初恋は甘く、痛すぎるほど苦い3
再生暦5011年10月
梓は涙を頬に伝わらせたまま、沈黙を続けている。知尋は辛抱強く、彼女の口から言葉が出るのを待った。やがて梓は諦めたようにひとつ息を吐き出すと、重い口を開いた。――あの間延びした口調は、もうない。あれも偽りの彼女だったようだ。
「……知尋の、言うとおりです。私は、青嵐から家族で亡命してきて……玖暁の貴族に拾われたんです。その貴族は、私の家族を人質にして……私に、この病院に看護師として潜入しろって。弟皇が入院するから、なんとかして殺せって……!」
「――そう」
知尋は静かに頷いた。目の前に、最初に現れたときから自分を殺そうとしていた少女がいたというのに、彼は驚くほど冷静だった。
彼女が親身になってくれたのも。彼女がプリンを差し入れてくれたのも。お見舞いに来てくれたのも。
――すべて知尋の信頼を得るためのものだったのに。
「その貴族の名は?」
「……」
「言えないなら、別にいい。こちらで調べるだけだ」
知尋は微笑む。
「憎まれている自覚はある。だから今更誰の差し金でも驚かないけれど、君が教えてくれれば、それだけ君の家族の救出が早くなる」
「救、出?」
梓は呆気にとられたように呟く。知尋は頷いた。
「人質にとられている家族を助け出してしまえば、君がその貴族の言いなりになる必要はなくなるでしょう? もしここで私を殺すことに成功したとしても、君の家族は解放されないだろう。そのまま次の指令として、真澄の暗殺をしろと言われると思うよ」
すると梓は、きっと顔を上げて知尋を睨み付けた。その表情は涙にぬれていてもなお美しかったが、その表情を向けられたことに知尋はいささか驚いた。
「そんなこと、信じられない!」
「梓……」
「私の父が言っていたんです。青嵐から亡命してきた一家に、『助けてあげる』と言ってきた玖暁の貴族が、そのまま奴隷としてその家族をこき使ったり、外国へ売り飛ばしたりしたんだって! 身分の高い人の『助ける』は信用しちゃ駄目なんだと教わったんです! 皇さまなら、尚更ッ」
「そう疑われるのは心外だな。君の家族を人質に取っているその貴族こそ、君の言うような貴族だと思うけどね」
「貴方はッ!」
梓は怒鳴った。
「貴方は、私の兄を殺したッ!」
「!?」
知尋は大きく目を見開いた。いつ、どこで? 知尋は自分の記憶をまさぐったが、彼女の兄らしき人物は浮かび上がらないし、戸田という姓にも覚えがない。
「二年前のクーデターの、市街戦で……貴族軍として戦わされていた私の兄さんを、知尋は殺した! 私は目の前で見ていました! 貴方が神核術で創り出した光の槍で、兄さんを貫くところを!」
「……ッ!」
知尋はそれで思い出す。槍を片手に市街を進み、行く手を阻もうとしてきた貴族の私兵を何人も刺し貫いた。その中には、明らかに私兵に見えない、一般人としか思えない人間も混ざっていた。知尋はそういった人々を手にかけるのを避けていたが――ひとり、本気で知尋に斬りかかってきた青年がいた。勿論私兵ではなかった彼は刀の扱いが下手で、知尋は容易くその青年を貫いた。その時、青年の口から、誰か人の名前が漏れたのを覚えている。
きっと彼は、妹の名を呼んだのだろう――。
「私たち家族を助ける気があったのなら、なんで無理矢理戦わされていた兄さんを助けてくれなかったんですか……!?」
梓はそう叫んだ。――それが無理な話だということは、彼女も分かっているのだろう。それでも叫ばずにはいられないのである。
「私は弟皇の暗殺と聞いて、勇んで名乗り出たんです! 兄の仇を討ちたかったからっ……!」
梓の目から、束の間止まっていた涙がぽろぽろとこぼれる。知尋はそんな梓を見つめ、軽く手を広げた。
「……私を、刺すか?」
「っ!」
「私は今君を拘束していないし、短刀は君のうしろにある。取りに行っても、私は止めない」
「……」
「私は、戦いを生業としていなかった市民を殺した。それは皇としてあるまじきことだ。貴族の思惑で殺されてやるわけにはいかないが、君の復讐を否定することはできない……君とお兄さんがそれで報われるのなら、それでもいいと思っている」
