儚き明日3
再生暦5013年3月
時宮黎――21歳
時宮奈織――12歳
黎は再生暦五〇一三年三月で士官学校を卒業し、そのまま騎士団に入団した。士官学校卒業生は入団してすぐに小隊長という位を与えられる。だが黎は士官学校を首席で卒業したため、中隊長という位に任じられた。
ひとまずの難関は突破したようだ。黎がそうほっとしたとき、突如として呼び出しがかかった。呼び出した相手は、王太子の樹狼雅だ。
王城の中庭の長椅子に、狼雅は寄りかかって座っていた。黎がゆっくりとその場に歩み寄ると、狼雅は軽く片手を上げた。
「よう。久しぶりだな」
「……そうですね」
狼雅が隣を空けて座り直したので、黎は遠慮なく狼雅の隣に腰を下ろした。
「中隊長に任じられたんだって? えらく優秀だって騎士団長がお前を褒めていたよ」
「そりゃ、死ぬ気で主席をとりましたから」
「ふうん。で、なんで急にそんな仰々しくなった?」
「年功序列に従っているだけです」
「……てめえ」
狼雅の笑みがぴしりとひび割れた。今年で三十歳を迎える狼雅に、年齢の話はご法度なのである。
狼雅は咳払いを挟み、やや気を取り直した。
「奈織はどうしている?」
「元気ですよ。来年卒業しますが、大学のほうから推薦が来ました」
「ほう、そりゃすごい」
「性格には難がありますが、それを抜けばあいつは優秀です」
黎は憮然としている。あの自由気ままな性格は年々酷くなっている気がする。今の奈織こそが本来の彼女であって、貧民街での奈織は相当の我慢を強いられていたのだということは分かっている。だがそれでも黎は「こんなはずではなかったのになあ」と思ってしまうのだ。
奈織が通っている王立学園は十三歳で卒業だが、さらに上へ昇って学者などになる人間は、大学へ進む。奈織はその大学のほうから推薦が届いたのだ。これはかなりの快挙である。――本人が「嫌だよ、面倒くさい」と言っていることは放っておく。
「本当にお前ら兄妹はすごいな。お前は士官学校生だった時に、玖暁と青嵐に諜報で行ったんだって?」
「……なんでも自分の目で見て感じなければ、納得できないんです。これは我が家の家訓みたいなものでした。貴方こそ……貧民街に、病院を建ててくださいました。資金面や物資面での援助も、たくさん……」
そう、狼雅も貧民たちのために尽力してくれたのだ。医療設備などなく、病になっても薬すら買えなかった貧民たちは、ただ苦しむことしかできなかった。だが狼雅はそこに自分の名で病院を建て、医師を常駐させた。冬には毛布を大量に差し入れ、仕事もたくさん紹介した。この数年、たびたび貧民街を訪れていた黎は、その生活水準の向上っぷりに目を見張ったものである。
「それが人気取りの厚意だったとしても……貴方のおかげで、どれだけの命が救われたことか」
「人気取りってなあ。まあ、否定はしないが」
狼雅は照れくさそうに頭を掻いた。黎は息を吐き出し、狼雅を見やった。
「――それで、計画はどうなっているんです?」
「順調さ。同志も増えたし、王の信用を落とすような流言も密かに流している。……だが、もう少しだな」
「え……?」
「これは内部機密だが、親父は病に侵されていてな。実は、もうそう長くない命なんだ」
黎は目を見張った。王が死の病に侵されている。――そう遠くない未来に、王位は狼雅の手元に転がり込んでくる。
「こっちがあれこれ策略を立てるより、病で逝ってくれたほうが後味がさっぱりするってもんだ」
狼雅もやれやれと首を振っている。元々第四王子だった狼雅には、父親である王など遠い存在だ。思想も何もかもが正反対だとすれば、余計に互いを遠ざけあっていただろう。
「しかしまあ、彩鈴の医者は優秀でな。必死で治療をしているし、もしかしたら治ってしまうかもしれん。俺はそれに備えておきたい。……黎。俺が昔言ったことを覚えているか」
「……騎士団を、実戦で通用する軍隊に鍛え直す」
「そうだ。たとえ俺が王になるために騎士団が必要がなくなったとしても、俺は戦力の強化を重視する。情報なんかなくても身を守れる、それくらいの力がこの国には必要だ」
狼雅は長い足を組み替えた。
「王が交代して情勢が不安定な時期を狙うって言うのは、侵略の常套手段だからな」
「玖暁と青嵐ですか」
「玖暁は大丈夫だ。言ったろ、真澄と知尋は俺の弟分みたいなものだって。幸いにしてあいつらも諜報を快く思っていないし、手を取り合えそうだ。問題は、青嵐のほうさ」
頷く黎に、狼雅が視線を向けた。
「そこで、黎。お前には実戦経験を積んでもらいたい」
「実戦経験……」
「入団早々悪いが、青嵐との国境、栖漸砦へ向かってくれ。あそこは頻繁に青嵐との小競り合いが起きる。それを経験して、強くなれ」
狼雅はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
「『その時』が来たら、必ずお前をこの依織に呼び戻す」
「……分かりました」
