃に甘い」
風璃はまだ丘のほうを見ている。
「わたしね、昔からタイミングが悪いんだ」
「……うん?」
「遠足の日に風邪をひくし、新しい靴を買ってもらったつぎの日は土砂降りの雨だし。いつもいつも」
「気のせいだろ?」
するとなぜか風璃は俺の顔をじっと見た。
「な、なんだよ……」
「気のせいじゃないよ」
チューリップの咲いていないチューリップの丘に目をもどす。
「小さいころ、ここに来たんだ。まだ時期じゃないのに、そのときはもうチューリップがたくさん咲いていて。それが、わたしの人生で一番タイミングがよかった出来事」
家族との思い出だけではない、思い入れがこの場所にはあるのだろう。理由はわからないが、いまの風璃はここに来る必要があったのだ。
「風璃」
「ん?」
「俺はタイミングがいい」
風璃は眉根を寄せた。
「……はい?」
「俺は昔からタイミングがいいんだ。遠足の日は絶対に晴れるし、パン屋に行ったらいつも焼きたてが買える。限定のメロンパンも買えなかったことがない。それに今日だって、こうやって閉園ギリギリで間にあった」
「でもそれは、そ――兄さんのタイミングで……」
「これを見ろ」
俺はスマホの画面を風璃に向けた。
「これ……」
風璃が目を見張る。画面に表示されているのは、アパートを出る前に風璃の部屋で撮った写真。
窓辺のチューリップが見事に花開いた写真だ。
「この花はお前のところに来なければ処分されるはずだったんだ。タイミングがよかったと思わないか?」
「だから、それはわたしのタイミングじゃない」
「タイミングだけじゃない。お前が懸命に世話をしたからこそ花が咲いたんだ」
「……」
「タイミングがすべてじゃない。大事なのはやりとおす意志だろ」
風璃は小さく息を飲んだ。
「それに、タイミングが悪いとかいいとか、本当かどうかはわからないけどさ、そんなふたりが合わさったらちょうどよくなると思わないか?」
そう問いかけてみたが返事はない。風璃はくちびるを結んで、じっと自分の手元を見つめている。
「どうした?」
「わたし……」
「うん」
「わたし、『奏くん』がいい……」
風璃の手に、ぽたりとしずくが落ちる。それは彼女の目からこぼれた涙だった。
「『兄さん』って呼びたくないよ……!」
「……風璃?」
「『兄さん』って言うたびに、胸が……、ちぎれそうになる……」
運動したわけでもないのに苦しそうな呼吸をしている。
「で、でも俺は、風璃が安心して帰れる場所になりたくて――」
「それは『兄さん』じゃないと駄目なの?」
「……」
「わたし、『奏くん』がいい。『奏くん』のままがいいよ……」
風璃の涙は手だけではなくスカートも濡らしている。
――っ。
胸がちくりと痛んだ。しかしそれは罪悪感の痛みだけではなく、なにか甘やか感覚をも感じさせる痛みで――。
気づくと俺は風璃の身体を抱いていた。
「……奏くん?」
「ごめん」
「こんなの――恋人同士って勘違いされちゃうよ……?」
「関係ない」
風璃は俺の背中に手を回した。
「奏くん……」
「風璃……」
「わたしの勝ち」
「…………はい?」
身体を離す。風璃は泣き顔に笑みを浮かべている。
「誕生日の日、わたしのことを抱きしめて離さなかったんだよ? 覚えてないだろうけど」
「だ、抱きしめてって……。――あ」
夢のなかで、まだ買ってもいない抱き枕を抱いた記憶がある。ということは、あれが――。
「風璃、お前だったのか、抱き枕は……」
「ごんぎつねみたいに言わないで」
「でも、なにが勝ちなんだ?」
ふふ、と風璃は笑った。
「内緒」
跳ねるように立ちあがり、公園の出口のほうへ歩いていく。
「お、おい」
「今日は赤飯炊こうか?」
「なぜ。というか炊けるのか?」
「わたしは炊けるよ」
「炊けるのかよ……」
風璃はくるりと振りかえった。
「じゃあ、帰ろ? わたしたちの家に」
「……ああ、そうだな」
俺たちは駅までの道を並んで歩く。なんだか足元がふわふわして、ずっとふたりで歩いていたいような、そんな心持ちだった。
◇◆◇
七月も下旬になり、俺と風璃は実家に帰省した。
ふたり並んで玄関チャイムを押す。
「おっと」
つい癖で風璃の手を握るところだった。
風璃は少し頬を赤らめて、でも少し嬉しそうに言う。
「わたしはべつにいいのに」
「だ、駄目だろ、まだ……」
「慌てちゃって」
