初恋は甘く、痛すぎるほど苦い1
再生暦5011年4月-5月-6月
鳳祠知尋――15歳
クーデターが成って二年――この再生暦五〇一一年は一六歳となる鳳祠知尋にとって、まさに佳境の一年となることになる。
晴れて弟皇として即位した知尋だったが、ここ数年は働きづめだった。国内平定と外交問題のどちらにも気を配り、時には自ら友好の使者として玖暁の辺境や他国へ赴くことも多々あった。それらを行っていた時は良かったのだが、二年経ち玖暁がまずまずの平穏を保つようになったころになって、その過労が祟った。元来身体が弱い知尋がろくに休みもせずに西へ東へ奔走しては、当然の結果といえる。
いつもなら自室で休んでいるのだが、あまりに体調の悪化が激しかったため、知尋は皇城内にある皇立病院に入院ということになった。春がようやくやってきた四月のことである。そこで投薬治療を受けたのだが、一向に体調は良くならない。知尋とて病弱な身体に甘えていつまでも休んでいるわけにはいかなかった。
「早く復帰しないと……真澄ひとりに負担をかけてしまう……ねえ、瑛士。私ならもう大丈夫だから、ここから連れ出して」
仕事の合間を縫って見舞いに来てくれた新しい騎士団長に、知尋はそう懇願する。だが瑛士は困った顔で頭を掻いた。
「いや、そんなに苦しそうな顔で言われてもまったく大丈夫そうに見えませんよ」
「っ……苦しそうに見えるのは、仕事ができなくて辛いからだよ。私を楽にさせたいなら、言うとおりにしてくれ」
「そんなことをしたら、俺は真澄さまと宰相閣下と、ふたりから鉄拳を喰らってしまいます」
「二発くらい我慢してよ」
「物理的な痛みなら我慢しますが、俺はそれより神谷団長の霊が出てきたらと思うと寒気がします」
「霊魂に物理的な干渉ができるわけないでしょ」
「いいや、分かりませんよ? 何せ『何でもあり』の団長ですから……って、い、いや、とにかく! 駄目ったら駄目です。知尋さまこそ我慢してください。ここで体調を治しておかないと、後々に響いて永遠に仕事をするどころではなくなりますよ」
「……ちっ」
「舌打ちしない! まったく、皇陛下がそんなはしたないことをしないでください」
瑛士に叱られ、知尋はふてくされたように毛布をかぶる。その仕草は普通の少年で、瑛士も苦く笑う。亡くなった前騎士団長、神谷桃偉を冗談のネタにできるくらいには、彼らの心の傷も癒えていた。と同時に、皇の側近として堅苦しさが増した瑛士は、舌鋒を鋭くした知尋にやりこめられそうになり、慌てて話を修正したのである。
「むくれないでくださいよ。ほら、知尋さまの好きなプリンを持ってきましたから」
「……私を菓子で釣れると思ってるの?」
思っているからプリンを目の前に差し出したのである。この弟皇は食い物で釣れる、と瑛士はここ数年の経験から知っているのだ。思った通り、知尋は毛布から少し顔を出してそれを見る。知尋は皇都の下町で売っている、この「おばさんの手作りプリン」が大好きなのだ。
言葉に反してむっくりとベッドに身体を起こした知尋を瑛士は支えた。今にも倒れてしまいそうに青白い顔と痩せた身体が、言いようもなく瑛士を不安にさせたが、このときは何も言わなかった。
「これ、真澄さまが買ってきたんですよ」
「真澄が?」
「仕事の合間に下町までひとっ走りして、そのままお見舞いに行こうと思っていたらしいんですけど、急な来客だとかで行けなくなったそうなので、俺が預かってきたんです」
カップに入った極めて質素なプリンを受け取った知尋は、まじまじとそれを見つめる。それからふっと笑みを浮かべた。
「……休憩時間に下町なんて行かないで、ちゃんと休憩をとればいいのに。真澄に言っておいて。真澄が倒れても今の私じゃ代わりを務められないんだから、身体は大事にしろって」
