儚き明日6
再生暦5014年8月
時宮黎――22歳
時宮奈織――13歳
国境で行われた戦闘での死者は約二十名、そして負傷者はその三倍以上にのぼった。中でも部隊長である鞍井の重傷には衝撃が奔った。今回の戦闘には王冠も投入されていたために激化したが、鞍井は右肩を骨折したほかに怪我はなくぴんぴんしているし、黎と行動を共にしていた来須も無事だ。犠牲は多かったが、ひとまずはそれで良しとしよう。
黎は初陣の活躍を高く評価された。来須と共に敵を多数撃破したこと、強敵を退けて鞍井の命を救ったことは紛れもない事実であった。褒められて悪い気はしないのだが、気にかかるのはあの、ついに黎が勝てなかった青嵐騎士の若者だ。
桐生と呼ばれた男。まず間違いなく、青嵐騎士団団長の血縁だろう。息子だろうか? すでに廃れた、古流と言ってもおかしくない剣術を操り、並外れた体術を用いるあの男。
叶うならば、もう一度戦いたい――。
騎士としての強さを望む黎は、そう強く思った。だからその後、青嵐軍が砦にちょっかいを出してくるたびに黎はあの男の姿を探したが、ついに見つけることは出来ずに毎日が過ぎた。黎も実力と経験を着実に増やし、もう一度戦うことができたら負けない自信がついたのに。
――黎は案外、負けず嫌いなのだ。
そんな風に研鑚を積みながら、砦での生活が一年を過ぎたころ。栖漸砦に深刻な知らせが、王都から届いた。
『国王陛下、危篤』と。
知らせが届いたその日のうちに、黎は鞍井に呼び出された。彼の右肩はとっくに元通りになっている。部隊長室に来た黎に、鞍井は神妙な表情で一枚の封筒を差し出す。
「これは王太子殿下が、君に宛てた手紙だ。私は開けていない。読んでみてくれ」
封筒を受け取った黎は、じっとそれを見つめた。何の変哲もない、白い封筒だ。鞍井が言った通り、封は開けられていない。黎は封筒を破り、中に一枚だけ入っていた便箋を取り出して広げる。一通り目を通して便箋を封筒に戻すと、鞍井が尋ねた。
「何と書いてあった?」
「……いますぐ王都に戻るようにと、帰還命令が」
「そうか……仕方がないことだが、ここで君を手放すのは少し惜しいな」
鞍井がほろ苦い笑みを浮かべる。今や黎は栖漸砦になければならない貴重な戦力だった。黎も微笑む。
「また会えます」
「ああ。きっとその時は、私が君の部下になっていると思うけれどね」
「そんなまさか」
黎は笑い飛ばしたが、鞍井は冗談で言ったわけではない。本気でそう思っているのだ。黎はただの一騎士に収まっているような器ではない。
「私の役目は、殿下が後背の憂いなく事を運べるように努めること。君の武運を、ここから祈る」
鞍井に送り出され、黎は一年間滞在した栖漸砦を後にしたのだった。
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栖漸砦から南下すること七日。険しい山脈を一つ隔てた先に、王都はある。元々山越えに慣れていた黎は、天候にも恵まれ、たいした事件もなく依織に戻ってきた。
王都の城門をくぐったところで、何か民衆が慌ただしく騒いでいる。何があったのだと思いつつ街の広場で向かうと、そこには役人が立っていた。役人は集まった民衆に向け、こう叫んでいる。
「国王陛下、ご逝去」
予想はしていたことである。危篤と言われた状況からこれだけの日数が経ってしまったのなら、これはもうどうしようもない。元より死病だったのだ。
これで万事うまくいけば、王位は狼雅のものとなる。彼が以前言ったように、「後味の悪くない」展開になった。
「……騎士団の、時宮さんですか?」
不意に声をかけられ、黎は顔を上げた。そこにいたのは、先程まで王の崩御を叫んでいた役人のひとりだ。黎が頷くと、役人は黎に何事かを耳打ちした。それを聞いた黎の顔色が真っ青になる。
「――いま、どこに!?」
「病院で処置を受けておいでです」
「分かった、すぐに行く」
黎はさっと身を翻し、群がる民衆を掻き分けて疾走を開始した。
