閑話 忠誠を誓いし者
再生暦5019年11月-5020年5月
時宮黎――27歳-28歳
桐生奏多――26歳
何の因果か、かつて黎が一方的に宿敵扱いにしていた桐生奏多は、旅の仲間として心強い存在になっていた。黎はあれから奏多の情報を私的に集めていたので、青嵐の都で彼と顔を合わせた瞬間に、あの時の男だと気付いた。だが奏多のほうは黎の顔を見ても表情を変えず、名乗っても朗らかにしたままだった。彼の性格を知れば知るほど、「こいつは気付いていないのだな」と確信するようになってきた。
だから黎のほうも、特にしがらみなく奏多に接していた。あのころに比べるとかなり強くなった黎と奏多だが、黎の実力は今や抜きんでていた。一対一では相変わらず奏多が無類の強さを誇るが、総合的にいま黎が競うべきは、玖暁の騎士団長である御堂瑛士だった。だが黎は、別に瑛士を抜かそうとは思っていない。この並外れた強力な騎士と肩を並べることができるということが、黎の誇りだ。
真澄らが玖暁を奪還した、その日の夜――。
今後の対策を真澄らと話し合っていた黎は、あてがわれた部屋に戻る途中で通ったサロンでふと足を止めた。そこに置かれたソファに、ごろんとだらしなく奏多が横たわっていたのだ。片方の肘置きに頭を乗せ、反対側の肘置きに長い足を乗せている。
「他国の皇の城で、いささかだらけすぎだぞ。奏多」
呆れたように声をかけると、奏多は笑みを浮かべた。
「いやあ、気持ちいいんですよねえ、このソファ。ふっかふかで」
奏多はそう言いながら身体を起こしてソファに座り直した。黎は空いた場所に腰を下ろす。
「にしても、できちゃうもんなんですねえ」
「……何がだ?」
主語を抜かす癖のある奏多には慣れたつもりだが、話の流れも分からない上にふたりきりではさすがに無理だ。
「最初はたった数人だったのに、国ひとつ取り戻せるなんて、って。この大陸の三か国が手に取りあえるっていうおまけつきでね」
「それだけみなの器が大きいということだな」
「それもそうですねえ」
奏多は頭の後ろで腕を組む。
「これで昔みたいに、俺と貴方が殺しあう必要も、もうなくなりましたね」
「……なんだって?」
黎が驚いて視線を向けると、奏多は「ははは」と微笑んだ。
「あれ、会ったことありましたよね? 青嵐と彩鈴の国境の森で」
「覚えていたのか!?」
「正確に言えば思い出したんですけどね。青嵐の俺の家で、時宮さんと顔を合わせたときに」
黎は完全に脱力した。そんな前から分かっていて、なぜこの男は表情に出ないのだろう? 鈍いのか、そういう技術なのか。とにかく、色んな意味で恐ろしい男だ。
「……あの時のお前は、恐ろしかったぞ」
白状すると、奏多が肩をすくめる。
「俺だって怖かったですよ。あんな大振りに槍を扱う人、見たことありませんでしたし。できれば二度と会いたくないと思っていたんです」
「去り際に挑発的な言葉を残しておいてか!?」
「え。そんなこと言いましたか?」
「言った! あれがどれだけ癇に障ったか……!」
憤ってから、黎は我に返った。若いころの激情が蘇ってきてしまったのだ。いつも冷静沈着だった黎がいきなりこんなことを言えば、隣で奏多が目を丸くしているのは当然だ。
「……ははっ」
奏多が吹き出した。ばつが悪そうにそっぽを向いた黎に、奏多が笑みを向ける。
「俺たち、うまくやっていけるんじゃありません?」
「……当然だ」
黎はふて腐れたように、しかし確かに頷いた。奏多が差し出した手を、黎はしっかりと握ったのだった。
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「はあ、やれやれ。やっと帰ってきた」
なんとも不甲斐ない台詞とともに、狼雅は執務室の椅子に腰を下ろした。それを見た黎が軽く肩をすくめる。
「貴方は馬車の中で座っていただけでしょう。まさかそんな嫌々、兄皇陛下と巴愛殿の婚礼の儀に臨んでいたとは思いませんでした」
「どうしてそこまで勘繰るかね。やっぱり故郷のこの場所が一番落ち着くと思っただけさ」
再生暦五〇二〇年五月。玖暁で執り行われた真澄と巴愛の婚礼の儀に、狼雅は主賓として、黎はその護衛として参列したのである。そして大山脈を越え、彼らは彩鈴の王都に帰ってきた。普段あまり遠出をしない狼雅にしてみれば、かなりの運動だっただろう。
「しかしまあ、ついに真澄に先を越されてしまったなあ。いつになったら俺も結婚できるんだろうか」
「そういうことは、相手を探す気力を出してから言ってください。このままでは、次の王は貴方の従弟殿ということになってしまいますよ」
「それはそれでいいんじゃないか?」
「良くないでしょう。あの人は旧体制派の人間ですよ」
「それはあいつの家系の話であって、あいつ個人の話じゃないぞ」
狼雅は、侍女が淹れてくれた紅茶を口に運ぶ。
「大丈夫さ。俺が死んであいつが王になるころには、諜報制度を復活させようなんて民衆が許さなくなっている。そこまで持っていくのが、俺とお前の役目だろ?」
「……ええ、そうですね」
「そうそう。それに考えてみろ、世襲なんて馬鹿馬鹿しいものは他にないぞ。青嵐はもう、国王という元首なしで生きることを決めた。そのうち彩鈴も玖暁も、同じようになるだろうよ。王さまなんていらない、俺たちは俺たちだけで生きるんだ……ってな。そんな時代はすぐそこまで来ている。俺や真澄たちは、その時代が来るまでの責任者みたいなもんさ」
