この手から零れ落ちるもの2
奏多はその日の務めを終えて、帰路についた。父がそうであったように、奏多もまたなるべく実家での時間を大切にするようにしている。父の時は自分も一緒に宙の傍にいてやれたが、いま宙はひとりなのだ。もうそんな心配をするような年齢ではないとはいえ、いつまでたっても宙は奏多の弟だし、であるからには守る義務があった。
家が見えてくる。最初は三人で、宙が生まれたと思ったら母が死んで、そしてまた父が死に、二人きりになってしまった大きすぎる我が家。
だが、様子がいつもと違った。とっくに日は暮れ、宙は帰ってきているはずだ。だというのに家に明かりが点いていない。
それに気づいたところで奏多は歩調を速め、玄関のドアノブを掴んだ。鍵はかかっていない。そっと引き開けて、手探りで壁のスイッチを押す。そうすると天井の光の神核が作動して室内がぱっと明るくなった。
室内は酷く荒らされていた。机がひっくり返り、ソファが大きく移動し、カーテンが破られ、食器が割れている。まるで嵐が通過したかのような有様だった。空き巣か。いや、『金目のものを探す』というよりは『破壊した』という室内の様子だ。これは一体――。
「……ッ、宙ッ!」
視線を少し下へ向ければ、テーブルの足元に弟が倒れているのが見えた。奏多は荷物を放り出し、その傍へ駆け寄る。
「宙、宙! どうしたんだ、しっかり!」
もうすぐ十七歳になる少年としては小柄な宙だったが、意識を失った弟の身体は非常に重く感ぜられた。なんとか支え起こしてやると、その異常な体温の高さが掌越しに伝わってくる。
「宙……!」
「……兄さ、ん……」
呼びかけると、宙はうっすらと目を開けた。健康が取り柄だったはずの宙の瞳は熱に浮かされ、なんとも虚ろなものになっている。
「あれ……俺は……?」
「ここで倒れていたんだよ。何があったの?」
動揺は隠してそっと尋ねると、宙は辛そうに目を閉じた。
「神核エネルギーの……注入実験……」
「!?」
「最初だから、副作用があるかも……って……割と平気……だったから、帰ってきたんだけど……なんか、気分悪くなって」
少量ならば回復効果を望める、神核の抽出液。それを基準以上の量人体に注入することで、人は爆発的な力を手に入れることができる。しかしそれは非人道的なことで、爆発的な力は一時のこと。すぐに悪影響を及ぼす諸刃のものだ。
特務師団。最近は『王冠』などと呼ばれるようになった彼らは、神核エネルギーを自ら注射することで化け物のような戦闘能力を手に入れていた。
宙も、今は見習いとはいえその一員だ。
驚きのあまり絶句してしまった奏多を、宙はうっすらと見上げる。
「兄さん……俺、何した……?」
「あ――……ああ、いや。……何もしてないよ、大丈夫。ちょっと熱があるんだよ、宙。少し休もう」
奏多は微笑んで宙を支えおこし、宙の部屋へと連れて行ってやる。寝台に横たえた宙が完全に寝入るのを待って、奏多はリビングへと戻った。そこで、横倒しになった家具などを起こし、粉々になった食器などを片付けていく。
神核エネルギーを注入し、一気に超人的な力を手に入れるということは、大きすぎる力をその身の内にくすぶらせ、持て余してしまったということだ。それを発散する術を知らない宙は、破壊衝動のままに暴走してしまったのだろう。
宙は特務師団が行っている学生の適正調査で引っかかってしまい、無理矢理王冠の見習いに編入されてしまった。奏多は無論それを阻止したかったのが、不可能であった。宙は勿論運動神経等が秀でているために王冠に引き抜かれたのだが、反矢吹を掲げる奏多への人質という意味合いもあったと思われる。
なんとかして宙を解放してやりたい。宙は王冠を嫌っているし、そんな集団に弟を所属させておくのは奏多には我慢できないことだったからだ。今回のようなことが今後もあるとしたら、強硬な手段も取るかもしれない。
「……くそっ……!」
割れたグラスの破片を思わず握りしめてしまい、掌に血が滲む。それすら気にしないほどの苛立ちが、奏多を襲っていたのだ。
――俺だけならいい。だが、父を奪っておいてこのうえ弟にまで手を出すのは、許せない。
必ず、矢吹を討って父の仇をとり、青嵐を立て直す。
……いつから俺は、こんなに黒い考えばかりするようになったのだろうな。そう――せめて宙の前でだけは、いつも通りの『天然な兄さん』でいないと。この件に、宙を巻き込む気はないのだ。少なくとも、今はまだ悟られたくない。
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部屋の片づけを終えると、室内はまずまず元通りになった。破かれたカーテンや割れた食器は修復のしようがないので、宙に聞かれたら「また転んじゃって」とでも言えばいい。
