駆け落ちの旅2
翌朝目を覚ました時には、既に彩鈴の一行は出発した後だった。別に宙と蛍が寝坊したわけではなく、黎たちが早朝に街を出たあとだっただけだ。国王があまり長いこと国を空けるのは良くないので急いでいたのだろう。
さて朝食でも、と起きだしたところで、扉がノックされた。慌てて宙が応対に出ると、それはこの宿の主人だった。主人は「勝手ながらこちらで朝食を用意させていただきました」と言ってきたのだ。それは昨夜の騒動でのお礼なのだそうだ。用意してもらった料理を食べないのは罰当たりだから、宙も蛍も有難く好意を受け取った。
そして食事も済んで、物資の調達のために街を出ると、あちこちの店の人間たちがそれぞれお礼をしてくれた。肉屋で買い物した際は干し肉をおまけしてくれて、新しく毛布を買い替えると割引してくれた。それ以外にも色々と食べ物をもらい、とても良くしてくれた。
「なんか、ここまでされると気分が落ち着かない」
蛍がパンの入った袋を見下ろしながら呟く。これもつい先程手渡されたものである。宙は苦笑した。
「それだけ、俺らがしたことに大きな意味があったってことだよ。あって困るものじゃないんだ、有難く受け取っておこう」
「うん」
これで金銭でも渡されたら、宙は即座に突き返すだろう。だが物ならば有難く受け取れる。何より、もらえるものはもらっておくのが宙の性格だった。
そうしてふたりは久遠の街を出発し、程なく彩鈴との国境に到着した。関門も問題なく突破し、無事彩鈴王国に入国を果たした。
と言っても、これから険しい山道が待ち構えている。蛍は山道を歩き慣れているが、宙は登山という経験があまりない。ばてないように体力を温存しなきゃ、と宙は最初からセーブをかけている。だが徒歩の登山者は割と多く、宙と蛍は偶然出くわした王都へ向かう隊商と共に山を越えることができた。宙と蛍がふたりで放浪の旅をしているのを聞くと、隊商の商人たちは色々と旅の知恵を授けてくれたのである。
「にしても、まだふたりとも若いのになんで放浪なんてしてるんだ? 世捨てには早いだろうに」
隊商の隊長である男が、宙にそう尋ねた。親切にしてもらっている礼にと、大山脈中腹での休息で宙が料理の腕を披露しているときのことである。やはり料理の苦手な蛍は、隊商の女性に交じって荷物から皿やらなんやらを出している。
「ちょっと前に、ある人たちと一緒に旅をしていたんだけどさ。そうしたら、いかに自分の世界が狭いかを痛感したっていうか、俺は何も知らなかったんだなって分かったっていうか。だから一年間っていう条件付きで、あちこち見て回ってるんだ」
「へえ、若いのにしっかりしてるな……で、あの女の子とは恋人なのかい?」
ぶっ、と宙が吹き出す。その拍子にスープの鍋の中にかき混ぜていたおたまが落ちてしまった。そして激しくむせ返り、おろおろと商人の男が宙の背中をさする。
「お、おい。大丈夫か?」
「げほげほっ……う、うん、ごめん……」
宙は目に浮かんだ涙を拭いながら頷く。ひょいっと鍋の中からおたまを掬い上げ、水で洗ってもう一度スープをかき混ぜる。
「恋人……じゃ、ないと思う」
「そうなのか? お似合いに見えるけど」
「俺は、蛍のこと大好きだよ。守ってあげたい」
宙ははっきりとそう認めた。だが宙の表情は曇る。
「でも蛍が俺のことをどう思っているのかは分からないし……俺が守らなくても、蛍はすごく強いから」
腕っぷしも、ともすれば宙以上の膂力を発揮することもある。精神的にも、彼女が弱音を吐いたところは見たことがなかった。勿論宙は、以前旅の途中で蛍が知尋に『恋愛相談』なるものを持ちかけたことは知らない。お互い好きなのに、「面と向かって好きと言う勇気がない」宙と「これが恋とは気づかない」蛍の関係は、なかなか進展しないのであった。見ようによっては滑稽かもしれない。
すると隊商の隊長は、急に真面目くさって宙に言った。
「いいかい坊主。女ってのは強そうに見えて脆いところがある。脆そうに見えて強いところがある。そういう生き物だぞ」
「は、はあ」
「強そうに見えるあの子も、どこか脆いところがあるはずだ。それを支えるのが、お前の役目なんだ」
宙も表情を改める。蛍の脆い部分。彼女が取り乱すような場面。そう言えば一度だけ、見たことがある――。
あれは、宙が連城の奪還作戦に参加し、任務を終えて帰還した時だった。後衛で負傷者の治療などにあたっていた蛍は、帰ってきた宙を見て、安心すると同時に必死な様子で宙に怪我がないかを確認していた。つい英語を口にしてしまったあたり、どれだけ心配させていたのだろうか。
