20話
「老成もしていないらしい。孺子よ、どれほど沈黙を守っても、儂には貴様の鼓動が筒抜けだ。目を失ってからというもの、耳の調子がいい。鼻もだ。臭うぞ、緊張の臭いだ。いや、怒りの臭いか」
ロクサーヌは、高くはないがかたちのいい鼻をヒクヒクさせた。
ルシアンは、のしかかられたまま、舌打ちをする。
「…………やりにくさが倍増しになってやがる。クソババアが」
「しかし、怒るのか。意外だ。てっきり儂は、ヤツと相談のうえ、この島に投獄されたものと思っていたのだがな。今回の戦争も貴様とヤツ、二人の絵図という可能性も描いておった」
「……なんでそうなる」
「貴様があまりに素直だからよ、孺子めが」
ロクサーヌが、小さな拳を振り上げた。
それはすさまじい速度と強烈な重さを感じさせる風のうなりを伴って迫り来る――が、ルシアンの鼻先で、何かに阻まれ止まった。
聖鎧。
ルシアンに傷はなく、阻まれたロクサーヌの拳の方に、血が舞った。
「おい、ロクサーヌ」
「理解できん。予定通りの凋落でないならば、なぜ、貴様は怒らなかった? なぜ、貴様は唯々諾々と投獄された? 貴様が声を挙げれば、儂らはみな、貴様の側に立ったというのに」
ロクサーヌは、反対の拳を振りかぶり、振り下ろす。
やはりそれはルシアンの顔には当たらず、その手前で、不可視の何かに阻まれる。
しかし殴った衝撃は消えてなくならないらしい。ロクサーヌは己の力で己の拳に傷を負わせ、また、反対の拳を振りかぶる。
「おいロクサーヌ、やめろ、無駄だ。聖鎧は抜けねぇよ。オレも試したが、無理だった」
「聖鎧、聖剣。勇気を原動力とする武具。……ああ、やはり貴様が所持したままだったか。目に見えぬ武具。奪い去れぬ武具。なるほど、あの男が聖剣の正体を知っていたとして、たしかに貴様を無力化するには絶海の孤島に幽閉するより他にない」
「……」
「勇気を原動力とする武具か。……ふん」
ガツン、ガツン。
ロクサーヌは拳を振り下ろす。聖鎧に阻まれ、血を流し、拳を痛めつけながら殴り続ける。
「おい、やめろ! テメェが傷つくだけだっていうのがわかんねぇのか!?」
「貴様を迎えに来たと言ったな。貴様を味方にしに来たと言ったな。貴様の力が必要と言ったな。貴様を戦争に叩き出しに来たと言ったな。……それらも偽らざる本音よ。けれどな、儂は貴様を殴りに来たのだ。儂が自らここに来た一番の目的は、貴様を殴ってやりに来たのよ」
「……」
「儂は貴様を強くしたが、貴様の性根を変えることはできんかった」
「……オレの性根?」
「無私の精神よ」
「……」
「貴様はあらゆる願望を汲み取り、叶えるべく奔走する。誰かの願いのためならば、人類種の限界さえ超える。だがな、貴様が唯一、力を発揮できぬ時がある。それは自身の願望のために動く時だ」
「…………」
「あの時、貴様は怒りに任せて叫んでよかった」
――あの時。
国王殺しの罪をかぶせられ、この島に投獄されることが決まりかけた時。
声を、挙げなかった。
だってどうでもよかったんだ。
身ごもった妻は病で死んだ。義父は殺され、時をおかずに父王殺しの罪を着せられた。身に覚えなんかなかった。だけれど抵抗する気もなかった。
ただ一つの想いが胸に去来しただけだ。
――ああ、こういうことなんだ。
人生に報いはない。
……いや、きっと報われていた瞬間はたしかにあった。でもそれはしっぺ返しのための前振りにすぎなかったのだと唐突に理解してしまったんだ。
幸せになれない人生など、もう、どうでもよかった。
……そう思って気付いた。自分はいつからか、報酬を求める者になっていたのだと。
見返りを求めて人を助けたことなど一度もなかった。ただ、閉塞した戦争という時代をどうにかしたかっただけだ。
天命など感じたことは一度たりともなかった。女神に聖剣を授けられたその時だって、自分がそれほどの者だと思うことはできなかったんだ。
使い捨ての人生。
だから命は惜しくなかった。命が惜しくないからどんなことでもできた。結果としてその無謀を勇気と判断されたらしいのだけれど、全然腑に落ちていない。『勇気がある』という賛辞にはいつだって首をひねっていた。
……わかっている。賞賛されて首をひねる英雄など、他の者からよくは映らないだろう。