「分かりました。知尋さまも、お大事にしてくださいね」
「うん……有難う、瑛士」
瑛士を見送った知尋は、ふうと溜息をついた。折角買ってきてくれたのでプリンを開けて食べる。食欲はここ最近ないが、やはり好きなものなら喉を通る。いつ食べても変わらない味に、知尋は思わず笑みを浮かべた。
そうして綺麗に平らげたプリンのカップを棚の上に置き、知尋はベッドに横になる。瑛士と話せたおかげか少し気分は良くなっていたが、頭痛は消えないし気分は優れない。全身に鉛がついているかのように身体は重いし、何をするのも億劫だ。
少し休もうと目を閉じたとき、病室の扉がノックされた。面倒なので答えないでいたら、扉は勝手に開いた。
「弟皇陛下、定時ですので体温を測りますよー」
入ってきたのは、まだ少女とも言うべき年齢の若い看護師だった。知尋専属の看護師のうちのひとりで、ここ最近毎日顔を合わせている。やけに間延びする語尾と気安い口調が特徴だ。知尋は溜息をついて目を開ける。
「……返事をしなかったんだから、眠ってると思ってくださいよ」
「またまたぁ、そんなこと言って。ちゃんと起きていたんでしょう? 弟皇陛下はいつも、体温を測ったりお薬を飲んだりする時間にはきちんと起きていらっしゃいますものね。待っていて下さるんですかぁ?」
図星を刺され、知尋は押し黙る。無言のまま少女に渡された体温計で体温を測った。その間に彼女の目は、棚の上に置きっぱなしだったプリンのカップを見つけていた。
「弟皇陛下。これって、浅田おばさんが作るプリン……」
「! あ、いや……」
知尋は慌てて起き上がったが、もはや否定のしようがない。
「陛下も好きなんですか? 美味しいですよねぇ! 私、お店の向かい側の下宿屋に住んでいるんです。だからよく食べるんですけど」
「へ、へえ……」
断じて、羨ましいと思ったわけではない。
「それは見舞いで持ってきてくれたものですから……別に私が頼んだわけでは」
「そうなんですか? でも、これなら食べられたんですねぇ。最近の陛下は殆どお食事を召し上がりませんでしたしー……」
少女はこちらを振り返り、花のような笑みを見せた。
「あ。良かったら、私がまた買ってきましょうかぁ?」
――それがこの少女、戸田梓と親しくなった最初のきっかけだった。
//////////\\\\\\\\\\//////////\\\\\\\\\\
「陛下ぁ、検温です!」
元気な声とともに、梓が病室に入ってくる。知尋は閉じていた目を開け、そちらを見やった。
「……今日も元気いっぱいですね」
「はい! 無駄に元気なんで、弟皇陛下に私の元気をお分けしますよぅ」
「いえ、逆に元気を吸い取られているような脱力感に襲われますよ……」
「えっ、そんなはずないですよぉ」
梓は笑いながら知尋に体温計を渡す。それから彼女は、持っていた袋からあのプリンを取り出した。
「はい、どうぞ」
「……有難う」
少し躊躇った知尋は、結局差し出されたプリンを受け取った。梓は知尋の躊躇いなどどこ吹く風で、部屋の窓を開けて空気を入れてやる。
「食事制限はされてませんし、本当なら毎日でも差し入れてさしあげたいんですけど、さすがに主食がプリンって言うのはまずいですもんねぇ。週一で我慢してくださぁい」
などと言いながら彼女は鼻歌を歌ってご機嫌だ。知尋にとってこのプリンは、病気で寝込んでいるときのお見舞いであるので、そもそも週に一個食べられるだけでも実は嬉しいのだ。が、差し出されるプリンを受け取るようになってもう一ヶ月が経つ。「いや、このままではまずいだろう」とさすがに思っている。
「いいんですか? 毎週買って来てもらって……」