狼雅はいつになく饒舌だ。きっと狼雅は、そんな時代が来ることを待ち望んでいるのだろう。昔から、誰よりも民衆の力を信じていた男だ。
「……で、時に黎」
「はい?」
急に改まって声をかけられ、つい黎は身構える。狼雅は大きな卓の上で指を組み、直立している黎を見上げる。
「彩鈴の諜報制度は、今年中に廃止する。お前も騎士として生計を立てているし、奈織も立派に自立した。……お前が俺に忠義を尽くす理由は、なくなったというわけだ」
「……」
「だからこそもう一度聞かせてほしい。お前はどうする? 玖暁には御堂もいる――お前がそちらに行きたいなら、俺は止めん。止める権利はない」
黎は小さく溜息をついた。
「……それにお答えする前に、一言申し上げます」
「ん」
「貴方は阿呆ですね」
「……仮にも主君に向かって何をほざきやがる」
「私にもしそんな気があったなら、とっくに貴方を殺していますよ」
堂々と物騒なことを言ってのけた黎に、今度は狼雅が沈黙した。黎は僅かに肩に入っていた力を抜く。
「貴方は、私が貴方にお仕えしている理由が『利害が一致したため』であるとしか認識していなかったようですね。甚だ心外です」
「奈織の生活の安全が保障されているから、でもあるんじゃないか?」
「もっと根本的なことです。私は貴方に命を救っていただいた。そのご恩は、これしきのことで返せるほど軽いものではありません。少なくとも、私にとっては」
不敬にも狼雅を殺害しようとした黎を、どんな思惑であったにせよ救ってくれた狼雅。黎がそのことに感謝しているのは本当のことだ。もしあそこで狼雅が黎を殺していれば、奈織の安全など言っていられなかった。
「兄皇陛下らと長く旅をして、分かったことがあります。確かにあの方は、私に経験したことのない安らぎを与えてくれました。けれどそれは主従として傍にいたからではない――恐れながら、私と兄皇陛下らは対等な『仲間』でした。兄皇陛下も瑛士も、そう言ってくれた」
「ああ」
「ですから、私が忠誠を誓うべき真の主君は、貴方以外にはいないのですよ。狼雅さま」
狼雅は目を瞬いた。まさか黎がそんなことを言うとは。言っていて黎も、気恥ずかしさに襲われている。
「……そんな風に、思っていたのか」
「つい最近から、ですが」
「ふむ。ならばお前に阿呆と言われても仕方がないかもしれんな。俺はずっと、お前が俺の指示に従ってくれるのは奈織という人質を取っているからだと思っていた」
「奈織を人質に差し出した覚えはありません。そんなことをされていたなら、本当に問答無用で斬っていましたよ。私が傍にいたのは、私自身の意思です」
狼雅はほろ苦い笑みを湛えた。その表情はどこか満足げだ。狼雅は黎から視線を外し、あらぬ方を見やる。
「……はは、そうかそうか。お前のことは頑なな奴だと思っていたが、実際に頑なだったのは俺のほうだったようだな……」
どうして狼雅がいま視線を逸らしたのか。その理由がなんとなく分かる黎だったが、そのことについては何も言わない。
「……狼雅さま。遅まきながら、貴方に忠誠をお誓い申し上げます」
黎はそう言うと、椅子に座っている狼雅の前に跪いた。人生で初めて、黎は膝を折った。長いこと狼雅の傍に控えてきたが、こうやって仰々しくしたのは初めてだ。
かつての自分なら、死んでも狼雅の前に跪いたりしなかった。だが今は――こうすることに何の抵抗もない。
色々と面倒をやらかす、困り者の王さまだが、黎はそんな彼に感謝をしている。玖暁の真澄に瑛士という忠実な騎士がいるように――彩鈴の狼雅には、自分がついていてやりたい。
昔から、何かと孤独な生活をしてきた狼雅だ。それを知っているからこそ、支えになりたい。
「この身が朽ち果てるまで、私は狼雅さまと共にあります。ですからどうか、お見捨てなきよう」
黎が頭を垂れたままそう言うと、前方で狼雅が椅子から立ち上がった気配がした。何をするのかと思ったら、彼は黎の肩に手を置いた。
「……彩鈴に比べたら、玖暁のほうがよっぽど豊かで、騎士団も強くて、皇も優しいぞ。それでも、ここにいるのか」
「はい。貴方に用済みと言われない限り」
「……誰がそんな罰当たりをするものか」
狼雅の声が震えてくぐもっている。だが黎は顔をあげなかった。狼雅が、誰よりも弱みを見せることを嫌うからだ。
黎は真澄に仕えたがっている。狼雅は本気でそう思っていた。確かに黎も一度はそんなことを口走った。目的を達した今、黎は自由にさせてやろう。彼が望むなら玖暁に送り込んでやることも、本気で考えていた。黎の人生を狂わせてしまった狼雅にできる、精一杯の誠意だったのだ。
狼雅は、自分が真澄と知尋に遠く及ばないということを自覚していた。人望も、軍略も、何もかも。だからこそ黎が忠誠を誓ってくれるというのは、彼にとって泣くほど嬉しいことなのだ。
「手放してやるものか。もう二度と玖暁は引き合いに出さん。お前がいつか俺を選んだことを後悔しても、許さんからな」
「はい」
黎は少し微笑んだ。
後悔など、しない――黎はそう思う。
黎と狼雅は、ここからまた再スタートを切る。今度は同志ではなく、主従として。彼が理想とする国づくりを傍で支え、見守り、時には障害となるものを排除する。それがこれからの、黎の使命だった。
それと同時に、自分を良い方向へ導いてくれた仲間たちに、最大の感謝を捧げよう。




