儚き明日7
再生暦5014年8月-5019年6月
時宮黎――22歳-27歳
時宮奈織――13歳-18歳
「くっそ! 爆発物なんぞ取りつけやがって……!」
狼雅はびくとも動かなくなった非常口の扉に向けて体当たりをしたが、やはり扉は開かない。爆風の影響で扉も歪み、開かなくなってしまった。狼雅を殺すために、この階のどこかに自爆用の神核を取りつけてあったのだろう。おかげで、もうすぐ傍まで火の手が迫っている。
少女がぎゅっと狼雅にしがみついた。それに気づき、狼雅は少し冷静さを取り戻す。幼い少女がいるこの状況で、大人の自分が取り乱してはいけない。他に出口を探さなければならない。
煙が充満してきた。火事で真に恐ろしいのは炎に焼かれることではなく、その煙を吸い込むことだ。少女の鼻を手拭いでしっかり覆い、自身も和服の袖口で押さえる。
助けを待つには絶望的な状況だ。さあどうする、考えろ――。
『……王太子殿下! そこにいらっしゃいますね?』
不意に聞き覚えのある声が響いた。狼雅ははっとして、自分が背にしていた非常口を振り返る。その扉の向こうに、人がいる!
「黎っ! ここだ!」
狼雅は非常口を叩いた。すると外から黎の声が聞こえる。
『扉から離れてください。後ろへ五歩、なるべく扉の真正面は避けて』
言われた通り、狼雅は扉から遠ざかった。背後はすぐ炎だ、これ以上は下がれない。
僅かな沈黙。そのあとに響いたけたたましい音。扉が悲鳴を上げ、室内へ吹っ飛んできた。剛速球で飛来した扉に顔面を殴られそうになった狼雅は、慌てて身を低くしてそれをやり過ごす。扉はそのまま炎の中に飛び込んでいった。
「大丈夫ですか?」
そこにいたのは槍を手にした黎だ。狼雅は今の状況も忘れ、疲れたような笑みを漏らす。
「……お前が吹き飛ばした扉にこそ、俺は生命の危機を感じたぞ」
「それは失礼。この一年、槍での刺突に力を入れて訓練してきましたから、相当な威力でしたでしょう。当たっていたら、きっと貴方の顔面は真っ平らになっていましたよ」
「お前って奴は……」
悪びれるでもなく黎は微笑んだ。そして狼雅にしがみついている少女をひょいと取り上げ、逆の手で黎は狼雅を支えた。黎に支えられて慎重に非常階段を降りた狼雅は、地上に到着した途端に力尽きたように地面に座り込んだ。
「今回ばかりは、さすがにふざける余裕がなかったな……ところで黎、だいぶ迅速な行動だったな」
狼雅は疲れたように黎を見上げる。黎は少女を医者に引き渡してから狼雅を振り返る。
「そりゃ、これは私が画策したことですからね」
「……聞き捨てならん言葉が聞こえたが、なんだって?」
「俗にいう、囮捜査というやつですよ」
この数日間、黎は自ら狼雅の叔母のもとへ潜入していた。水紀という王妹はすでに国内の公爵家へ嫁いでおり、その屋敷には大量の侍従や侍女がいる。黎はそこに紛れ込んだのだ。まるで最初からそこにいたかのように、違和感なく。これは学生時代青嵐で諜報活動をした経験が役に立ったとしか言いようがない。一兵の部下がいないからこそ、できたことだ。
特に怪しまれることなく王妹に近づいた黎は、彼女に重用されているひとりの使用人の耳元にささやいたのだ――狼雅が使用している病院の見取り図や彼の病室の場所。そして狼雅は、退院したらすぐ水紀に令状を突きつけるつもりだということ。証拠などなくとも、王太子であれば証拠のでっち上げなど簡単であろうことを。
使用人づてにそれを聞いた水紀は焦った。ただでさえ兄王が死んで動揺しているのに、狼雅を階段から突き落としたのが自分の差し金であることがばれたら、息子の王位は絶望的。首謀者である水紀は、王太子殺害未遂で、限りなく極刑という道が待っている。
だったらその前に殺してしまえ――ということだ。
黎はその使用人に自爆用の神核を渡していた。それは火の神核を少し改良したもので、勿論奈織が作成した。火事に見せかけて、狼雅の部屋の近くに取り付けた神核を爆発させれば、疑われずに狼雅を殺せると、黎はそそのかした。そしてそれが実行されたのだ。
「実をいうと、私も実行犯としてここに来たんです。で、もうひとり一緒に来た使用人の男が火をつけたのを確認してすぐ、取り押さえました。火のほうも奈織が消し止めました」
淡々とそんなことを語る黎に、思わず狼雅はぽかんと口を開けてしまった。
「お前……もしかしたら俺が死んじまうかもしれない、とかは思わなかったのか」
「ええ、特には」
「……ぷっ。どこから来るんだよ、その自信は……はは」
気が抜けたのか、狼雅は笑った。黎もふっと微笑む。水の神核で消火活動にあたっていた奈織と、駆けつけてきた騎士団の面々を見て、狼雅もやっと安堵の息を吐き出したのだった。
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使用人の自供により、水紀は王太子暗殺未遂で身柄を拘束された。だが彼女の息子の助命を求める訴えと、多少なり血の繋がった叔母を殺すことに気が引けていた狼雅は、彼女の爵位を剥奪し、王都から遠く離れた山岳地帯に幽閉させることにした。これで水紀は、俗世間との関わりを一切断たれた。
水紀の陰謀を暴き、王太子を救出した黎は、騎士団の部隊長に昇格された。鞍井と同じ身分である。いくらなんでも特進すぎると思ったのだが、狼雅が譲らなかった。