「お金も手間もかかってませんから、大丈夫ですよぉ。何せ私、浅田おばさんの店で時々お手伝いをしているんですぅ。そのお礼にって毎週もらっているのがそのプリンですからぁ」
「え、あ、そうだったんですか?」
「はぁい」
「それじゃこれは、貴方の働きに対する正当な対価ではないですか。だったら尚更、私が受け取るわけには……」
「あー、小難しい話は勘弁してくださぁい。これは、いつも頑張って病気と闘っている弟皇陛下に、お節介でうるさい看護師からのご褒美です!」
底抜けに明るい梓に、知尋は説得を諦めて苦笑する。
「それにこのプリンを食べるようになって、少しずつご飯が食べられるようになってきたじゃないですか。プリン効果はあるんですよ!」
「そうですね……貴方には感謝しています。いつか必ず、お礼をしますから」
「お、お礼なんて、そんなのいいですよぉ」
「私が礼をしたいんです。考えておいてくださいね。出来る限り、貴方の願いに応えると約束します」
すると梓は少し考え込み、伺うような上目遣いで知尋を見やった。
「……あのぅ、それならひとつお願いが……」
「なんだ、もう決まっているんですか? ゆっくり考えてくれていいのに」
「いえ、他には思いつきません! 私、皇城の空中庭園に行ってみたいんです」
「空中庭園?」
知尋は怪訝そうに眉をしかめた。空中庭園といっても、別に浮いているわけではない。屋上庭園という呼び名こそ相応しいと知尋は思っているのだが、空中と言ったほうが幻想的でいいのかもしれない。玖暁の皇城にはその空中庭園がいくつもあり、休憩時の憩いの場となっている。
「だって、すごく綺麗なんでしょう? 季節ごとの花がいっぱい咲いていてぇ、噴水があってぇ、電飾が綺麗でぇ、空がとても近くて! 一般市民はあんなところまで入れませんから、憧れてたんです」
その興奮している様子に、知尋は思わず微笑んだ。多分彼女は知尋より二、三歳年上なのだが、とてもそうとは見えない。
彼女のささやかな願いを叶えてやりたい――梓の言葉は、知尋をそんな気にさせる。
「――だったら、夜がお勧めです。月の光で輝く、美しい花があるんですよ」
「花が光るんですか!?」
「ええ。月光花……そのままでしょう? 私が退院できたら、連れて行って差し上げます」
「本当ですか!? 有難う御座います、弟皇陛下!」
無邪気に喜ぶ梓の姿を見て、知尋の中にある思いが浮かんだ。そしてそれは、無意識のうちに言葉となって口から出る。
「知尋……と呼んでください」
「え?」
「陛下などと呼ばれるのは嫌……なんです」
知尋が、自分の名で呼ぶことを許しているのは瑛士と矢須だけだ。彼らは「知尋さま」と呼ぶが、本当は敬称すらいらないと知尋は思っている。だがそれは体裁と彼らの立場が許さない。いま地上で知尋の名を呼び捨てるのは、真澄だけだ。真澄にしか許されないはずだった。
しかし、梓は――。
「えっと……知尋って呼べばいいんですね?」
「ええ」
「分かりました、知尋!」
――彼女は、こういう人間だ。皇の名を、そう呼べと言われたからと正直に呼び捨てる――。
内心で、知尋は嬉しく思っていた。有難う、と呟きながら知尋は体温計を梓に返し、プリンを一口、口に入れた。そこで、ぴくりと知尋の動きが止まる。
「――?」
知尋はじっとプリンを見つめた。いつもと変わらない、卵の黄身そのものみたいな濃い黄色の表面に、今しがたスプーンですくった部分が浅くへこんでいる。記録帳に知尋の体温を書き込んでいた梓が、それに気づいて首を傾げる。
「どうかしましたぁ?」
「……いいえ、なんでも」
知尋は首を振り、プリンを食べ進めた。
//////////\\\\\\\\\\//////////\\\\\\\\\\
