【4】
「……元気だった?」
昨日まではピンと張っていた風船が萎んでしまったようだった。記憶の中よりも、想像していたよりも、母さんは歳をとっていた。薄くなった唇の横にあるのは二本のほうれい線。髪の生え際にあるのは染めても残った幾本かの白髪。二十二年。その歳月をまざまざと感じる。
「……!」
口に両手を充てると声を詰まらせた母さんの、その姿はとてもとても……小さく見えた。
「あー……あのさ、部屋のことや荷物の処分とかやってくれたろ……ありがとな」
言わなくてはならない言葉は沢山あるのだろうが、何も言うことができそうになかった。ばつが悪くて視線を逸らす。すると「この親不孝者!」と、罵声が飛んできた。
大学の学費や寮の費用は出してもらっていた。それなのに長期休みでも「生活費を稼ぐから」と、もっともな理由をつけてアルバイトを言い訳に帰らなかった。働き出してからは「仕事が忙しい」を言い訳にした。
出て行ったきり自分からは連絡も寄越さない息子だ。そうだよな。俺もそう思うよ。
のろのろと視線を戻すと、眉間をしかめ涙を溜めた目で俺を睨んでいた。口は見事な「へ」の字に結んでいる。相当怒っている。
「……もう歳なのに上京してもらっちゃったうえに……色々と大変だったと思う。めんどくさいことをさせちゃって迷惑をかけました。すみません」
謝りながらと深々と頭を下げると、母さんはいきなり猪のように真っ直ぐに突進してきた。
ええぇ……また殴られるのかよ?
しかし、それぐらいは甘んじて受けようと、瞬間的に身構えて目を閉じ、奥歯を食い縛る……。かと思いきや、腕を精一杯に伸ばしてぎゅっと抱きついてきた。
「迷惑だとか面倒だとか、そんなことを言ってるんじゃない! 親より先に逝くなんて……! こんなことになるなんて……! 本当に……なんで……なんでこんなことに……」
「……」
泣きじゃくり、細くなった両腕をしっかりと背中に回している。震えている両方の手は固く背中で組まれていて、絶対に俺を離さないと決めているようだった。
……いつぶりだろう。こうして抱きしめられたのは。
昔は父親代わりでもあった。男親に肩車をしてもらっている友だちが羨ましくて、せがんだ記憶もある。母さんの肩の上から見た世界はとても広くて、明るかった。いつもよりも空がほんの少しだけ近く感じた。
いつの間にか身長は追いつき、ずいぶんと追い越した。ずっと見上げていたのに、今はこんなにも小さくなって震えて泣いている。
……ごめんな。
背中にそっと手を回す。余裕ですっぽりと覆ってしまえた。
大馬鹿で薄情で、おまけに親不孝な息子で。
母さんにとっては俺なんかいないほうが、旦那や弟に気を使わなくていいと思っていた。
母さんを嫌いになった訳じゃなかった。だけど……あそこは俺の居場所じゃないような気がずっとしていた。
「母さんは……長生きしろよ」
「言われなくって……馬鹿な息子の分まで……ずっと……ずっと生きてやる」
「うん……」
細かく震える囁くような声だった。もう、どうにも仕方がないことにこみ上げる怒りとか、後悔とか哀しみとか、そんなやり場のない感情を抑えつけているかのような。それでいて、足を踏ん張ってしっかりと大地に立つことを決めたような。そんな強さをさえも感じる声だった。
こんな息子で……本当にごめん。
なんか、それしか……言えないわ。
しゃくりあげる母さんの背中を何度も何度も片手でゆっくりと擦る。ずっと忘れていた温もりと匂いはあたたかく、とても懐かしく感じた。今度は忘れないように、もう片方の腕で強く抱きしめ返した。
☆.・.★.・.☆
「スズキさん、ありがとな……」
毎度お馴染みのスカイツリーのゲイン塔の天辺。見下ろすは都心の夜。今夜も快晴だった。360度の大パノラマが拡がっている。
