少年の日の思い出11
再生暦5009年5月
桃偉が連れてきたのは、皇都『照日乃』の下町の中の下町、要するに最底辺にある酒場だった。他の建物もぼろぼろでいかにも品がなく、不良の溜まり場といったところだ。実際、三人のみずぼらしい男が地面にしゃがみこんでいる。彼ら以外にもそういった男たちは大勢徘徊している。瑛士が眉をしかめた。
「団長、こんな真昼間にこんな怪しい酒場なんて、俺は反対します」
「阿呆か、誰が酒を飲むと言った? ここは俺の隠れ家だ」
桃偉は迷わずに酒場に近づく。と、ゴロツキ三人がぱっと起立した。先程までの気だるげな表情はどこにいったのだろうと思うほどである。
「安心しろ。見てくれは悪いが、これでもれっきとした俺の部下だ。元々本当にこの界隈を縄張りにしていた不良でな、この酒場に人を寄せ付けないためには最適な奴らなんだ」
「はい、俺たち団長のご温情で騎士に上げてもらいました。誰が来ても追い返しますんで、任せてください!」
ゴロツキ、いや覆面騎士のひとりが笑う。意外と愛嬌のある笑顔で、普通のお兄さんだな――と昴流は感じる。
酒場の扉を開けると、粗末な外見とは正反対に、室内は綺麗に整っていた。カウンターもテーブルも揃って酒場らしい内装だが、桃偉は更に奥へ向かう。
桃偉が入ったのはワインの貯蔵庫だ。酒の匂いがして昴流などこれだけで酔ってしまいそうだ。桃偉は置かれていたワインの大樽を横へずらす。そこの床には扉がある。地下の収納かなと思ったが、桃偉がそれを開けるとそこには地下への階段があった。
なんとまあ凝ったからくり屋敷だろうか。
階段を降りていくと、目の前に大きな扉が現れた。その先には広い居住空間が広がっており、大勢の騎士たちがいた。この下町の地下一帯にこの空間が広がっているのだとか。昔どこかの貴族が、いざというときのための避難先として考えていたものだそうだ。
「神谷団長!」
「お前らも無事だったか」
騎士たちが駆け寄ってくる。彼らは神谷隊直属の騎士たちで、騒動に乗じて城を脱出し、ここに身を潜めていたのだという。
すると奥から、この場に似つかわしくない初老の男性が歩み寄ってきた。その姿を見て、真澄が目を輝かせる。
「矢須!」
「真澄さま! ああ、ご無事でよかった……」
真澄と知尋の教育係である矢須だ。瑛士が知尋を傍にあった椅子におろし、その姿を見た矢須はほっとしたように微笑む。
「知尋さまも……ひとまずご無事のようですね」
「桃偉たちのおかげで助かった。矢須こそ、怪我はないか?」
「私も騎士の手引きでなんとか。貴族の目は、派手に逃亡した真澄さまたちのほうにばかり向けられていたので」
「はは、そうか。私たちは囮として役に立ったということだな」
真澄は笑ったが、その笑みにはさすがに疲労の色が強い。桃偉が真澄に告げる。
「まだ合流していない者も数名いますが、神谷隊……今のところ俺が心からの信頼をおける戦力は、ここにいる約百二十名がすべてです。不可能な数字ではない。……本当によろしいのですか?」
その言葉に、昴流が目を見張った。『戦力』――桃偉は戦いを始めるつもりなのだろうか。これだけの人数で、一体だれと?
