22話
「私は、何もできなかったんですね」
船出。
遠ざかる監獄島と、近付いていく黒い帆を掲げた戦艦。
魔導砲を片側に六門、計十二門をつけた大型のそれは、三枚の帆を張り、今か今かと出航の時を待っていた。
揺れる小舟の舳先に片足を乗せながら、ルシアンは背後を見る。
そこにいたのは沈んだ顔のレベッカだ。
金髪も白い肌も分厚いワンピースも、すべてが泥まみれになったままだ。
そのこびりついた泥の量は、彼女の努力の跡だった。けれど彼女は何も成せなかった。ルシアンを連れ出すことも、聖剣を回収することも、監督官を説得あるいは撃破することもできず、ただそこにいただけだった。
「一丁前なことを言うんじゃねぇよ」
ルシアンは視線を舳先の向こうへ戻し、言う。
レベッカの声がその背中にぶつかる。
「一丁前……ですか?」
「テメェはまだガキだろうが。あんなところにいたこと、そのものが偉業だよ。この上で何かができていたなら、そりゃあ天才的にすぎる」
「……慰めてくれるんですか?」
「…………客観的な評価を下したまでだ」
頬を掻く。
潮風になでられた頬がやけにかゆいだけだ。
「ハッハッハ! 相変わらずひねくれた孺子よな!」
レベッカの隣に座るロクサーヌが大笑する。
ルシアンは舌打ちし、そちらを向かぬまま問いかける。
「……何が言いてぇ、クソババア」
「いやなに、そういったところもかわいらしい。貴様は厭世的なくせに世間を見切れず、人嫌いなくせに人の輪をあきらめきれず、否定的なくせに内心では肯定しているという……まあともかく、こんなひねくれた生き物を説得するというのは、レベッカには荷が重い。最初から連れ出せるとは思っておらんかったよ。だから気に病むな。儂がレベッカをあの島に放ったのは、あくまでも祖父に逢わせてやりたかったと、そういう気持ちだ」
レベッカに対する声は優しい。
話に聞くロクサーヌがやけに優しかったのは、丸くなったというよりも、レベッカをかわいがっていると、そういうことのようだ。
でも、レベッカ本人は気に入らないようで、
「……みんなが命懸けで戦っている中、私だけ守られているのは、イヤなんです」
「ブハッ!」
ロクサーヌが噴き出した。
さすがにひどいと思ったのか、レベッカが声を大きくする。
「な、なんで笑うんですかぁ!? 私、みんなの役に立ちたくて……!」
「いや、許せ。許してくれ。儂が笑ったのはな、お前の覚悟を嘲ったわけではない。ただなんというか――昔な。お前が生まれるよりはるかに昔、同じようなことを言ったヤツがいたと、そう思い出しただけのことよ」
「……それって」
「殺気を放っておるゆえ具体的な名は伏せるが、そやつもまあ、分不相応な望みを抱く孺子であった。十にも見たぬ年齢で戦場に立ち、死にかけ、なぜそんな幼くして戦場にいるのかたずねたならば、同じことを言ったのよ。思わず拾って弟子にしたわ」
「……」
「よく似ておるよ、お前たちは。……レベッカは、性格はとある孺子に似ており、見た目はそのつがいに似ておる。そして行動力は儂の性質を受け継いでおる」
……聞き捨ててはならない発言があった気がする。
ルシアンは思わず振り返って師匠を見た。
「待て。なんでテメェの要素が入ってくるんだクソババア」
「こやつの父親の目は儂のものじゃぞ。であれば、こやつは儂と貴様とあの女との孫ということになるじゃろう?」
「なるわけあるか! コイツは、オレとあいつの――」
「ほう。オレとあいつの?」
「……クソが」
「なぜ照れるか……『孫』という単語は、それほどまで口に出すのにはばかるものか?」
「うるせぇ、黙れ」
「レベッカよ覚えておくのだ。こやつが他人に『黙れ』と言う時には、だいたい、照れておるのだ」
「…………クソが」
ルシアンは再び視線を舳先の向こうへ戻す。
そびえる戦艦からは縄ばしごが降ろされ、船上ではレベッカとロクサーヌの姿を認めた船員たちから歓喜の声があがっている。
「孺子よ、わかっておるか?」
「何がだ」
「あの歓声は貴様にも向いておるのだぞ」
……たしかに、そうだった。
勇者、という声が聞こえる。
まだ若い、『魔なる者ども』との戦争中には生まれていなかったような者たちも、ルシアンの姿を認めると、勇者勇者と目をきらめかせて口々に唱えた。
姿を知っているわけではないだろう。
ロクサーヌやレベッカとともに来た見知らぬ男ならば勇者に違いないと、そういう判断をしているのだ。これはだから、勇者への歓声というよりは、勇者を連れ出した彼女たちへの歓声であろう。
「……ハッ。面倒くせぇ」
「レベッカよ、覚えておけ。こやつが『面倒くさい』と言う時は、嬉しいか、照れている時なのだぞ」
「本当に面倒くせぇんだよ。……どうにもな、歓声やら歓待やらは素直に受け取れねぇ。連中は浮かれてるだけだ。熱が冷めれば簡単に裏切る。歓声をあげるなんていう行為に深い意味はねぇのさ」
「貴様はひねくれておるな」
「そうだな。テメェは違うのか?」
「違うとは言わんが、儂も政治を覚えた。そして人を覚えた」
「ふん。だったらテメェは、あの歓声をどう受け取る?」
「受け取らぬ」
「……」
「応じるだけのことよ。喜びには喜びで返そう。笑いには笑いを返そう。いいか孺子よ、人類の行動何もかもに意味を見出すから疲れる。意味などないと思うなら、『意味なんかない』と鼻で嗤わず、同じく深い意味を込めぬ喜びを返せばいい。……そうして生まれる信頼もある」
「そういうのは、うまくやる自信がねぇな」
「レベッカの手を引け」
「……なんでだよ」
「そうすればきっとうまくいく」
小舟は戦艦のもとへ到着した。
下ろされた縄ばしごは目の前にある。
振り返れば、そこにはレベッカが立っていた。
うかがうような目で、ルシアンの手と、自分の手とを交互に見比べている。
「チッ」
ルシアンは舌打ちをして縄ばしごに片手をかけ、
もう片方の手を、
「……ほらよ」
ぶっきらぼうに差し出した。
レベッカが微笑み、ギュッとルシアンの手を握る。
その柔らかで小さな感触がこそばゆい。照れ隠しのように振り返りもせず縄ばしごをのぼる。そして船の甲板に立つと、片手の力でグッと、はしごをのぼっている途中だったレベッカを引き上げた。
「レベッカ様! 勇者様!」
歓声が船上を包む。
やはりこれを素直に受け取れそうもない。自分はひねくれている。報酬を受け取ることがうまくできない人種だ。
けれど。
「戻りました! みなさん、ありがとうございます!」
レベッカが歓声に応じる。歓声はますます高まる。レベッカはちょっと恥ずかしそうに笑って、ルシアンの方を見上げた。
「クソ……」
ルシアンは首をひねって後方の空を見上げる。
――また、これだ。
「どうしたんですか、ルシアンさん?」
心配そうに身をよせる彼女に、「なんでもねぇ」とだけ言う。
そちらを見ることはできない。
まばゆすぎる日差しに目を細める。
見上げるに適さない、抜けるような青空。
けれど視線を下げることはない。
だって、その口元のゆるみを見られるのは、ルシアンの羞恥心が許さなかったから。