それでも、納得のいかない毎日だった。
賛辞が自分の頬を撫でるたび、その感触に戸惑い、くすぐったく、気味の悪さを覚える。
報酬を受け取ることのできない人格を持っていた。
どうしようもなく後ろ向きで、人からのいい評価を素直に受け取ることができない。
そんな自分が『報酬を求める者となった』ならば、待ち受ける先には苦痛しかない。
どれほど人々が自分に対して輝かしく温かいものを向けてくれようとも、そのきらめきも、そのぬくもりも、くすみ冷めきったものと感じてしまうのだから。
自分は、何かを求めてはならない。
それは未だに確信として心の根っこに貼り付いている。
けれど、ロクサーヌは言う。
「貴様の諦観は間違いだと、誰かが――否、儂が、殴ってでも、貴様に教えてやるべきだったのだ」
あきらめるのは、間違いだと。
拳を打ち付け、血を舞わせ、彼女は言う。
「儂は貴様の願いを叶え続けていたつもりだった。強くなりたい貴様を強くした。戦争を止めたい貴様とともに戦争を止めた。子が欲しいのだろうと思い、貴様の子を生かしてやった。しかし、そのすべてがきっと、どこかズレていたのだろう」
打擲音には水音が混じり始めていた。
ロクサーヌの拳はとっくに潰れ、血が止めどなく噴き出している。
けれど彼女は殴ることをやめない。
「貴様らの喜びがよくわからぬ。貴様らの怒りがよくわからぬ。悲しみが、想いが、まったくわからぬ。儂にわかるのは、儂の間違いだけよ。貴様をこのような枯れた老人にしてしまったのは、儂の落ち度だ」
「……違う。好き勝手にオレを語るな」
怒りを覚えた。
それは、自分を勝手に語ったロクサーヌへの怒りではない。
拳を潰して自分を殴り続けるロクサーヌを見て、彼女にこうまでさせてしまう己へ抱いた怒り。自分のためではなく、ロクサーヌのための怒りだった。
その瞬間に力が湧いてくるのだから、なるほどロクサーヌもこうまでこじらせるわけだ。
真実、誰かのためにしか、力が湧かない。
勇者と呼ばれてしまった男には、己のために奮う力が少しもなかった。
抱いた静かな怒りを力と成し、ルシアンは組み敷かれた状態から脱出する。
逆にロクサーヌに馬乗りになって、彼女の両方の腕を手でおさえつけた。
「テメェが責任を感じることなんざ、一つもねぇんだよ。オレは最初からそういう生き物だ。……あの時だって、濡れ衣を着せられた時だって、オレは他人のことを考えていた。『ここで無実を訴えたら、きっと世界が割れる』『そうしたらせっかくおさまった戦乱が再び起こりかねない』……そんなことを考えてたんだ」
あの濡れ衣は、そういう性質のものだった。
父王殺し。
少々以上に無理のあるあの筋書きを通し、実際に司法を動かしルシアンに罪を着せた。
そこに政治的な力と野望があることはあきらかで、濡れ衣をかぶせてきた相手は、確実に政権を狙っていたし、そのための根回しもしていたと予想できた。
敵は『勢力』だ。
それも、闇に蠢く、巨大で正体が判然としない、勢力。
影響力がどこまで及んでいるかもわからない。
対するルシアン自身にもかなりの影響力があった。
英雄の名を用いれば軍を動かすことも可能だったし、様々な種族に味方がいた。代表的なのはロクサーヌだ。彼女が動けばエルフの多くが動き、力を貸してくれたことだろう。
勇者を追い落とそうとする勢力と、勇者勢力。
二者の戦いは裁判の中だけでは終わらないだろう。
最悪の可能性を描いたのだ。
戦争が終わり、今度は人類同士で戦う戦争が起こる。それではなんのために命懸けで平和を獲得したのかわからない。
妻が死に、義父が謀殺された時に、そこまで、考えた。
涙一つ流せずに、平和のことばかり考えていた。
「オレに人の世で生きる資格はねぇんだよ」
「……」
「疎外こそが平穏だ。オレみてぇなのはな、世界から疎外されてるべきだって、オレ自身が思った。……だからお前は悪くない。ズレてたってんなら、オレこそがそうだ。上位種ってわけでもねぇただの人類として生まれながら、オレの心は人じゃなかった。テメェに出会った時にはとっくに手遅れだったのさ」
「だからこそ、来い」
ロクサーヌの腕がぬるりと拘束を抜け出す。
