初恋は甘く、痛すぎるほど苦い2
再生暦5011年10月
鳳祠知尋――16歳
戸田梓――18歳
ノックとともに、扉が開かれる。顔を出した白い和服姿の看護師は、言わずと知れた戸田梓である。梓は別に体温計も記録票も持っておらず、食事の時間でもないので盆も持っていない。何の用もないのに弟皇の病室に入れるのは、この図々しい梓だけである。だが、それを他の看護師が咎めないのにも理由がある。
梓は知尋の気力増進剤のような役割を果たしていたのだ。彼女がいると知尋もよく話すし、食事もとる。暗黙の裡に、知尋と梓は恋人同士であるという認識が病院内に生まれていた。しかもそれを、当人たちも否定しない。特に知尋がそれについて何も言わないのは、みなを驚かせていた。
だがここ最近、知尋の衰弱は激しい。これまではそれなりに出歩くこともできたはずなのに、最近はベッドから起きることすら辛いらしい。しかも、昏睡することが増えたのだ。
梓が病室に入ったときも、知尋はベッドの上で静かに眠っていた。傍に歩み寄っても知尋はぴくりとも動かない。
「……知尋」
小さく声をかける。と、その声が聞こえたのか、目を閉じていただけだったのか、知尋の瞼が震えた。ぼんやりと霞んだ青い瞳に、梓の姿が映る。そこに映る自分の姿を見て、自分が泣きそうになっているのだと梓は初めて知った。
知尋は梓を見て、やんわりと優しい笑みを見せた。これほど無防備に優しい笑みを向けられるようになったのは、つい最近である。まるで死を悟っているかのように、どこまでも穏やかな――。
「……梓。元気がないね……」
「こんなときにはしゃげるほど、不謹慎じゃないです……」
知尋はゆっくりと身体を起こそうとした。梓がそれを手伝い、知尋の背中にクッションをいれてやる。
「君は、初めて会った時から……不謹慎なくらい明るかったでしょ」
「そ、そうでしたっけぇ?」
「そうだよ。……君は、笑顔が一番いい」
もう一度知尋が微笑むので、梓もやっと笑みを見せた。
「今日もプリン持ってきたんですけど……気分が良いときに、食べてくださいね。あとで、また来ます」
梓はプリンとスプーンのセットを棚の上に置いた。忙しかったらしく、梓はそれだけ言うと病室を出て行った。
後ろ手に扉を閉めた梓は、扉に背を当てたまま、ぽつりと呟く。
「私……何してんだろ。……馬鹿、みたい」
それだけ呟き、彼女は廊下を半ば駆け去るように歩いて行った。
気分が良いときと彼女は言ったが、知尋にとって最近の生活は寝ているか起きているかである。また眠ってしまわないうちに食べてしまおうと思い、棚の上に手を伸ばした。
その時、またしても扉がノックされた。知尋はさっとプリンを掴むと、素早く毛布の中にそれを隠す。別に、恥ずかしいからでは、決してない。
「どうぞ。……真澄でしょう?」
呼びかけると、知尋の予想通りに真澄が姿を見せた。真澄は知尋を見て、少し笑みを浮かべた。
「起きていたのか。……気分はどうだ?」
「普通、……ですよ」
「お前の普通は、当てにならないからな」
兄の手厳しい言葉に、知尋は苦い笑みを浮かべる。
真澄の表情には、ただ見舞いに来たという以外にも何か心に秘めている、そんな色がある。しかしあえて知尋は何も言わなかった。やがて真澄が、重い口を開いた。
「――お前がここに入院して、半年以上が経つ」
「そうですね……」
「にもかかわらず、お前の容体は回復するどころか悪化している。これはどういうことだ」
「どういうことだ、と言われましても……私の身体がそれだけ貧弱だということですね……」
「そもそも、お前の病ってなんなんだ。具体的な病名を、俺は聞いたことがない」
知尋は目を閉じる。
「死にゆく者に、病名など教える必要はないのかもしれませんね」
「知尋!」
「冗談ですよ、もう……仮にも私は病人ですよ……」
知尋の青白い顔を見て、真澄ははっと我に返り「すまん」と謝った。今のは本気で、以前のように怒鳴ってしまったのだ。にしても今の冗談は、冗談として出来が悪い。
「私は生まれつき、他の人に比べると免疫力や抵抗力が低いんですよ。風邪も引きやすいし、難病にもかかりやすい、さらに疲労に弱い。今は、それの延長で気分が優れないだけです……特定の病にかかっているわけではないですよ」
「少しくらい、俺に分けろ。お前ばかり苦しんで、俺は風邪ひとつ引かないなんて……」