台所には野菜や肉といった食材に、包丁や鍋などの調理器具が出ていた。おそらく宙は夕食を作ろうとしていたのだろう。ここ最近、食事は宙に任せていたのだ。包丁を見て、奏多はほっとする――良かった、早まって包丁を手に暴れたりしなくて。もしそんなことになっていたらと思うと――今になって肝が冷えてくる。
材料的に何を作ろうとしていたのかはすぐに分かったので、奏多はそのまま料理を始めた。男三人で暮らしていた時、奏多は兄というより母親的存在だった。家事が全くできない父をサポートしている間にいつの間にか家の主導権は奏多が握るようになっていた。そして、今度はその役目を宙が引き継いでくれている。奏多より余程マメな宙は、いつだって家の中を綺麗にしている。
とりあえずひとりで食事を終えてから宙の部屋に行くと、宙は寝台に身体を起こし、枕元に置いてあった水を飲んでいるところだった。奏多は微笑む。
「宙。気分はどう?」
「ん……さっきより少し良くなったよ。ごめん兄さん、心配かけて」
相変わらず元気はなさそうだが、ずっと顔色は良くなっている。まだ一時間かそこらしか経過していないというのに――これが神核エネルギーの治癒作用か。
「いる?」
「うん」
これだけで話が通じるというのも、兄弟ならではか。奏多は台所で夕食のスープを温め直し、パンを添えて宙に差し出した。宙はスープを口に運び、顔をほころばせた。
「久しぶりだな、兄さんの料理。俺が作るのより、ずっと美味い」
「そうかな?」
「うん、そう」
嬉しそうに食事を続ける宙を見て、奏多はそっと目を伏せる。
一体何度、『宙と一緒に玖暁へ亡命しよう』と考えたことだろう。李生が亡命した当時玖暁は悪政皇の御代、青嵐人が玖暁で生きていくのは厳しい時代だった。だが現在は皇が変わり、青嵐人にとって青嵐より玖暁は住みやすい国となっている。おそらく李生の口添えがあれば、玖暁の皇都での生活を保障してもらえるだろう。
だが、奏多はそうはできなかった。父をこの地に残していくのは嫌だったし、奏多を頼ってくれた仲間たちもいる。彼らを見捨てることはできない。
だから――宙だけでも玖暁に、とそう思って、いつも言い出せなかった。今回ばかりは、提案してみるべきだろう。玖暁の強大な皇の庇護下にあれば、王冠もそう手出しは出来ない。
――逃亡幇助で奏多が処刑されるにしても、宙だけは。
「……ねえ、宙――」
「兄さん、神都の傍の遺跡からすごい神核が発掘されたっていうの、知ってる?」
「え?」
奏多の言葉は宙の声に遮られてしまった。あるいは、意図的か。
「すごい神核?」
「そう。炎の神核らしいんだけど、それひとつで普通の神核の何百倍もの力があるんだって」
「!?」
「今日、偶然それを立ち聞きしちゃってさ。いま研究段階に入ったらしいんだけど、矢吹のことだからきっと玖暁との戦争に使うよな」
「……だろうね」
そんな神核を使えば、きっと一国の領土は火の海と化すだろう。使えるものは何でも使う主義の矢吹が、それを逃すはずがない。
「俺、その神核についてちょっと調べ回ってみるよ」
「調べ回るって、なんで……」
「どんな威力で、どんなことに使われようとしているのか分かれば、李生さんに伝えられるだろ?」
その言葉で、奏多は身を硬直させた。対する宙は朗らかなものである。
「知ってるよ、兄さんが李生さんに青嵐の情報流しているの。……玖暁の力を借りたいって思ってるんだろ」
「宙……」
「気付いてないと思ってた? 俺、ちゃんと兄さんの性格知ってる……父さんが殺された時点で行動を起こすはずの兄さんが大人しくしてるんだ。何か企んでるなってのはすぐ分かるよ」
――ああそうだ、宙はこういう子なんだ。隠そうと思ってもすぐ見破られる。兄の策謀深い性格は、とうの昔にお見通しだ。隠していた方が滑稽か。
「――俺は李生に協力を仰いでいるんじゃない。彼らを利用しようとしているんだ」
「うん。でも、俺にとってはどっちでも変わらない。俺は特務師団内部に堂々と入れるんだ、立場は利用しなきゃ。だから協力させてよ」
察していたのだろう。奏多が、宙だけを安全なところに逃がそうと考えていることを。ここまで来て弟を手放すのは、あまりに無責任か。それに正直、特務師団内部の情勢は知りたいところだった。すっかり権威の弱くなった騎士団では、特務師団の本部にさえ立ち入ることができない。
「……分かった。お願いするよ、宙。ただしくれぐれも無理はしないように」
「了解」
任されたのが嬉しいのか、宙は笑顔だ。まあ――辛そうな顔をしているより、笑っていてくれる方が宙らしい。
それにしても巨大な神核か――これはまた、厄介なことになりそうだった。