すると、スープの皿を持って蛍が傍に歩み寄ってきた。しゃがんでいた宙が蛍に気付いて見上げると、蛍は心配そうに尋ねた。
「咳き込んでたけど、大丈夫?」
「あ、ああ。ちょっとむせただけだから、大丈夫だよ」
宙はそう言って、安心させるように微笑んだ。それを見て蛍もほっとしたように微笑む。
――とりあえず宙は、自分の安全第一で生きたほうがいいのだろう。
宙の作った夕食は隊商の人々に好評だった。これで完璧に隊商と打ち解けた宙と蛍は、そのまま連れだって大山脈を越えた。みな徒歩なので、実に七日間の旅だった。
王都の依織に到着し、名残惜しかったがふたりは隊商と別れた。市場のほうへ向かう隊商に手を振りながら、その姿が見えなくなって蛍が呟く。
「良い人たちだったね」
「ああ、いつかまた会えるといいな」
宙は同意しつつ、くるりと踵を返す。隊商は世界を移動している集団だ。いずれ会うこともあるかもしれないが、その確率は決して高くはない。何より宙は一期一会を重んじる性格だから、「元気でな!」と別れるのが一番しっくりくるのだ。
「さ、俺たちも行こう。今日は依織観光だ」
「うん……!」
宙と蛍は彩鈴の王都をぐるりと見て回った。さすがに玖暁の皇都である照日乃ほどの娯楽施設や観光名所はなかったが、山々に囲まれた街の様子は雄大だった。王城、騎士団宿舎、近隣諸国最大級の学術施設などを見物したあとは、商店街へ足を踏み入れる。休日の昼時ということもあり、商店街は賑わっていた。年頃の少年少女も多いようだ。
二人肩を並べて歩いていると、くいっと蛍が宙の服の裾を引っ張った。
「ねえ宙、あれ」
「うん?」
蛍が指差す先を見やると、少し離れたところに、ふたりと同年くらいの若い一組の男女がいた。手をつないだまま、装飾品店の前で立ち止まっている。
「あのふたりがどうした?」
「どうして手を繋いでいるのかなあって」
「……え」
不意打ちをくらった宙は言葉に詰まった。蛍のほうはあくまでも無邪気だ。
「さっきから男の人と女の人はみんな手を繋いでいるから。何か意味があるの?」
「う、うーん……すごく仲が良いことの象徴? みたいな……」
宙はしどろもどろに答える。こういうところでずばっと「恋人同士だからだよ、ほらこんなふうに」と言えないのが宙の弱さである。するとどう解釈してしまったのか、蛍はさらに爆弾を投げつけてきた。
「じゃ、私たちも」
「ふえ!?」
宙が仰天した瞬間に、蛍が右手を伸ばし、宙の左手をきゅっと握った。宙はかあっと真っ赤になる。
「駄目?」
少し小首を傾げて宙の顔を覗き込みながら、蛍が尋ねる。宙は空いている右手で頭を掻き、それから視線を僅かに逸らす。
「……どうせなら、こっちのほうがいい」
一度蛍の手を離し、今度は自分から蛍と手を繋いだ。指はしっかり絡め、俗にいう恋人繋ぎである。勿論蛍がそれを知るはずもなかったが、それでも手を繋げたことに満足したようだ。
どこからどう見ても年頃の似合いの恋人同士であるふたりは、のんびりと市街を散策した。昼食がてら色々と食べ歩き、それが済めば自然と手は繋ぎ直す。さすがに宙も蛍と手を繋ぐことに慣れてきたころ、今晩の宿を探すためにふたりは商店街を離れた。人通りが一気に減った通りを歩いていると、蛍がつなぐ手に力を込めた。
「……宙。誰かがついてきてる」
「うん、知ってる」
宙は即答した。蛍が声をかける数秒前に、宙もそれを悟っていたのだ。後方にいる誰かが尾行している。残念ながら宙には、尾行されるほどの悪事を働いた覚えはない。
宙は何気なさを装い、特に足を速めるでもなく歩き続けた。そして路地への道を曲がった瞬間、宙は蛍の手を引いて駆け出した。
宙も蛍も、並外れた脚力と瞬発力の持ち主だ。走って彼らに追いつける者などそういないはずなのだが、なんと尾行者は追いついてきた。足音が近づいてくるのを感じ、宙の背筋が凍る。そして首筋に冷たい敵意を受けた瞬間に、宙は蛍を抱きかかえる形で横っ飛びに跳躍した。宙の首があったところを正確に短刀が飛んでいく。その短刀はだいぶ前方の地面に落ちた。
宙は半ば刀を抜きつつ、襲撃者と向きなおる。相手は一人だった。と、宙が背後に庇っていた蛍があっと声を上げた。
「琥珀!」
その叫びを聞いて、宙は改めて襲撃者を見つめた。背の高い、20代後半と思われる男性。その表情は非常に落ち着き払っている。
宝石の名をもつ人間。蛍の元々の名が「蛍石」であるように、この男も蛍の一族の人間なのだろう。彼女が恐れていた一族の追っ手である。
『蛍石。迎えに来た』
最初から英語なのは、宙に聞かせないためだろう。だが生憎、宙は完璧に内容が分かる。