くすくすと肩を揺する。
玄関のドアが開いた。
「おーう! おかえり!」
母さんの顔が赤い。あと酒臭い。
「飲んでんのかよ?」
「お前らが帰ってくるからさー、お祝いだよお祝い」
「主賓不在でできあがってんじゃねえよ」
「堅いこと言うなよー」
「母さんが柔らかすぎるんだよっ」
「まあまあ」
と風璃があいだに入る。
「お母さん、料理は用意してる?」
「いや、まだだけど」
「じゃあわたしがおつまみ作ってあげる」
「いいねー! っつーか風璃、つまみなんか作れるのか」
「奏くんがお酒を飲むときに作ってる」
「はあ、いいご身分だねえ」
母さんは「おや?」という顔をした。
「奏太郎、お前まだ『奏くん』って呼ばれてるんだな。まだまだ道のりは険しいな、おい」
にやにやする母さん。俺と風璃は顔を見合わせて苦笑した。
「な、なんだよ、妙な顔して」
「それはもういいんだ」
「なにがいいんだよ?」
「『兄さん』にはこだわらないことにした」
――『兄さん』じゃなくても家族にはなれるから。
「な?」
問いかけると、風璃はすべて察したように微笑んで、
「うん」
と頷いた。
「はあ?」
母さんは顔をしかめてしばし考えていたが、やがてあきらめたように言う。
「酔っぱらってるときにわけわかんないこと言うなよー」
「酔っぱらってるのはそっちのさじ加減だろ」
「そんなことより飲もうぜ!」
「聞いちゃいねえ……」
「いいから入れよ。このままだと近所のひとに『あ、楡野さんの奥さん、昼間から酔っぱらってる』って思われるだろ」
「羞恥心があったのが意外すぎる」
母さんは俺たちの荷物をひったくって奥へ消える。
俺は苦笑いをした。
そのとき、俺の手を温かい感触が包んだ。
風璃が俺の手を握っている。
チューリップの丘公園で風璃を抱きしめてから、彼女はしきりにハグをせがむようになった。『兄』にこだわらなくなったとはいえ、それにはまだまだ抵抗がある。
……いや、正直に言おう。歯止めがかからなくなりそうで怖いのだ。
しかしハグを断ると風璃は不機嫌になる。むうっと頬をふくらませる彼女はとてもかわいくてずっと見ていたいような気もするのだが、会話が少なくなってしまうのが息苦しくて、話しあいの末、手を握ることで勘弁してもらった。
風璃はくいっと俺の手を引いた。そして目をつむり、あごを上げる。
つまり、キス顔をした。
――うう!
なんたる破壊力。俺は頭がくらくらする。
だって『妹』という枷をはずしてみれば、美しい黒髪も、涼しげな目元も、薄いくちびるも、スレンダーな体躯も、どこをとっても俺の好みにどんぴしゃなのだ。くらっと来てしまうのはいたしかたのないことだろう。
しかし――、しかし、駄目だ。これ以上踏みこんだら、本当に歯止めがきかなくなってしまう。
「だ、駄目だ。それは、ちょっと……」
「駄目?」
拗ねたような顔で小首を傾げる風璃。
――ううう!
思わず「いいよ」と言ってしまいそうになる。俺はぎりぎりと奥歯を噛みしめ、その衝動が去るのを待つ。
………………。
駄目だ、去らない。小出しにしてガス抜きしなければ破裂してしまう。
俺はきょろきょろと周囲を確認してから、風璃の前髪をかきあげて額にキスをした。
風璃は驚いたような顔で額を押さえる。俺は恥ずかしくなって顔をそむけた。
「こ、これが限界だ」
「奏くん……」
風璃は不憫なものを見る目で俺を見つめる。
「行動が小学四年生みたい」
「小四!?」
「しかもおでこじゃなくて生え際のところにキスするなんて往生際が悪いよね」
風璃はくすくすと笑った。
「まあ、奏くんにしては上出来かな。これからも精進してください」
「ありがとうございます……」
ひどい言われようだった。
「さ、入ろ」
と、玄関に足を踏みいれる風璃。
その耳が真っ赤に染まっていた。
「ふっ」
俺は思わず吹きだしてしまった。
――風璃だって小四じゃないか。
「なに? なんで笑ったの?」
風璃は怪訝な顔で振りむく。
「いや。――きっとうまくいくんじゃないかって思って」
「……なんの話?」
「こっちの話。さあ、入ろう。母さんが待ってる」
俺たちはまだ経験値が足りなくて、『一線』の前で尻込みしてしまう。しばらくはこんなふうに一進一退を繰りかえすことだろう。
でもいつかはこの一線――スタートラインを越えたいと思う。
風璃と一緒に、手をつないで。




