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11話

 ――粘つくような悪夢だった。


 聖剣を通して問答無用に流れ込んできたその『記憶』に、ルシアンは思わず体を硬直させる。


 あまりにも若々しい――二十代前半ほどの見た目に、騙されていた。

 アナマリアはかつて、ルシアンが勇者と呼ばれた戦争を経験している。



「クソ……そんなもの、オレは、興味ねぇって言ってるだろう……!」



 歯をギリギリと噛みしめ、腕を震わせている感情は、きっと、彼女から流れ込んできた怒りだ。

 聖剣を通して流れ込んできた記憶は、記憶の主の感情をルシアンのものであるかのように錯覚させる。



「――わたくしの怒り」



 蠱惑的な声が響き、ルシアンはようやく自分の状況を思い出した。

 だが、反応が微妙に遅れる。


 アナマリアはルシアンの腕をとり、口づけでもするかのように顔を寄せてきた。



「あなたが世界を救ったせいで、わたくしは怒りの矛先を失った」

「……」

「あなたがわたくしを助けてくださらなかったから、わたくしは怒りを抱える羽目になった」

「……」

「救世主様。英雄。……すべてを救うお方。なぜ、わたくしの救いの道だけ、こうも綺麗に閉ざされてしまったのですか? わたくしはただ、思い切り怒りたかっただけなのに。あなたが助けるのが遅かったせいで――あなたがわたくし以外の人を助けてしまったせいで、わたくしの怒りはこの身を燃やし続けるのです」



 とんだ逆恨みもあったものだ。

 ……だが、珍しい感情ではない。


 なぜ、人がそんな心情に陥るのかは、今もって理解が及ばないけれど――

 人は味方を恨む。

 自分に利さなかった味方を、自分を傷つけた敵よりも恨むのだ。


『あいつは自分を助けなかった』

『力があるくせに』『もてはやされているくせに』『英雄とか呼ばれているくせに』『片腕を失った』『片目を失った』『息子を失った』『母親を失った』『尊厳を失った』『立場を失った』『故郷を失った』『時間を失った』



『あいつが、助けてくれなかったせいで』――



「クソが」



 助けられなかった者たちの怨念をずっと感じ続けていた。

 助けたはずの者からさえ恨まれているのだと、とっくに理解していた。


 ……だから、折れたのだ。


 英雄としてすべてを救いたかったし、救うために力を尽くしてきた。

 感謝しろとは言わない。せめて、憎悪しないでほしかった。


 強くない。


 勇者ルシアンには勇者たる力がない。

 それは腕力でも権力でもなく、心の強さだ。


 いつでも折れかけていた。

 それをつなぎ止めてくれている人がいた。


 勇者を支えられるほど強い人がいて――

 その人が死んでしまった。


 だから、もう、無理だと思った。

 もう自分は戦えない。きっと、この先、誰かを救おうと思うことはできないし、苦境に立たされたところで己を奮い立たせるモノなどなにもないのだろうと確信した。


 もういいと、そう思うのに。

 無責任な被害者にいくら逆恨みをされようと、それを嘲笑う程度の老獪さは身につけていると思っていたのに――



「オレは、今初めて知った――当時、存在さえ知らなかったテメェのことだって助けたかったんだよ!」



 ――あまりにも青臭く、叫んでいた。



「けどなあ! 無茶言うな! オレの目がとどく範囲にも、オレの手がとどく範囲にも、限度があるんだよ! オレは(・・・)勇者(・・)じゃねぇ(・・・・)ただの(・・・)人だ(・・)! テメェらが勝手に創り上げた『勇者』とかいう偶像を、勝手にオレに当てはめてんじゃねぇよ!」



 蹴り飛ばす。

 アナマリアはよろめき、背後へ倒れこんだ。


 彼女は毒の剣を握りしめ、



「では、どうすれば? 力なく、頭脳なく、対応のための時間さえなく、権力もなく、血統もなく、ある日突然襲われ、死をも超える目に遭ったわたくしたち弱者は、いったいなににすがれば?」