黎は短く答え、頷いたのだった。
その後、正式に騎士団長のほうから転属の辞令が黎に下された。生まれ育ったこの街を離れるのは少し気が重いが、仕方のないことだ。元々黎も、実戦経験はどこかで積まなければならないと思っていた。剣術の形が完璧でも、それが通用するかどうかは分からないのである。
やれやれと溜息をつきつつ、黎は宿舎に戻った。この宿舎は、以前の王立士官学校内にある寄宿舎ではなかった。黎の騎士団入団と同時に、王城に隣接している騎士団本部の敷地内にある宿舎へ引っ越したのである。勿論奈織も一緒だ。
転属の辞令が出たからには、奈織をこの宿舎にひとりで住まわせなければならない。食事は食堂があるから心配ないが、黎以上に生活力皆無のずぼらな少女だ。いずれ黎がここに戻ってきたとき、人が住めるような状況ではないのではないかと恐ろしくなる。
いつもよりかなり早く帰宅した黎は、すぐに荷造りを始めた。出立は二日後だ。急な辞令だったので、黎にも心の準備をという狼雅の気遣いだろう。明日は一日暇を出されて、さてどうしようと考える。思えば狼雅に助けられて市民街で生活するようになってから、暇な時間など存在しなかった。学生時代は勉学に明け暮れ、騎士になってからは武芸に打ち込んだ。そして初めての休暇だ。
こういう時に趣味がないというのは、結構痛い。
「たっだいまー! ってあれ、兄貴?」
扉が勢いよく開き、奈織が帰ってきた。黎は床に胡坐を掻いて座ったまま、奈織を見上げる。
「お帰り」
「どうしたのー、あたしより早く帰ってるなんて珍しいじゃん」
「ああ、まあちょっとな……お前こそ、なんだかやけに上機嫌だな」
そう問いかけると、奈織は表情を輝かせた。
「あっ、分かる? 実は今日、大学の下見に行ってきたんだけどさ!」
推薦をもらった大学のことだ。そう言えば朝は渋々出かけて行ったのに、本当に機嫌が良い。面白いことでもあったのだろうか。
「そこの先生がね、神核学の実験を見せてくれたの! それがもう、とにかくすごっくて!」
「へえ……?」
一応学問は修めた黎だったが、勉強は大嫌いである。しかも神核学なんて専門的な分野には全く興味がなかった。今まで奈織の口からも神核学という名を聞いたことはなかったのだが、いったいどうしたことだろう。
「神核って面白いんだね! あたし、大学に行ったら神核学を専攻しようかなあ」
「そこまでするのか?」
「うん! やっぱり興味があることにはひたすら打ち込むべきだと思うんだよね。兄貴、どう思う?」
黎は微笑んだ。
「お前がやりたいことをすればいい。俺はそれを応援する」
「やった! 有難う!」
奈織は心から喜んだようで、飛び跳ねながら自分の部屋へ荷物を置きに行った。黎は頭を掻き、なんとなく言いそびれた配属のことを、今度こそ告げようと決心した。
奈織が狭い居間に戻ってくる。黎は奈織が座ると同時に口を開いた。
「奈織。明後日から栖漸砦に配属されることになった」
上機嫌だった奈織がぴたりと動きを止めた。探るような目で兄を見上げる。
「栖漸砦って……青嵐との国境にある?」
「ああ」
「……」
「奈織――?」
黎はやや驚いて奈織を見やる。ここまで彼女のテンションを下げてしまうとは思わなかったのだ。奈織はきゅっと拳を握る。
「いつ……帰ってくるの?」
「それは分からないが……数年のうちには、呼び戻されると思う」
「そっか。数年、か……」
奈織の視線が、床のあたりを彷徨っている。そわそわと落ち着かない様子だ。明らかに態度が一変した奈織に向きなおる。
「お仕事だもんね。うん、分かってるよ。でも、でもさ。栖漸砦って危険なんでしょ? 青嵐との紛争が頻発するっていうし、そんなところに……兄貴は、行っちゃうの?」
「奈織……!」
「やだよ……? あたし、一人ぼっちなんて……」
奈織が力なく呟く。そんな弱々しい声を出す妹を、黎は久しぶりに見た。そして思う。自分はとんでもなく罰当たりで、無責任なのではないだろうか? 貧民街で、両親を亡くした黎がそれでも生きてこれたのは、「幼い妹を守らなければならない」という責任感があったからだ。奈織の存在に依存していたのは、黎のほうであった。奈織がいなかったら、黎はとっくに力尽きていたかもしれない。
奈織のほうも不安なことだろう。今まで奈織には、たったひとりの兄しか頼る人間がいなかった。父は物心つく前に殺され、母も死んだ。そして今度は兄がいなくなる。死んでしまうかもしれない危険の渦中に行ってしまう。
口が達者で可愛げのない、猫みたいな性格の奈織だが、彼女はまだほんの十二歳の少女でしかなかった。そんな妹をひとりにして、黎は仕事を選ぶ。なんて無責任なのだろう。
ふと思う――ぐうたらな奈織に説教を喰らわしている間、黎は以前の貧民街での生活をすっかり忘れてしまっていた。奈織は、もしかしてあの辛い生活を思い出さないために、わざと楽天的に振る舞っていたのではないか――?