季節は春を通過して夏へと移り変わりつつあり、ここ数日気温の変動が著しい。涼しい日が続いたかと思えば、急激に真夏と呼べるまでに温度が跳ね上がる。季節の変わり目は体調を崩しやすいと言うが、知尋はまさにそれだった。
朝から熱っぽかったが、昼になるころには四十度を超す高熱になっていた。多忙な真澄が見舞いに来たのは運悪く、その時だった。
「……っう……」
知尋が呻く。血の気がなかった頬には赤みが差しており、額からはつと一筋の汗が流れ落ちる。真澄はその汗を拭い、知尋に団扇で風を送ってやりながら言った。
「大丈夫か、知尋……最近は調子が良いと聞いていたんだが……」
「……は、はっ……昨日、寒かったくせに……今日は、夏みたいで……そのせいで、調子が……狂った、んですよ」
知尋は譫言のように、荒い呼吸を挟みつつ言った。
「ごめんなさい……折角、来てくれたのに……こんな状態で……」
「お前が謝る必要はないと、何度も言っているだろう? ……お前は医学者として様々な人間を病から救ってきたのに、お前の病を治す特効薬がないなんて、なんという皮肉なんだろうな」
真澄は呟きながら、知尋の額に手を当てる。真澄のひんやりとした手の冷たさが、知尋には気持ちが良い。
「……熱、高いな」
「薬は飲みましたから……大丈夫ですよ。これはただの風邪です……ちょっと性質の悪い、ね」
「なら良いんだが、無理だけはするなよ」
知尋が頷くと、真澄はゆっくりと立ち上がった。
「まだ仕事があるから、俺はこれで帰るよ。もう少し傍にいてやりたかったんだが、すまない」
「いえ……有難う御座います、真澄」
真澄が踵を返そうとしたとき、病室の扉が開いた。それとともに聞き慣れた声が響く。
「失礼しまぁす!」
「! 梓……」
ひょっこり顔を出した梓は、真澄と目が合った瞬間に凍りつく。
「け、兄皇、陛下……!?」
「恋人か、知尋?」
至極真面目に真澄は弟に問いかけた。知尋は束の間、高熱を出していることすら忘れて飛び起きた。
「ち、違います! 梓は、私付きの看護師です……っ、う……!」
「そ、そうか。悪かった。悪かったから落ち着け」
「けほっ……す、すみませ……」
真澄が狼狽しながら知尋を寝かせる。梓が慌てて口を開く。
「す、すみません。お邪魔しちゃったみたいで……」
「いや、私はもう帰るから気にするな。知尋のことをよろしく頼む」
真澄は梓に軽く頭を下げ、病室を出て行った。それを見送った梓が、呆然としたように室内に入る。
「兄皇陛下をこれほど近くで見たのは初めてですけど、お優しい人なんですねぇ。私なんかに頭を下げてくださるなんて……」
知尋はうっすらと微笑んで頷き、それから梓の恰好を見やった。
「ところで……どうしたの? その、恰好……」
梓はいつもの看護師用の白い服ではなく、病院には似つかわしくないほど鮮やかな黄色の和服を身にまとい、髪飾りをつけていた。普段無造作に結ってある赤みがかった髪の毛は下ろされている。梓はにっこりと微笑んだ。
「今日はお仕事お休みなんですぅ。だから、普通のお見舞客として来ました!」
「……そうだったんだ。でも、折角のお休みにこんなところに来てくれるなんて……」
「こんなところ、なんて言わないでくださいよぉ。私、知尋とお話しできるの、毎日楽しみなんです!」
真っ直ぐなその言葉に、知尋はどきりとする。梓はにこにこと微笑んだままだ。果たしてその「楽しい」は、親しい患者さんだからなのか、それとも――?
「……私も、君と会えるのは嬉しい」
知尋はぽつっと本音をこぼした。梓はベッドの傍の椅子にすとんと腰を下ろす。
「ここにいてもいいですか?」
「うん――」
そのあと梓は、知尋の手を握ったまま、彼が眠りに落ちるまで傍にいてくれた。もはや言葉は必要なかった。