「すがるんじゃねぇ。進め」

「……死ぬとわかっていても?」

「オレは、戦わないから負けてないだけの敗者が大嫌いだ」

「……」

「『賢くない』『無駄なことを』『無謀だ』……言うのは簡単だよ。けどなあ、そんなモンは『やってみる』ことをしない連中の言い訳だ。『賢くない』から行動しないのか? 『無駄だ』から挑戦しないのか? 『無謀だ』から立ち止まるのか? 違うだろ? 勇気がなくて挑戦できない自分への言い訳だろうが!」

「……けれど」

「止まっててもどうせ死ぬなら進んで死ね。……行動しなきゃ、見えねぇだろうが。助かりたいなら、助かりたいなりに動けよ。ひっそりとひどい目に遭われても、見えねぇんだよ。オレの見える範囲には限界がある。オレは万能の救世主じゃねぇ。全知全能じゃねぇんだから、せめて、オレに見えるように動いてから、オレに怒れ」



 そこまで言って、ルシアンは舌打ちをする。


『お前が、助けてくれなかったせいで』


 若かりしころ、そう言われるたびに抱いた『もやもや』は、三十年を経て言語化された。

 ……なんて荒々しく若々しい主張だろう。

 ようやくわかった。この監獄島でほとんど他者とかかわらず過ごした三十年は、自分を老成させてはくれなかったのだ。

 若いまま、歳を重ねた。

 ……だから年寄りらしく振る舞おうとしても無理が出るし、若者のように考えようとしても、気恥ずかしい。



「それで、テメェはどうするんだ?」



 問いかければ、アナマリアは怪訝な顔をする。

 意味がわからないといった表情――それはそうか、と思い、また舌打ちをしてからルシアンは補足する。



「かつて、力のないテメェが救いを求めていたように、今、力ないヤツがテメェに救われるのを待ってるんだよ」

「……誰が?」

「そこでぶっ倒れてるオレの孫に決まってんだろうが」

「……」

「今、お前は『解毒』という力を持っている。大きな力だ。その力で誰かを助けるか、あるいは助けないのか? ……オレに際限ない救いを求めるテメェは、自分で誰かを救う意思があるのか聞いてるんだよ」



 いつの間にか、ルシアンの手に剣はなかった。

 アナマリアは彼の顔をジッと見る。


 シワにまみれた、かつて精悍だったことを思わせる顔立ち。

 短く、しかし乱暴に切られた白髪と白いヒゲ。


 彼が勇者ならば、まだ五十代のはずだ。

 けれど七十、下手すると八十代にも見えるほど老いた容姿。


 疲れ果てた、年寄り。


 だからようやく、アナマリアも気付いた。

 ……そこにいるのは『助ける相手を選別する傲慢で無責任な救世主』ではなかった。

 想像していたよりももっと小さく、もっと弱々しい、ただの人。


 勇者は、人だった。


 ……その当たり前すぎることを、アナマリアはようやくわかった気がした。



「……一つだけ教えていただけるかしら?」

「なんだよ。手短に言え」

「人を助けて、いいことはあったのかしら?」

「……」

「誰かを救うあなたは、救われていたの?」



 ルシアンは押し黙った。

 視線を地面に落とし、



「救われてたよ」

「そうは見えないわ」

「今がどうかはまあ、言うまでもねぇかも知れねぇがな。……かつて、確かに救われていたことはあった。どれほどの目に遭っても、その事実だけは消え去らねぇ。過去は変わらねぇんだよ。よくも悪くもな」



 優しい時間は永遠に失われてしまった。

 輝ける幸福は、もう手の中にない。


 ……それでも確かに、かつてこの手の中にはあたたかなものがあった。

 心に空いた穴が、かつてそこにあったものの大きさを今なお忘れさせてくれない。



「勇者様。……きっと、あなたの中には素敵なものがあったのね」

「……そうだよ。悪いか」

「そうね。そうだわ。……ああ、この怒りを鎮めるためにたくさんのことをしたけれど……」

「……」

「そういえば、人助けだけはしたことがなかったわね。一回ぐらい、やってみようかしら」




 ――そうして浮かべた笑顔には、毒も呪いもなく。


 煮えたぎる怒りは未だある。

 それでもアナマリアはただ華のような笑顔を浮かべることができた。

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