「考え方を変えてください。真澄がかかり得る病を、私がすべて引き受けているんです。そう思えば、なかなか有意義ですよ」
「馬鹿を言え」
普段通りのやり取りに、真澄は少しほっとした。が、真澄の本題は別にある。
「……それはともかく、だ。医師とも話したが、知尋の衰弱ぶりは尋常ではないと言っていた。……まだ誰にも明かしてはいないが、俺はお前に毒が盛られているのではないかと思っている」
「毒……?」
「じわじわと身体を蝕む、遅効性の薬物だ。だからお前の食事や触れるもの、すべて確認させてもらうぞ」
その言葉に、知尋はくすりと笑った。
「……私は医学者ですよ。様々な薬物をこの手で扱ってきました。食事に毒が盛られていて、私が気付かないとでも?」
「お前だって、万能の神ではないだろう」
「そう言われてしまうと返す言葉がありませんが……まあ、いいですよ。気の済むまで調べてください」
「ああ、そうする」
真澄はそれだけ言うと部屋を出て行った。足音が完全に聞こえなくなるのを待って、知尋はそっと毛布の中からプリンを引き出した。
「……まったく、真澄は……こういう時だけ、いやに勘が鋭いんですから……」
呟きながら、知尋は黙々とプリンを食べた。最近の知尋の栄養摂取元はこのプリンと、プリンさえ喉を通らない時に打たれる点滴だけだった。やっぱり、口で何かを摂取するのは良いものだな、と知尋は思う。今は衰弱のほうが激しいが、平時でも知尋は羨ましいことに太らない体質だ。よって、あまり食事に気を遣ったことはない。医者のほうから食事制限をされることはよくあったが。
食べ終わった知尋は、プリンのカップをゴミ箱に放り込んだ。別にこれは、薬物が仕込まれていたという証拠にはならない。真澄に見つけられても問題にはならない。「甘いものばかり食べて」と説教されるくらいだ。
手の中に残ったのは、紙製のスプーンである。知尋は短く【集中】した。するとそのスプーンが炎と化し、灰さえも残らないほどに一瞬で焼却された。
プリンを差し入れていたのが一体誰なのか。そんなことはすぐに調べがつく。
その前に、早くやることをやっておかなければ――。
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夕方になり、また梓が病室に顔を出した。今度はきちんと、食事を運ぶという役目があってここに来たのである。
「知尋、今日は食べられます?」
梓が尋ねると、知尋は少し身体を起こした。
「……うん。少しなら……」
「そうですかぁ。良かった」
梓はにっこりと微笑み、食事の盆を知尋の前に差し出す。それを受け取った知尋は、ぽつりと梓に告げる。
「梓……今日の夜十時くらいに、ここに来られる?」
「え? 夜の十時ですか?」
「うん」
知尋は頷くだけで、具体的なことは何も言わない。梓も詳しいことは聞かずに頷いた。
「分かりました。なんとか抜け出してきますね」
「よろしく。待ってるよ」
知尋は小さく頷き、それ以降は終始無言を貫いた。
夜の十時きっかりに、梓は知尋の部屋に入った。消灯時間はとっくに過ぎているので、室内の明かりは消されている。だが夜の間はいつも閉めていたカーテンが開けられ、そこから差し込む月光だけでも光源は十分と思えるほどだった。知尋はベッドに腰掛け、こちらに背を向けて窓の外を眺めていた。
「知尋! 起きていて大丈夫なんですか……?」
驚いて声をかけると、知尋は振り返った。そして微笑む。その笑顔は儚げだった。まるで、今すぐ知尋がどこかへ行ってしまうのではないかと心配になるほど――。
「大丈夫。このときのために、午前中にしっかり休んだからね」
知尋はそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。知尋が自分の足で立っているのを見るのは、本当に久々だった。この2年で急激に伸びた知尋の背は、梓より頭半分ほど高い。
「じゃあ、行こうか」
「行くって、どこへ?」
「君が行きたいと言ったところ」
「それって、空中庭園ですか?」
「そうだよ。今日は一年で一番月が美しい日だ。月光花の輝きが、とても強くなる日なんだよ。昼間少し曇っていたけど、夜になって晴れて良かった」
知尋はそう言って、梓に手を差し出した。梓がその手を取ると、知尋は強くその手を握った。そのまま二人は病院を抜け出した。