『帰らないわ』
蛍は毅然として首を振る。琥珀という男は、宙に目を向ける。面長の目が更に細められ、宙を睨んでいる。
『この子供に誑かされているのか? 人間にろくな奴はいない。目を覚ませ、蛍石』
色々とかちんと来た宙だったが、「子供」と呼ばれたところには突っ込まないでおくことにした。
『あんただって同じ人間だろ。自分のことを棚に上げすぎじゃないの? 偉そうなことを言う前に、少しは自分を省みたらどうだい』
『……! なぜ我らの言葉を喋れる?』
琥珀は驚いて目を見張った。そしてゆっくりと身構えた。その手には短刀が握られている。
『……蛍石、外部の者に情報を明かしたのか。掟に反すると知ってのことか!』
「蛍、走れっ!」
宙が叫ぶのと、琥珀が宙に踊りかかるのは同時だった。抜刀した宙が、琥珀の短刀を弾く。宙を甘く見ていたのか、琥珀がその膂力に驚いてよろめく。その隙に宙と蛍は疾走を再開していた。琥珀が呟く。
『情報漏洩は最も忌避すべきこと。蛍石は必ず里へ連れ帰り、あの子供は殺してくれる』
その死神の呪詛のごとき呟きは、快足を飛ばす宙と蛍にはもちろん聞こえなかった。しかし琥珀が追跡を開始した気配だけはすぐにわかる。宙は蛍を先に走らせ、自分の背をもって彼女を守る形をとる。
空気が切り裂かれる音がする。反射的に振り返り、宙は刀を一閃させる。飛来した短刀は地に叩き落とされた。恐るべき正確性と威力の投擲術だ。蛍もそうであるが、彼ら一族は揃って武芸を極めているらしい。
薄暗い路地裏を駆け抜けると、彼らは再び大通りに戻ってきた。しかも、商店街のほうである。先程まで辟易していた人混みも、このときばかりは神の助けのようだった。
刀を鞘に収めた宙と蛍は、あっという間に群衆に紛れた。それを追おうとした琥珀だったが、背中に堅いものが押し当てられた。それが何かを悟り、琥珀は硬直する。
「動くと死ぬよ」
聞こえたのは、溌剌とした少女の声だ。自分の背中に押し当てられたのは拳銃の銃口だ。
「まずその物騒なものをしまおうか」
どうすることもできず、琥珀は少女の言葉に従った。短刀を収めたが、まだ銃口は突きつけられたまま解放してはくれない。
「ここで騒ぎを起こすと、王都の警備がすっ飛んでくるよ。一網打尽にされても気にしないなら追ってもいいけど、その時はあたしが相手になる。どうする?」
「……分かった、追わない」
たどたどしく琥珀が答えると、銃口がすっと下ろされた。琥珀が振り返ってみると、そこには自分に声をかけたらしい少女の姿はなかった。なんという早業、常人ではない。そう思いつつそれらしい人間を探してみたが、やはり分からない。宙と蛍も見失ってしまった。琥珀は舌打ちし、追跡を諦めて踵を返した。
琥珀に銃を突きつけた少女、時宮奈織は、琥珀を解放した瞬間に群衆に紛れ込んだのだ。琥珀がその場を去るのを確認し、ほっと息をつく。
「やれやれ……何したのか知らないけど、あんなおっかないのに追いかけられるなんて、宙も蛍も大変だねえ」
奈織はそう嘆息する。勿論彼女がここにいたのは偶然である。買い物の途中、路地から飛び出してきた宙と蛍を見て声をかけようとすると、ふたりを追って得体の知れない男が出てきた。しかも男は武器を持っている。奈織は咄嗟に銃を取り出し、大事な友人たちが逃げる時間を稼いだのだ。
「ま、このくらいの手助けをしても宙には怒られないでしょ」
奈織はそう呟き、買い物を再開したのだった。
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いつの間にか王都の郊外まで来てしまっていた。宙と蛍はようやく足を止め、さすがに切れた息を整える。
「はあ、撒いたか……」
宙がほっと息をつく。蛍が申し訳なさそうに目を伏せる。
「ごめんね。結局巻き込んで……」
「蛍のせいじゃないんだから、謝らなくていいよ」
宙は微笑んだが、ふと表情を改める。
「これじゃ、王都に戻るのはよしたほうがいいな……このまま街を出ようか」
「うん……」
浮かない顔の蛍に、宙は向き直る。そしてそっと蛍の両肩に手を置いた。
「――なあ、蛍? もう一度蛍の気持ちを聞かせて」
「え……?」
「さっきあの男から逃げたのは、俺が蛍を手放したくなかったから。俺の自分勝手だ。蛍はどうなの? 蛍は、帰らなくていいのか?」
そう尋ねると、蛍はきっと顔を上げた。
「……帰らない! 帰りたくないよっ……」
その強い言葉を聞き、宙は微笑んだ。
「……分かった。一緒に逃げよう」
「宙……!」
蛍の顔に再び笑顔が戻った。宙は頷き、二人は街の外へ向けて歩き出した。