桃偉が自分の部隊を私兵化しているという噂があると真澄は言ったが、それは限りなく真実に近い。貴族や平民が入り混じる騎士団では、誰が味方で誰が敵かの見分けがまったくつかない。その中で信頼できるのが、自分の隊にいる人間の中のごく一部なのだ。騎士団の部隊は五百名ほどで組まれているのに、信頼できるのはその五分の一に過ぎない。
真澄は静かに目を閉じる。
「……ずっと考えていたことだ。もう迷いは捨てた」
「そうですか……」
「私は、この国に住むすべての民を守り導く存在として生を享けた。ならばその義務を、私は果たすまでだ。圧政を挫き、弱き者を守る」
そこまで聞いて、昴流は理解した。真澄が何を覚悟しているのかを。
「貴族の不正という芽を摘み取っても、根が残っていれば元も子もない。私は、鳳祠真崎という悪政皇を討つ。……そのための力を、借りたい」
静かすぎる言葉は、時として冷徹と取られることがある。だが真澄の表情には複雑な色があった。父を殺すと言った彼の言葉に、迷いはない。だがそれでも、彼にとっては命をくれた父なのだ。やはり複雑な気持ちになるだろう。
「皇の息子として生まれながら、私たちには父を止める力量がなかった。今はただ、それを悔いている。ここまでの暴挙を許した償いはする」
「よろしいのですか、真澄さま」
矢須が尋ねる。真澄は頷いた。
「……後の世には、簒奪者と罵られるかもしれないがな。お前こそいいのか、矢須。お前は私の祖父の代から皇家に仕えてくれた忠臣。私の味方をしては、家名に傷がつくだろう」
「私にとって家名など重要なことではございません。皇陛下の暴挙を阻止できなかったのは、何も真澄さまだけではない。私もその現実から目を背け、逃げ出した臆病者でございます。共に償いをさせていただきたく思います」
まず間違いなくこの国で三本の指に入る大貴族である矢須が、皇に反旗を翻す。それは前代未聞のことである。彼は政財界に影響力が強いから、矢須がいる、すなわち『真澄こそ正義である』と宣言しているようなものだ。
「……私も、行きますよ」
すると、椅子にもたれて座っていた知尋が身体を起こした。目を覚ましたらしい。繊細な外見に反して、力強い意思が言葉となって伝わってくる。
「真澄だけに重荷を背負わせるわけにはいきませんから……貴方の皇位獲得を助けます」
それを聞いて、昴流は思う。双子として生まれた真澄と知尋だが、皇の座はひとつしかない。兄である真澄が皇となるのは当然のことだが、知尋に不満はないのだろうか。少しでも野心があれば、今度は壮絶な兄弟喧嘩になりそうなものだが――。
「桃偉」
真澄が振り返る。と、桃偉はにやりと笑った。
「実はこの日を、以前から待ち望んでいました。真澄さま、俺たちは貴方が創る玖暁が良き国であることを信じ、貴方に剣を捧げました。ようやくそのために戦えるのですから、本望ですよ」
「そういえばお前は、昔から私を嗾けていたものな」
「いやいや。……俺たちは反乱軍ではなく、あえて解放軍と名乗りましょう。僅か百二十名前後の軍ですがね」
桃偉の言葉に、真澄は頷く。そして、この地下に集った騎士たちに向けて声を張る。
「貴族優遇の時代は、私が終わらせる! みな、力を貸してほしい!」
その言葉に、騎士たちが歓声を上げた。彼らは皆平民登用の騎士たちだ。貴族には嫌気がさしているし、何より自分らの上官である桃偉と、その主君である真澄は貴族優遇をやめ、圧政を終わらせると宣言した。それについて行かないわけにはいかない。
桃偉が次々と指示を出していく。一度にそんなに大量のことを考えているのかと驚くほど、めまぐるしく部下たちに指令を出す。それに従って部下たちが慌ただしく行動を開始するのを見て、壁際に佇んだままの昴流は唖然とするばかりだ。
「……ねえ、姉さん」
昴流は茫然としたまま姉に声をかける。
「ん?」
「僕たちはいま、すごいところに立ちあっているのかもね」
