19話
わかりきっていることを――
否、わかりきっているはずのことを述べるのならば、対応する必要は一切ない。
聖鎧。
それは無敵の防御を誇る武具である。
原動力は『勇気』。
少なくとも聖鎧を管理していた女神がそう呼称する『それ』は、どうにもルシアンの中に汲めども尽きぬほどの量、貯蔵されているらしい。
言語が生まれて以来『勇気』と呼ばれていた得体の知れないそれは、魔力のような目に見えぬ、しかし感じることのできるエネルギーなのか?
あるいは体の中を流れる血潮のようなものなのか?
もしくは寿命でも差し出しているのか?
……齢五十を超えた身だ。最後の一つだけはあり得ないと断じることができるけれど。
その謎のエネルギーにより、ルシアンはあらゆる攻撃の影響を受けない。
だから、いかに激しい攻撃を繰り出されたとして『無視して歩き去る』ことは可能だった。
能力的には、可能だった。
だからルシアンが、繰り出された剣を、手にした長物――護送兵用のハルバードの柄で受けてしまったのは、その攻撃が精神的に無視不可能なものだったからだ。
「ハッハッハ! 相変わらず未熟よな!」
不意打ち気味の初撃を受け止められておいて、ロクサーヌは高らかに笑った。
それは無視して立ち去ることのできたルシアンが、そうしなかったからで――
未熟とは、攻撃を受け止めた手腕ではなく、攻撃を受け止めてしまった精神への評価なのだろう。
言われた通りだ。
ロクサーヌの攻撃には対応せねば死ぬのだと、体が覚えている。
若かりしころ――否、幼きころ、ただの少年兵だったルシアンはロクサーヌに鍛え上げられた。
拉致同然に弟子として迎え入れられ、修行をつけられた。
そのころと変わらぬ若々しい声で、荒々しい気性で――
唯一そのころと変わって両目を奇妙な紋様の描かれた毒々しい色の布で覆って、斬りかかってくるのだ。
「孺子よ、ああ、孺子よ! 思い出すな、まだ子供だった貴様との日々を! 儂の修行を受ける貴様の顔を! めしいた目など、今まで気にしたこともなかったが、なるほど、老いた貴様の顔が見えぬことだけは、唯一悔やむべきことよな!」
「本当に見えてねぇのかよ、その目は!」
疑ってしまうほど、動きによどみがなかった。
砂浜を音もなく滑り、予備動作を感じさせぬ動きで剣を奮う彼女には、衰えというものが一切ない。
攻撃も的確そのもので、首や腋、そして武器を持つ手など、小さな場所にも極めて正確に攻撃を繰り出してくる。
「動きが荒いぞ孺子よ! ……いや、貴様、本当にルシアンか? 儂の知るあやつは、もっと覇気にあふれておったぞ。声も、そのように枯れてはおらんかった。気配だけだ、貴様とルシアンとの共通点は」
「……人間はな、歳をとりゃ声も枯れるんだよ。テメェらエルフと一緒にすんな」
「まだ妻を亡くしたことを引きずっているのか」
ほんの一瞬、動きが止まる。
その精神的未熟さを見逃すロクサーヌではない。音もなく、しかし優美な動作で剣を奮い、ルシアンの手にしたハルバードを剣で巻き上げ、跳ね上げてしまった。
きっさきをこちらに向け、ロクサーヌは言った。
「つがいが死んで悔やむなら、死なぬ者をつがいとすればよかったものを。儂は言ったはずだぞ、『背中をあずけられぬ相手などとつがうな』と」
「……」
「儂は言ったぞ、ルシアンよ。『つがいならば、脆弱な人間の女ではなく、儂でもよいだろう』と子を成すなら儂であってもよかろうと、そう言った」
「……旧交を温めに来たなら、もう帰れ。お前らはレベッカを連れてはさっさと島を出た方がいい。あいつが――この島の監督官が来る前に」
「ハッハッハ。とっくに向かっているであろうよ。こうして貴様と話しているのは暇つぶしよ。沖合で轟沈させられてもたまらんのでな、陸にいるうちに倒そうというわけだ」
「……相変わらず」
「それに、貴様を連れ帰らねばならん。――世界は今、滅びかけているのだ」
「言うな。興味がねぇ」
「まあ聞け」
言葉とほぼ同時、ロクサーヌが手にした剣を投げつけてきた。
ああ、わかっている、避ける必要もはじき返す必要もない――だけれどルシアンは顔めがけて投げられた剣を回避してしまった。
恐怖したから? 『避けなければ』と心に刻み込まれているから?
それもあるだろうが、ロクサーヌが絶妙だった。
会話中、心が弛緩したタイミングを――咄嗟の回避を誘うようなタイミングを、ロクサーヌが狙ったのだ。
視線が顔の真横を通り抜ける剣に、一瞬、吸い寄せられる。
――致命的なミスだった。
「……貴様、本当にルシアンで間違いがないか?」
視線が逸れた一瞬で距離を詰めてきたロクサーヌが、こちらの右手を握った。
次の瞬間、視界が反転し、背中から砂浜に叩きつけられる。
投げられた。
聖鎧は投げによる打撃属性ダメージさえ無効化する。
しかし何の意味もない。背中が地面についた時点で、ロクサーヌはこちらを押さえ込むために動いている。腰のあたりに乗られ、片手で額を押さえられた。両腕は膝の下に敷かれてしまって動かない。
目のあたりを不可思議な紋様で隠したまま、馬乗りになったロクサーヌがこちらを見下ろす。
彼女は子供と見まがうほどに小柄で、体重も当然のように軽い。
だけれど馬乗りされた体はまったく動いてくれない。
ポイントを押さえられている。
腰を跳ね上げてスペースを作ろうにも、腹筋を使って体を起こそうにも、初動の時に力をこめる場所に力が入らないよう乗られている。
「孺子よ。まさか、投げられた武器に目をとられて、こちらから視線を切るとはな。儂の教えはすっかり忘れてしまったらしい。戦いの最中に相手から意識を逸らすなと、何度教え、何度『意識を逸らしたらどうなるか』を味わわせてやったか、もはや覚えておらんのか」
「……」
「油断したな。弛緩したな。……いや、そうか、衰えたのか。戦のないこの地が、戦いをせぬこの場所が、命のかからぬ環境が、貴様を衰えさせたのか。……それだけではないな。ああ、そうか、そうだった。人間は老いる。組み敷いた貴様の体からは、筋肉の張りを感じぬ。骨と、皮と、弱々しい鼓動と。……たった三十年で、貴様はこうも」
「人間の三十年は重いんだよ」
「そうらしいな。……だからこそ、ヤツも急いだのだろう」
「……」
「貴様を王位から追い落とした男が、人間以外の種族を相手に戦争を始めたぞ」
もたらされた情報は、なんとなく想像していたもので――
けれど、ルシアンの胸中には、深い衝撃とともに、こんな想いがよぎった。
――ああ、ついに、知ってしまった。