そうして、自分に馬乗りになったルシアンを迎え入れるように、広げられた。
「平和は消え失せたぞ、我が愛弟子よ。戦乱が始まり、我らの居場所が戻ってきた。人類が敵味方に分かれ、国が荒れ、血が乱れ、精霊どもが騒いでいる。……悦ぶべきである! 我らの居場所が、死に場所が戻ってきたのだ!」
「……」
「ともに行こう、弟子よ。ともに死のう、勇者と呼ばれた男よ。我らは生きるために死なねばならぬ。精一杯敵を殺し、暴力で戦争をかき乱し、我らにとって価値なき平穏を世のすべてに与え、さっぱりと死のう。さすれば我らは平穏で死んだように生きることもなく、死して名だけが生きているかのように脈動を続ける。それ以外に我らの人生の使い途はない」
「……」
「だがまあ、ここで平穏に朽ちるのも、よかろう」
「あ?」
「儂は貴様を連れ出しに来たが、それ以上に、貴様に行くか行かぬかを決めさせてやりたいのだ。……貴様は己の意思で戦っていいし、戦わなくてもいい。貴様は願いを叶えることができる。生きる場所も死ぬ場所も、貴様は求めていいのだということを伝えに来たのだ」
本当に、殴りに来ただけなのだった。
殴ってやることさえできない弟子。戦争の元凶である可能性さえあった弟子に、孫を見せ、孫と暮らさせ、そして殴りに来た。『何かを求めることは間違いではない』と愚かな弟子に言い聞かせるために彼女は危ない橋を渡り続けたのだ。
幾万の賞賛よりも心に響く気遣いだった。
……そうだ。すっかり忘れていた。世界は居心地が悪かった。戦争に喜びはなかった。たまに訪れる平穏なるインターバルでさえ心は常に戦地にあった。
悩ましき日々。
けれど――仲間たちとともにいた時間だけは、きらめくままにきらめいていて、温かなままに、温かだったような気がする。
特別に感じないぐらいに特別な日々。
違和感なく受け入れられていたそれは、きっと幸せな時間だったのだ。
「……ああ、賢くねぇな」
「……」
「何かを求めたら失敗するとわかっていながら、オレがどれほど平和のために尽くしてもちっとも自分の幸福に寄与しないとわかっていながら、それでもテメェの口車に乗るのは魅力的に感じる。……参るよ、まったく。幸せな時間を描こうとすると戦いの記憶がセットでついてきやがる」
「我らはそういう生き物だ」
「オレとテメェは違う。……オレは止まったままだ。戦争が終わって、この島に来てから、オレは肉体こそ老けたが、中身は全然変わっちゃいねえ。……未熟で青いまんまだ。孺子に違いねぇ」
「ようやく自覚したか」
「……おう。だから、歳を食いに行くことにする」
「……」
「戦争の中でだけ時間が流れるなら、内外ともにジジイになってやろうじゃねぇか。オレは死に場所を見つけられる。その結果平和に貢献できる。……貢献した世界で生きる連中の礎になるっていうのは、なるほど、オレにとっちゃあずいぶんなモチベーションだ」
「……まだ殴られ足りぬと見えるな」
「無理すんなよババア。ケガしてんだろ、寝てろ。……あっちの対応はオレがしてやるからさ」
空を見上げる。
そこには未だ暗雲と雷鳴があった。
沖合に目を向ければ波はいっそう激しさを増し、びょうびょうと吹き付ける海風は鋭いまでの冷たさをはらみ始めている。
世界の亀裂。
強者同士の激突により起こる自然現象。世界の挙げる悲鳴と呼ばれるこの現象は未だおさまっていない。……そもそも、あんなむつまじい小競り合いで起こるような現象ではない。
だから、世界の悲鳴が本当に予感していた『強者同士の対決』は――
――爆発音。
上空から大地へと着弾したその存在を中心に衝撃が広がった。
吹き飛ばされた砂が煙を成し、それらが渦巻く風にからめとられる。
見えた姿は、真っ黒なヒトガタ。
片手と片膝をつくように砂浜に着地したそいつは、顔を上げて、黒目白目の区別がない真っ黄色な瞳をルシアンへ向けた。
「言ったはずだぞ勇者ルシアンよ」
ゆったりと、白い紋様の刻まれた巨体を起こしながら、そいつは続ける。
人類の耳にはあまりに不愉快な、二重に聞こえる声で、
「島を出ることは認めぬ。我に新たなる命令を降したければ、勝利を更新せよと」
魔なる者は武器を――この島で唯一彼だけが持つ、金属製の大剣を肩にかついで、躍りかかってきた。