「そうね。歴史が変わる大舞台よ」
そう、歴史が変わる。貴族の時代が終わり、貴族に虐げられていた民衆が救われる。
「昴流、咲良」
桃偉がこちらに歩み寄ってきた。昴流が顔を上げると、桃偉は情けない表情で頭を掻く。
「すまんな、巻き込んで。必ずまた平和に暮らせる日がくるから、それまでは窮屈だろうがここで生活してくれ」
「ここで何をすればいいんですか?」
昴流が尋ねると、桃偉は首を振った。
「何もしなくていい。どうしても何かしたいなら、悪いが炊事とか……戦いになったときに後方で負傷者の手当てなどを頼む」
予想通りの答えだった。昴流はぐっと刀を握りしめた。
「桃偉さん。僕も戦線に加えてください」
「なんだと……!?」
「昴流、何を言うの!?」
桃偉と咲良が驚愕して目を見張った。桃偉は一転して強い口調になった。
「駄目だ。お前は後方にいろ」
「嫌です」
「俺たちが口で何と言ってもな、俺たちは反乱分子でしかないんだ。もし何かあったときに女子供は庇えるが、刀を持って戦いに参加したとなれば、子供といえど処罰が下される。だから……」
「嫌です!」
昴流が怒鳴る。その声の大きさに、桃偉が口ごもる。
これほど昴流が強く桃偉の指示を拒否したのは、初めてのことだった。
「子供がなんですか!? 貴族として圧政を目の当たりにしてきた僕が、それを変えたいと思ってはいけないんですか!? 処罰が下されるから怖いなんて言わない! それで守ってほしいとも思わない!」
「昴流……」
「僕に戦う力をくれたのは桃偉さんです。僕は、貴方からもらったこの力で、貴方と同じものを目指したい……それに百二十名の戦力じゃ、庇うだのなんだのとは言えないでしょ。ここまで巻き込まれておいて、省かれるなんて嫌だ」
桃偉が沈黙する。と、そこへ真澄が歩み寄ってきた。
「桃偉、私からも頼む。認めてやってはくれないか」
「真澄さままで……」
「変わるのを待つのは嫌なものだ。まだ子供だからと省かれる辛さも知っている。彼の覚悟を、私は嬉しく思うよ」
昴流が深く真澄に頭を下げる。桃偉は大きく溜息をついた。そして、昴流の頭に手を置く。見上げると、桃偉は苦く笑みを浮かべた。
「――口でお前に勝てるわけがないな」
「桃偉さん……!」
「分かった、一緒にやろう。ただし、俺より先に死んだら許さんからな」
「有難う御座いますっ……!」
昴流が桃偉に向けて、もう一度頭を下げた。
桃偉が昴流に仕事を頼んで真澄とともに奥へ見えなくなってから、咲良が不安そうに昴流の手を握った。
「昴流……」
「大丈夫だよ、姉さん。心配しないで」
「……分かっているわ。貴方が戦うなら、私も違った形で戦う。頑張りましょう」
姉の気丈な言葉に、昴流も微笑んで頷いた。
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剣術大会の日に早退したきり、昴流は学校に来なくなった。
大典は今日も昴流が欠席ということを知り、心配が限界に達した。欠席届も出さずに昴流が一週間も休むはずがない。何かあったはずだ。なので彼はこの日、昴流の家に向かうことにした。
昴流は神谷桃偉騎士団長の自宅に住んでいるという。大典はその家に、一度しか行ったことがなかった。桃偉があまり自分の家を他人に知られるのを好まなかったのだ。だが大典だけは、昴流が特別に案内してくれた。といっても家の前まで連れて行ってくれただけで、室内には入らなかったのだが。
放課後にうろ覚えの道を進み、なんとか最後の角を曲がる。その先、直線を五十メートルほど進んだところにある庭付きの一軒家が神谷家だ――と思って顔を上げたところで、大典は驚いて足を止めた。
神谷家の前に、見知らない数人の男が佇んでいたのだ。家の中からも男たちが出てきて、外で待機していた男たちと話をしている。
(なんだ、あいつら? どうして昴流の家に……? まさか、泥棒?)