向かったのは王城に隣接するように建っている病院だった。ここには国内貴族が多数入院しており、王都での呼び名は「富裕層病院」だった。それはもっぱら庶民が使う、蔑みの言葉である。
黎は受付で名を名乗り、看護師に指示された部屋に向かう。ノックをして、返事も聞かずに扉を開けると、部屋の中にひとつだけあるベッドには狼雅が横たわっていた。
「おっ、黎。戻ってきたか」
にこやかに挨拶する狼雅に内心溜息をつきつつ、黎は扉をぴったりと閉めて、身体を起こした狼雅の傍に歩み寄った。
「何があったんです?」
前置きを抜かして尋ねると、狼雅は腕を組んだ。
「城の階段から落ちた」
「……『落ちた』んですか?」
「――『落とされた』んだ」
黎が顔をしかめる。今この時期に狼雅を害して得をする人間は、ひとりしかいない。
国王の妹――狼雅にとっては叔母にあたる水紀には、息子がいる。その息子を、彼女は王に据えたいのだ。そのために昔から狼雅を失脚させようと、色々と画策してきた。兄である王が死んだのなら、王位は勿論、王太子である狼雅のものになる。それを阻止するには狼雅を殺さねばならない。いま王族に男子は二人しかいないため、狼雅が死ねば王位は自動的に、水紀の息子のものとなるのだ。
彼女はそれを狙って、国王が崩御したというどさくさに紛れて狼雅を殺そうとしたのだろう――。
「にしては、詰めが甘いがな。こんな足の骨折ひとつで俺がくたばるとでも思ったか」
狼雅はふんと鼻を鳴らした。狼雅の右足は厳重に固定されている。よく見ると、腕にも青痣が浮かんでいた。相当派手に落ちたのだな、と黎はつい想像してしまう。
「……殿下、以前から考えていたことがあります」
「言ってみろ」
「貴方の三人の兄上は流行り病でお亡くなりになりましたが……それは、貴方の叔母上の仕組んだことであるという可能性も、あるのではないかと」
狼雅は首を振った。
「……いや。あの叔母さんは、あんな大量虐殺を命じるだけの勇気を持ち合わせてはいない。本当に、あれは偶然と運の悪さの産物さ」
「しかし……!」
「俺の一番上の兄貴は、性格はどうあれ王として出来た人間だった。自分の息子が可愛くて王位につけようとしたところで、あの男に息子、要するに俺の従弟だが、あいつが敵うとは到底思えない。それほどまでに隙がなく、強い男だったんだ。叔母上も手は出せなかったはずだ。あのままだったら、きっと叔母上は『自分の息子を王に』なんて大それたことは言い出さなかっただろう」
狼雅はふっと自嘲的な笑みを浮かべた。
「ところが、そんな完璧な王子も病には勝てず、ころっと死んでしまった。そして立て続けに第二、第三王子も死に、残ったのは反抗的な第四王子だ。期待外れもいいところだろう。諜報制度を至上のものと考える叔母上からしてみれば、俺がこのまま王位につくなんて許せないのさ。諜報で仕入れた情報は彩鈴王家の権力の象徴。それを好んで手放そうとするなど言語道断――とね」
「殿下……」
「そうさ、これは叔母上にしてみれば『正義の戦い』なんだ。今ある体制を壊そうとする悪者を倒し、秩序を回復するという聖戦さ。そのためには俺という悪者を殺し、息子を王位につけるのが最良で、正しいことだと思っている……」
いつになく饒舌な狼雅に、黎はそっと目を伏せた。
――この人は、苦しんでいるんだな。好きで王子に生まれたわけではないのに行動を制限される不自由。王位になど興味はないのに、命を狙われる不条理。圧倒的に不利なのに、一度おかしいと思ったら妥協できない信念の強さ。
殺されそうになったり、怪我をしたりするのはすごく嫌だ。だが、諜報制度なんてもので人が使い捨てられていくのを見るのは、もっと嫌だ。そんな相反する感情が、狼雅を苦しめている。それを打開するには自分が王になり、強さを示さなければならない。そのためには、したくもない戦いをせねばならない――。
でも弱さを見せることも嫌いな狼雅は、誰にも心の裡を見せてはくれない。だから、こんなにも近くにいるのに、狼雅はいつも孤独だ。
どうやったら、この人を守れる……?