「……あっ、いや。その、ごめんね。ほんとは大丈夫だよ。あたし、兄貴がいなくてもちゃんと朝起きるし、洗濯もするしゴミ出しもするから。ちゃんと勉強して、試験でもいい点取る。だから……ね? 無事でいてね」
黎を引き止めまいとして気丈に振る舞っている奈織を、そっと黎は抱きしめた。可愛い妹はどこにいった――そんな風に思っていたが、変わらずここにいたのだ。
「ごめんな」
「や、やだなあ、なんで謝るの?」
「昔から俺は、お前に不自由を強いてばかりだ」
奈織は首を振った。
「そんなことないよ。あたしは、自分が今どれだけ恵まれた生活を送ってるのかをちゃんと分かってる。それが兄貴と、王太子さまのおかげってこともね。創ってよ、兄貴の理想の国。諜報制度がなくなって、もう誰も悲しい思いをせずに済む国を。あたし、そんな未来を楽しみにしてるんだから」
「……ああ。必ず」
「――手紙書いたら、読んでくれる?」
「意味が分かる文章を書けよ」
「酷いなあ。他人に見せるものはちゃんと書くよ」
なんだか恋人同士の会話みたいだ。黎はそう思ってしまって、慌てて奈織から離れた。
「……そういう訳で明日は一日暇をもらったんだが、行きたいところとか欲しいものがあれば言ってくれ」
「ええっ、咄嗟には思いつかないんだけど……」
「俺は少し買い物があるから、明日は街に出る。……お前も暇ならついてくればいい」
「……うん、そうする!」
奈織は嬉しそうに頷いた。
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翌日、奈織も学校が休みだったことから、兄妹そろって昼近くまで家でごろごろとしていた。「兄貴がそんなにだらけてるの初めて見た」と言いながら奈織が笑っていたが、自分でも事実だと思うので否定はしない。こんな風にのんびりと無駄に時間を潰すのも、たまにはいいと認識した。
そうして午後からふたりは出かけた。黎は砦へ持っていくための着替えやらなんやらを買っていたが、奈織はその後ろをぷらぷらと歩いてついてくるだけだ。黎は振り返って奈織に尋ねる。
「奈織、なんかないのか?」
「んー? 特にないかなあ」
「服とか装飾品とか」
「興味ないし」
「……お前も一応女なんだから、少しは身なりに気を遣えばいいのに」
「兄貴に言われたくないなあ。兄貴こそ、恋人どころか友達すらろくにいないでしょ」
図星を刺された黎がぐっと呻く。確かにその通りだ。黎は強くなるためだけに生きてきたし、元々口数が多く進んで人と交流するような性格でもない。しかも人の口に蓋はできないので、黎が貧民街の生まれで、狼雅の庇護下にあるということは噂として伝わっていた。そんな人間に関わろうとする者は少ないのだ。成績優秀だが気難しい奴――それが黎の認識だった。
痛いところを指摘された黎が憮然として歩を進める。そのあとを追いながら、奈織がふと足を止めた。黎もそれに気づいて止まる。
そこは書店だった。奈織の目は、その店先に出された台に並べられている一冊の本を見ている。その視線を追ってみると、それは神核学の専門書だった。店の看板を見てみると、ここは研究者向けの書店だったのだ。
そうやら、奈織が神核学を学びたいと言った気持ちは本物らしい――黎はそう感じた。
奈織が神核学を学び、この世界がより豊かなものへなっていく可能性があるのなら。それは兄として誇らしいことではないだろうか。
黎はすっと手を伸ばし、奈織が見ていた本を手に取る。
「兄貴……!」
奈織が目を輝かせて黎を見上げる。黎は肩をすくめ、苦笑した。
「ちゃんと励めよ」
「勿論!」
奈織の飛び切りの笑顔を背に、黎は勘定を済ませる。妹への餞別が学術書とはなんとも面白くないが、まあ良しとしようか。