大典はそう思いつつ、一歩前に進み出る。と、その瞬間に背後から手が伸びてきた。ぎょっとした大典が行動をとるより早く、その手は大典の口を塞ぎ、背後の路地に引きずり込んでしまう。
「大典、場所変えるよ。黙ってついてきて」
その声は大典が毎日聞いていた声で、今まさに探している人物の声だった。自分の口を塞いでいるのは昴流だったのだ。
いい? と念を押された大典は頷く。昴流は少し微笑んで大典を解放し、身を翻して駆け出した。聞きたいことはたくさんあったが、大典も言うとおり黙って昴流の後を追った。
神谷家から十分遠ざかった住宅街の路地の途中で、昴流はやっと足を止めた。大典がここぞとばかりに質問を繰り出す。
「昴流、ずっとどこに行ってたんだ!? 学校に来ないから心配で……! それにさっきの奴らは? なんでお前の家を……」
「ちょっと待って、大典。落ち着いて」
「お、おう」
大典は深呼吸をして黙った。昴流が苦笑する。
「ごめんね、心配かけて……とりあえず元気でやっているから、大丈夫だよ」
「そ、そうか。で、いつ学校に来るんだ?」
「……多分僕は、もう二度とあの学校には行けないと思う」
「え――?」
「大典とも、当分は会えない」
「な、なんで!?」
「追われているんだ」
昴流が説明せずとも、神谷家に出入りしていたあの男たちのことだと大典は悟った。
昴流はここ最近、皇城へ攻め込む際のルート確認を桃偉に任されていたのだ。比較的安全な道を探すと同時に皇都の様子を見る。そういう索敵を行っていた。とりあえず神谷家がどうなっているのかを確認しようと思って出向いたところで、大典と出くわしたのだ。これは想定外としか言いようがない。
「昴流……危ないこと、してるのか?」
「……うん。すごく危ない」
失敗すれば殺される。失敗しなくても、自分が少しでもミスをすれば相手に殺されてしまう。
「どうしてそんなことするんだ? 昴流がやらなきゃ駄目なのか……!?」
大典の必死な言葉に、昴流は微笑む。
「僕はね、大典……侍従として貴族に仕えて、貴族がする不正行為を見過ごし、時には悪事の片棒を担いだ。一般市民の苦しい生活を作り出していたのは、極端なところ僕のせいでもある。だから、けじめをつけなきゃ。僕は当事者として、この悪い時代を破壊する。それが義務なんだ」
昴流はあえて難しい言葉を選んだ。大典を巻き込むつもりはなかった。
「悪い時代を、破壊……」
大典がぽつりと呟く。と、そのとき怒声が響いた。
「そこの刀を持った小僧! 貴様、何者だ!?」
見ると、後方から貴族の私兵と思わしき男が駆け寄ってきていた。その声で大典は、昴流が帯刀していることに気付いた。街中で刀を佩いている者などいない。それはすなわち、貴族の私兵にとっては「敵対者」だ。
「下がれ!」
昴流は鋭く大典に指示を出し、大典の腕を強く引いた。大典がよろめきつつ後方に下がると同時に、昴流は抜刀した。
振り下ろされた刀を、昴流が受け止める。それを弾き返し、昴流は反撃した。体格差があっても、剣の技量は昴流のほうが上だった。威力はなくとも、正確な剣技だ。
昴流は男の背後に回りこみ、刀を振り上げた。男は断末魔の呻きを発し、血しぶきの中に沈んだ。昴流は男の死体を見下ろしつつ、刀を振って血を振り払う。
「……この死体が見つかるのも時間の問題だな。だとすると、このルートも駄目か……」
「す……昴流」
大典が震える声で昴流を呼ぶ。いかに大胆な少年といえど、目の前で人が斬殺されては声も震える。しかも殺したほうは、自分の親友だ。
昴流は大典に背を向け、刀を納めた。
「この間、桃偉さんとふたりで街に出たときもこうして襲われてね。やってやるとは思ったんだけど、足が震えて動けなかった。桃偉さんに、無理なら足手まといになるから戦いに出るなと言われた」
「え……」
「自分から参加させてくれといったんだ。怖いなんて言えない。みんなと同じ痛みを背負うって、決めたんだから――」
昴流は大典を振り返る。
「大典。僕は人殺しだ。……もう僕が、君に会うことはない」
昴流はそう告げ、「気をつけて帰りなよ」と言い残してその場を去った。
残された大典は、昴流がわざと突き放すようなことを言ったのだと悟っていた。大典を巻き込まないためにだ。
それが分かっていたからこそ、大典は辛かった。涙が滲んで、流れ落ちる。それを拭い、大典はその場を駆けだした。
大典が昴流に会ったこと、人が殺されたということを誰かに言うことは、決してなかった。大典にできることはない。ならばせめて、昴流の邪魔はしたくなかったからだ。