この病院は皇城の敷地内にある。皇城の本棟まではだいぶ距離があるが、ふたりは手を繋いだままゆっくりとその道を歩いていく。まるで恋人だ。梓が笑った。
「ふふっ……患者さんとふたりで夜に病院を抜け出すなんて、ばれたら怒られちゃいます」
「怒られる、で済むといいけどね」
「ええっ、庇ってくれないんですかぁ?」
「冗談だよ。ちゃんと口添えしてあげるから。……ま、私に限って万に一つもばれるなんて可能性はないけどね」
知尋は皇城の中庭を通過し、城内に入って屋上を目指す。悠々と歩いているので分かりにくいが、彼はかなり遠回りをしている。それは巡回の騎士をやり過ごすためで、彼の頭の中には巡回の時間とルートが完璧に記憶されているのだ。昔、真澄の脱走の片棒を担がされたのも、いまにして思えば無駄ではなかったようだ。
そうしてたどり着いた屋上庭園には、当然のこと誰もいなかった。ただ静かに花々が咲き乱れ、噴水から水が出る音だけが響いている。梓が目を輝かせた。
「すごいっ、本当に綺麗……!」
中央に設置された噴水の周りには長椅子がいくつも置かれている。知尋はそのひとつに座り、庭園を丸く縁取るように設計されている花壇に植えられた花々を見つめている梓を見守る。
「これが月光花ですか?」
梓が指差したのは、真っ白な花弁の花だった。その花はぼんやりと発光している。知尋は微笑んで頷いた。
「ああ。……綺麗だろう?」
「はい……!」
「喜んでくれたなら……良いんだけど……」
知尋の声が尻すぼみに消える。梓が振り返ると、知尋は長椅子に座ったまま顔を俯けていた。そのまま微動だにしない。
「知尋……?」
梓が呼びかけても、返事がない。梓はゆっくりと知尋の傍に歩み寄り、じっと知尋を見つめた。
彼女の手が懐に入る。そして抜き出した右手には、抜き身の短刀が握られていた。梓はそれを振り上げたところで、腕を止める。
「……っ」
梓の表情に苦悩の色が奔る。だがそれも一瞬のことで、彼女は知尋に向けて短刀を振り下ろした。
その短刀は狙い正しく、知尋の晒された首筋に突き立てられるはずだった。その一撃で知尋の命は絶たれるはずだったが――。
「!?」
そうはならなかった。首筋に短刀が突き刺さるすれすれで、彼女の腕は動きを止めたのだ。彼女の意思ではない。
知尋が右手で、梓の手首を掴んでいた。その力は、とても病人とは思えないほど強かった。知尋はゆっくり顔を上げた。その顔に笑みはなく、ただ静かなだけだ。
「――ごめんね。君を騙すための、ちょっとした演技だ」
「知、尋……」
知尋は彼女の手を掴んだまま、ゆっくりと椅子から立ち上がる。梓の手から離れた短刀は、知尋が遠くへ蹴り飛ばした。
「教えてくれる? 君は誰だ。青嵐政府からの暗殺者か……それとも青嵐から亡命してきて、玖暁貴族に雇われたのかな?」
知尋のその言葉に、梓の表情が凍りつく。
「なんで……青嵐って決めつけるんですか?」
「毒だよ。君が使ったあれを毒として使うのは、青嵐の民だけだ。玖暁や彩鈴では、毒としては使わないからね」
「毒……」
「お望みなら、名称と作り方まで答えるよ。……私に対して薬物を使ったのは、間違った選択だったね。眠っている間に刺し殺してしまえば、簡単だったのに」
知尋は穏やかにすら答える。
「まさか……最初から、気付いて……?」
「そうだね……君が私に毒を盛り始めたのは、最初から分かっていたよ。確かプリンを差し入れてくれるようになってから、一ヶ月くらい経った頃だったかな……」
知尋は懐から、紙製のスプーンを取り出す。
「私に渡してくれたこのスプーンに、毎回薄く薬が塗ってあったね。紙スプーンならプリンの容器より処分が楽だし」
「そこまで分かっていたなら……なんで、ずっと黙っていたんですか!? 初めに気付いたときにこうしていれば、知尋はこんなに苦しまずに……!」
梓が食って掛かった。知尋は目を閉じた。
「なんで、だろうね……私にも分からない。ただ強いて言えば……君と一緒に、この花を見たかったからかもしれないね」
知尋の答えに、梓は息を呑んだ。
「今日は、一年で一番月が綺麗だから。今日という日まで、私は愚かにも待っていたんだよ。私のことを心配してくれる兄すら欺いて……ね」
梓の目から涙が零れ落ちた。いつも笑顔だった彼女からは、想像もできない涙だった。知尋はそれを見て、ゆっくりと彼女の手を解放した。