王の国葬には各国の首脳陣が出席した。そこには狼雅が「弟分」だと称した玖暁の皇ふたりも当然いた。狼雅が彼らと話すのを傍で聞きつつ、自分は軽く会釈を交わしただけだったが、若いけれど才能ある皇であることを察していた。玖暁の皇、鳳祠真澄と知尋は、あと数日で十九歳の誕生日を迎えるところだったそうだ。
そして年が明け、再生暦五〇一五年一月一日。樹狼雅は三十一歳、つつがなく彩鈴王として即位した。と同時に狼雅は大規模な政府改革を行った。主な情報提供国との間で、諜報に関する条約を交わした。これは情報部の縮小にも繋がり、玖暁が密かに支援をしてくれていた。さらには、黎がずっと懸念していた貧民層の住人に生活保護を受けさせ、教育機関も整えた。宮廷人の汚職も暴き、実際に捕縛にあたるのは騎士団が任せられた。そうして騎士団の権力も、少しずつ回復してきたのだ。
それまでの騎士団長は狼雅に属する騎士だったが、すでにかなりの高齢だった。そこで騎士団長は自らその座を下り、後任として黎を指名した。てっきり鞍井が騎士団長になるものだと思っていた黎が、このことに驚愕したのは言うまででもない。だが鞍井もそろそろいい歳で、狼雅の目指す改革のためにはまだ長い年月がかかる。それだけの時間をかけて騎士団を養成できるのは、若い黎にしかできないと、みなの意見が一致したのだとか。貧民の出の若造が、と詰られると予想していたが、騎士の中に家柄に拘るような繊細な人間はいなかったのである。
そうして黎は二十三歳で彩鈴の騎士団の前権を任されることになった。そして彼の権限で、鞍井はそのまま栖漸砦駐在部隊の部隊長を任せた。
諜報をなくすために必要な、狼雅の切り札は、揃ったのである。
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さらに時は移ろい、再生暦五〇一九年六月――。
玖暁方面の索敵兵が、ある情報をもたらしてきた。
青嵐軍に何やら不穏の動きあり、とのことだった。それに対して狼雅が更に確認をしようとしたのだが、時はすでに遅し、青嵐軍は近隣諸国で最強の玖暁の国境の長城、天狼砦を陥落させていた。
今まで常に玖暁に打ち払われてきた青嵐だが、青嵐の精鋭である王冠を大量投入し、工作員も巧みに使ったことが、無敵と言われた要塞を落とす原因になったようだ。彩鈴の優れた諜報員たちも、その情報に追いつかなかった。
玖暁の真澄と知尋は、狼雅の重要な協力相手だ。玖暁が滅亡でもしたら、彩鈴も後を追うことになる。それだけはなんとか阻止したいが、中立国という立場を取っている手前、堂々と兵力を送り込むことはできない。
取るべき手段はと言えば、真澄らをこの彩鈴に逃亡させることだけ。
「あの勢いじゃ、玖暁はひとたまりもねえぞ!? それでもまだ中立を貫けってか? ふん、俺は誰に何と言われようと、真澄と知尋を見捨てはしねえ」
狼雅は悶々と呟く。こっぴどく議会で、勝手な行動は慎めとお説教されたらしい。
黎は王城に奈織を呼んだ。彼女は大学を優秀な成績で卒業し、今は国立の神核研究所に勤めている研究員だ。神核への情熱は冷めることがなく、むしろ深くなっているのであった。
「奈織。お前に一つ、重要な任務を任せたい」
十八歳になっても、女性らしさの欠片もない妹は、その深刻さにごくりと生唾を飲みこんだ。
「中立国という手前、俺は騎士団を動かせないし、俺も兄皇陛下らをお助けすることはできん」
「つまり、あたしに玖暁に行けって?」
「ああ。何事もなく玖暁軍が青嵐軍に勝てば、それでいい。だがどうやらそれは難しそうだ……奈織、危険は承知で頼む。玖暁に行き、お前の目で戦況を見極めてはくれないか」
自分でも、妹に何を言っているのだろうと思う。諜報員にさせればいいものを、わざわざ無関係な妹を巻き込もうとしている。だが、中立の諜報員にはできないことがあるのだ。
それは真澄らの出迎え。基本的に身分を隠している諜報員には無理だ。
「兄貴は、玖暁が青嵐に負けると思ってるんだね?」
「……ああ」
「で、皇さまは彩鈴に逃げてくると?」
「ああ」
「分かった。皇さまを見つけたら、それとなく同行するよ。国境越えたら連絡入れる」
物分りの良い奈織に、黎は申し訳なくなってきた。それを悟ったのか、奈織が笑った。
「心配しないでよ。あたしの狙撃の腕は兄貴仕込みだよ? もしなんかあっても、ひとりで切り抜けられるよ」
「……すまんな。俺が無力なばかりに……」
「小さいころの恩返しができるなら、あたしは何でもするよ」
奈織は胸を張った。
「あたしは騎士団長からじゃなくて、たったひとりの兄貴から頼まれたんだもん。誰にも文句は言わせない。だから安心して」
「……有難う。お前から連絡をもらったら、俺も騎士を率いて出迎える」
「それじゃ意味ないでしょ」
「彩鈴領内だ、問題はない」
「へへっ、兄貴も相変わらずだね。そいじゃ、行ってきまっす」
奈織は黎に向けて敬礼の真似事をして、軽やかに部屋を飛び出していった。それを見送った黎は、ただ妹の無事を祈った。このことを狼雅に事後報告で伝えると、「でかした!」と大喜びされた。
――かくして、奈織が案内役として無理矢理同行した兄皇一行を、黎は国境地帯の山岳で出迎えることになる。
過去の因縁に満ちた激闘に、黎も奈織も巻き込まれていくのである。