「……殿下」
黎はぽつりと呼びかける。狼雅が顔をこちらに向けた。
「私は貴方に命を救われた時、こう言いましたね。『あんたに生かされたからといって、俺が何をするかは俺の勝手だ。それは、俺を生かしたあんたが悪い』と」
「言ったな、そんなことを」
「ですから、勝手にします」
狼雅は意外そうに目を見張った。
「私は騎士団の下っ端で新人ですから、一兵も動かす権利はありませんが。だからこそ自分の身一つで、貴方の王位獲得を助けます」
「黎……」
「お忘れではありませんね。『隙があればあんたを殺す』と、私は言いましたよ。貴方はそれを肝に銘じて、諜報をなくすためにここまでやってきたのでしょう」
そう微笑むと、狼雅も苦く笑った。そして頷く。
「そういえばそうだったな……」
束の間目を閉じた狼雅は、しっかりと黎を見つめた。そしていつものようにぶれない声で、黎に命じる。
「行って来い。部下の行動に責任をとるのが上の義務だ。お前が何をしようと、俺が許す!」
「承知しました」
黎はそう言って一礼すると、踵を返して病室から出て行った。
順番が遅れてしまったが、黎はようやく自宅に戻った。確か今日は祝日なので、妹の奈織は家にいるはずだ。そう思って宿舎の扉を開けた。
さあ、どれだけ散らかっている――? と覚悟を決めていたのだが、思いの外室内はすっきりしていた。黎が栖漸砦へ向かう前に奈織が言った、「掃除も洗濯もちゃんとやる」という約束は、どうやら忠実に守られているらしい。珍しいことだが、それだけ奈織が必死ということなのだろう。
扉が開いた音に気付いたのか、ばたばたと部屋の奥から奈織が出てきた。一年半ぶりに見る兄の姿に、奈織は大きく目を見張った。そして満面の笑みを浮かべ、黎に飛びついた。
「兄貴――っ!」
「ただいま、奈織」
思春期真っ只中であるはずの奈織は、以前と変わった様子はなく兄に抱き着く。どうやら兄離れはまだ当分先のようだ。
「なんでなんで? どうして急に帰ってきたの?」
「ああ、それがな……」
「あ、やっぱり分かった。王さまが亡くなったから、王太子さまに呼び戻されたんでしょ」
奈織の言葉に黎は頷いた。さすがに彼女も気づくことだ。だがいまはそんなことよりも、再会した妹の近況を知るほうが先だった。
「お前は、最近どうだ? 勉強の調子は?」
そう話題を振ると、奈織は途端に顔を輝かせた。
「それがね! もう、ほんっとに楽しくて! 神核って奥が深くてさ、なんていうか……!」
「……ああいかん、まずいスイッチを押したようだな」
黎が頭を掻いてぼやいた。ここまで奈織が神核に没頭してしまうとは思わなかった。話しはじめたら数時間は使うと察した黎は、十分ほど奈織の有難い講義を拝聴し、彼女の頭をぽんと叩いて、よく動いている口を停止させた。残念ながら黎には、奈織の神核学の説明がまったく理解できなかった。
「奈織。そこまで神核学にのめりこんでいるということは、神核の扱いには自信があるな?」
「勿論! ここまで何度も使ってきたし、ちょっと危ない使い方だってできるようになったよ」
奈織は弁舌を中断されたことを不快に思うでもなく、誇らしげに言った。
「で、あたしは何すればいいわけ?」
「察しが良いな」
「そりゃ、十四年も兄貴の妹してるもんね」
「……そいつは頼もしい。では任せるぞ」
黎はにやりと笑みを浮かべ、奈織にあることを告げた。
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それから数日が経過したが、あれきり黎は姿を見せない。
いったい何をやらかしているのだろう、と狼雅はいささか心配だ。もっとも今真に心配されるべきなのは狼雅のほうで、つい数時間前骨折した足など気にせず出歩こうとしたら、烈火の勢いで看護師に怒られた。そんなたいした傷ではないのだがな、と自分のことにはとことん無頓着だ。