行く手を阻もうとする者に情けをかけるほど、知尋は甘くはない。だが、刀を手にしたことがなかったはずの一般市民を殺したのは、知尋の大きな罪だ。
梓は身体を震わせた。それが怒りではなく笑いであることに、知尋はすぐ気付く。
「……私がそうしないの、分かっていて言っているんですね?」
「そんなことは、ないけどね……」
梓はそっと目じりの涙を拭った。彼女の右手は、いつの間にか短刀を握っていた。もう一本持っていたのだ。何とも周到な用意である。
「私が毒殺を選んだの、なぜだか分かります?」
「……弱らせて弱らせて、殺しやすくするため?」
「現状はそうだけど、違いますよ。自分の手で、殺したくないと……思っちゃったんです。あんなに憎かったはずなのに、刺せなくなっちゃったんです……おかしいでしょ? 私……馬鹿みたい」
毒殺なら、梓が直接手を下すことなく知尋は死んでいく。それは梓が自分の心を守るために選んだ手段だった。だがそうすると、今度はじわじわと自分が盛った薬で弱っていく知尋を目の当たりにして、辛くなる。梓は本当にごく微量の弱い毒を、長いこと知尋に盛っていたのだ。
梓は短刀を持ち上げ、知尋に突きつける。
「知尋が私の家族を助けてくれるって言ったこと、嬉しかった。貴方の言葉に偽りはないって、ちゃんと分かってます。それでも結局、私は自分の手で決着をつけなきゃいけない。私は……やっぱり、貴方を許せない!」
知尋が梓に向きなおる。それを見た梓は、一気に駆け出した。騎士でもなんでもない彼女の突進は、知尋にとって避けるのに造作もない遅さだった。だが知尋は動かなかった。
知尋の腹部に短刀が突き刺さった。知尋が小さく呻く。梓は短刀を突き刺したまま、知尋の胸にこつんと頭を預ける。
梓のすすり泣く声が聞こえた。刃物で刺されるという痛みに耐えつつ、知尋は呟いた。
「……ごめんね」
「何に……謝ってるんですか?」
「君の兄さんを殺したのは、紛れもなく私だ。だからごめん。……そしてもうひとつ……私は皇で、命が続く限り玖暁の大地に立ち、人々を守らなければいけない。やっぱりね……君一人に私の命をあげるわけには、いかないんだ。君は皇の命を狙った、貴族の回し者だ」
知尋の右手の中に、神核術で生み出された光の槍が握られている。知尋は一気に身体を引くと、梓の胸の中心を貫いた。
梓を貫いた槍は、そのまま粒子と化して消えた。梓は崩れ落ち、知尋が左手で彼女の身体を抱き留める。知尋が梓を見つめると、梓は微笑んだ。
「……痛いわ……」
「ごめんね……」
「ううん……でもきっと、これで良いの」
梓はそう言い、知尋を見上げた。
「……ねえ、知尋、教えて……? 知尋は、私が貴方を殺そうとしているの……ずっと知っていたはずなのに。なんで、あんなに……優しくしてくれたの?」
もはや息のようにしか聞こえないその言葉に、知尋はゆっくり答える。
「君が好きだった」
「……殺されかけているのに……?」
「ああ」
「……ふふ、おかしな人」
梓は目を閉じた。
「私……なんで知尋のこと、こんなに好きになっちゃったんだろうね……?」
「梓」
「復讐に失敗して、私が殺されるのに……なんで、こんなに穏やかな気持ちなんだろうね?」
これが、好きな人の腕に抱かれて死ぬ幸福感、ってやつなんでしょうかね? 梓はそう言って笑う。
梓を貫いた槍は神核術の槍だ。知尋の意思ひとつで威力や鋭利さに差が出る。このとき知尋は、かなりの手加減をしていた。だから梓の命は、ゆっくりと少しずつ消えていく。
もっと一緒にいたい、なんて願ってはいけないのだ。彼は皇で、彼女は暗殺者。ふたりとも自分の立場に沿った行動をとっただけだ。誰が文句を言えようか。
――後世の歴史書では、知尋のことを冷徹な皇と呼ぶかもしれない。だが、それをも受け入れよう。知尋はそう覚悟していた。
覚悟していたからこそ――真澄の手も借りず、自分自身の手で、暗殺者の少女を殺す。
知尋にとっての、罪と償い――。
梓の右腕に若干の力がこもる。何をするのかと思えば、彼女は懐から小瓶を取り出した。
「これ……貴方に使った毒の、解毒薬……こんなの用意するなんて、私も甘いよね……」
梓はそう言いながら、小瓶を知尋の胸元に放り込む。
「これで、許して……?」