国王の国葬は、近いうちに執り行われる。さすがに王太子がその場に列席しないのはまずいので、いまは狼雅の復帰待ちだ。だから尚更早く病院を出たいのだが、やはりここでも矛盾が持ち上がる。みなは狼雅を待っているのに、狼雅の怪我を知れば隣国がこの機を逃しはしないだろう。狼雅の怪我を知っているのは、ほんの少人数だけである。
彩鈴での即位式は、前王がいつ死んだとしても、新年に執り行うのがしきたりだ。いまは八月なので、あと四か月と少し待つ必要がある。さすがにそれまでには傷も治っていよう。今はしばらく大人しくしているか――と考えた狼雅は、すっかり消灯時刻も過ぎて暗くなった部屋のベッドに横になる。病気でもなんでもない狼雅には、こんな早い時間に眠るのは不可能なのである。
それでも数十分して、やっとうとうとしてきたとき、急に窓の外がぱっと赤く光った。狼雅が身体を起こして窓の外を見て――そして彼は絶句した。
地上7階にある狼雅の病室の真下の庭が、燃えていたのだ。
「……火をつけたか。ふん、俺に毒でも飲ませたほうが手っ取り早いだろうに……!」
ようやくそんなことを呟く。と同時に、病院内に警報がけたたましく鳴った。狼雅は素早くベッドから降りたが、途端に右足が激痛を発する。しかし、今はそんなことを気にかけている暇はなかった。
「じいさん、ばあさん、みんな起きろ! 火事だ! 部屋から出ろ!」
狼雅は痛む足を引きずって、病室の扉をひとつずつ叩いて回った。そうして同じ階の病人たちをみなひとところに集め、狼雅は護身用に持っていた神核を取り出した。それは人間を守る力を持つ結界壁の神核だった。それを発動させた王太子は、集まった人々を囲うように形成された結界壁を見て満足げに息をつく。そして神核を、傍にいた若い男性に握らせる。
「それを持って、非常口から逃げな。万が一のことがあっても、その神核が炎を遮ってくれる」
「あ、貴方はどうなさるんですか」
若者が尋ねた。ここは貴族たちがかかる病院なので、狼雅が王太子であるとみな知っているのだ。狼雅は微笑んだ。
「心配するな。逃げ遅れがいないかを確かめたら、すぐ行くよ」
とはいうものの、片足を骨折している狼雅がそれをする必要性はまったくなかった。どちらかと言えば神核を渡した青年のほうがまだ五体満足であるし、そもそも王太子は真っ先に逃げるべき存在だ。それでも狼雅は殿を守りたかった。他の階の安全は他の人に任せるしかできないが、せめて自分が今いる七階からだけは死者や負傷者を出したくない。
ひょこひょこと片足飛びで病室を見て回った狼雅は、ある病室の扉を開けたところで息を呑んだ。ベッドの上でうずくまっている少女がいたのだ。
「おい、お嬢ちゃん!?」
狼雅が傍に寄ると、震えている少女は無我夢中で狼雅に抱き着いてきた。警報を聞いて動けなくなってしまったのだろうか。無理もない、まだ五歳ほどの少女だった。
狼雅は少女を抱き上げると、その口元に手拭いを当てた。既に僅かではあったが、煙の匂いがしてきている。
こういう状況になると、たかが骨折などと言えなくなる。人ひとり担いだ状態の狼雅は壁に手を当てることもできず、不安定な片足飛びを続けなくてはならないのだ。
ようやく屋外に続く非常階段の扉にたどり着いたとき、爆発音が響いた。背中から強力な風圧を受けた狼雅は、少女を抱きしめて己の身体で守った。狼雅は背中を壁に叩きつけられ、さすがに呻いてすぐには動けない。
大丈夫か、と少女に声をかけると、少女は震えながら頷いた。狼雅はなんとか立ち上がり、非常口の扉を引いた。
――だが、扉はびくともしなかった。