「梓っ……」
知尋の目から涙が零れ落ちる。泣いてはいけない。己をそう叱っても、涙は止まらない。梓の手が伸び、知尋の涙を拭う。そして、駄目だとばかりに優しく首を振ったのだった。
そう、暗殺者などに情を抱いてはいけない。涙を流してはいけない。
けれど知尋は、そんなに冷酷な人間ではなかった。
知尋が梓の唇を塞いだ。驚いたように目を見張っていた梓だったが、微笑んでそれを受け入れる。
どちらからともなくそれをやめたと同時に、梓は事切れた。
彼女の表情は、どこか満足そうだった。
「梓……私は……君が、大好きだったよ。誰に何と言われても……『僕』は……」
知尋はそう呟き、黙って梓を抱きしめ、肩を震わせた。幼い日に封印したはずの己を、自分がこの国の皇子であると自覚したときに封印したはずの己を、表に出して。
「――知尋っ!」
聞き慣れた声が、この空中庭園に響く。――彼女が見たいといった月光花は、まだ美しく咲いている。それを見つめていた知尋は、肩を掴まれてようやく顔を上げた。
「おいっ、大丈夫か!?」
「……真、澄」
「ああ、そうだ。お前が病院から抜け出したと聞いて……!」
そこで真澄は、知尋の腹部に短刀が突き刺さっていることに気付いた。真澄に付き添っていた数人の騎士が、梓を知尋から引き離す。それを見た知尋は、はっとして怒鳴る。
「やめろ! 彼女を乱暴に扱うなッ!」
「て、弟皇陛下……」
騎士たちが息を呑む。穏やかな知尋の怒声など、彼らは聞いたことがなかったのだ。真澄が知尋を正面から見つめる。
「知尋、いいから病院に戻ろう。その傷の手当をしなければ……」
「そんなことっ……そんなこと、どうでもいい!」
「どうでもよくはない! 知尋、聞き分けて――」
「お願いです、真澄! 梓のことは私に一任してください……! 私にはまだ、やらなければならないことがあるんです……っ! 私は、私の罪を償わなければ……これで許されるなんて思っていないけど、でも……っ!」
知尋の必死の懇願に、真澄は折れた。こんなにひとつのことに執着する知尋を見るのは、真澄にとっても初めてだったのだ。
すでに状況からして、戸田梓という少女が知尋の暗殺を狙っていたことは明らかだ。だがそれでも、真澄は知尋と梓が仲睦まじく会話をしているのを見ている。知尋にとってはたとえそれが裏切りでも――彼女は、かけがえのない思い出を知尋に残して行ってくれたのだ。
「……分かった。私は何も手出しをしないと約束する。だから、とりあえず病院に戻ってくれ。な……?」
「……はい」
知尋は頷き、張りつめていた糸が切れたかのように力尽きた。
//////////\\\\\\\\\\//////////\\\\\\\\\\
梓が託してくれた解毒薬と、医師たちの治療のおかげで、知尋はあっという間に回復した。回復したといっても仕事をする分には影響がなくなったというだけで、健康になったというわけではない。だがこれが知尋の通常の状態なので、ようやく思うままに身体が動かせるようになって知尋としてはほっとしている。
退院後、すぐに知尋は戸田梓の身元を調べた。そして彼女を脅していた国内の貴族を突き止め、やや強引とも取れる手口で貴族を摘発した。その目的は、彼女の家族を救い出すためだった。無事に救出された彼女の家族には皇都での市民権を与えた。青嵐からの亡命者と詰られようと、知尋は構わなかった。自分の考えを曲げるつもりはない。
そうして梓の願いを叶えたが――知尋の心の傷は癒えない。
何よりほしいもの、梓の笑顔が足りないのだ。
最初は無駄に元気な娘だと辟易していたが、いつのころからか彼女が病室に来るのが待ち遠しかった。話せるのが嬉しかった。傍にいてくれることが心強かった。
だから彼女に毒を盛られていると気付いても、何も言えなかった。それを告げて、今の関係が壊れるのが嫌だったのだ。我ながら臆病だ――と知尋は思う。
初めての恋は新鮮だった。
初めてのキスは辛かった。
初めての別離は、永遠のものとなって知尋の心をえぐる。
一生、この罪は忘れない。一生、彼女を殺した感覚は腕に残る。
――もう二度と、恋なんてしない。
知尋はそう、堅く胸に誓ったのだった。