スズキはこの場所がお気に入りらしい。何かと連れてくる。
弟の夢の中で紗代と幸輝のことを伝えたあとに、弟からも頼まれた。
「母さんにも会っていってほしい」と。
正直なところは迷っていた。紗代と幸輝のことを知るまでは、会うつもりはまったくなかったから。だけど……弟ひとりの夢枕に立っただけでは、さすがに本当に夢だったということにされてしまいかねない。それは困る。……というのは、やっぱり建前なんだろうな。
会いたかったんだ。母さんに。
「いえいえ。これが私どもの仕事ですので」
スズキはスーツの襟をぱりっと整えながら誇らしそうに微笑った。
母さんと弟の夢枕に立った翌朝。お互いに夢の中で俺に会って話をしたと知って「夢じゃないのかも!」と、ひどく慌てて大騒ぎをした。母さんの旦那はふたりから話を聞いて、ただただ驚いていた。
夢の中のことは、さほど鮮明には記憶していなかったらしい。それでも「東京に認知をしていない息子がいる」と伝えたことだけは、はっきりと憶えていた。名前と住んでいる市、通っている小学校などを、頭を突き合わせながらふたりの記憶と照らし合わせていた。
その後の行動は早かった。弟は、今はフリーのライターをしている大学時代の先輩の伝手を頼って紗代と幸輝を探し出した。それから、俺のことを伝えるために連絡を取った。
母さんとその旦那と弟の三人が上京したのは、先日の土曜日のことだった。弟はきちんとスーツを着て、俺の形見となるネクタイを絞めていた。あれ、一番高かったやつなんだよな。見る目があるというか、ちゃっかりしているというか。
紗代は母さんたちに会ってくれた。幸輝にも会わせてくれた。
母さんは幸輝を一目見ると泣き出してしまった。鼻と口元が俺にそっくりだと、スズキと同じことを言っていた。それから「息子が申し訳ないことをした」と、母さんの……旦那も一緒に、紗代に何度も頭を下げていた。
最初は人見知りをして紗代の後ろに隠れていた幸輝は、慣れてくると弟にキャッチボールをせがんだ。アパートの駐車場に降りて、楽しそうな声を上げながら遊んでいた。
スズキは少し声を落とした。
「本当に……よかったのですか? 紗代さんと幸輝くんにはお会いにはならないで。今ならまだ間に合いますよ」
「……」
幸輝の遺伝子上の父親は確かに俺なのだろう。だが十年もの間、無責任にも幸輝の存在すら知らなかった。
独りで産んで、ここまで立派に育てたのは紗代だ。ぽっと出の俺が父親だとは名乗れない。
住所も携帯番号も変えてはいなかった。その間に紗代から何も連絡がなかったということは、つまり、彼女はすでに決めていたということだ。幸輝の親は紗代だけだと。姿を消したその日から。
「……そうでしょうか?」
スズキは訝しそうに首を傾げる。
「もし……母さんと俺を棄てていなくなった父親が十年後に帰って来たとしてもさ。俺なら受け入れない。父親なんて絶対に名乗らせない」
「……」
「だって考えてもみてよ。今さらだよ? 都合がよすぎだって」
「生きているのならそうかもしれませんね。でもあなたの場合は……。本当にこれが最期ですよ」
「知らなかったとはいえ……違う……知ろうとしなかったんだよ。俺は。紗代はなにも言わずに消えるような人間じゃなかった。逃げたのは俺なんだよ。……紗代にも幸輝にも、今さら合わせる顔なんかないだろ……?」
「会いたくない……わけではないようですね」
「会いたいよ……。会いたくないわけがないじゃないか。……会いたいよ。……会いたいよ! すっげー会いたいよ! だけどさ! 会えるわけがないだろうっ!? 俺は紗代を探そうともしなかったんだ! それなのに今さら……。本当に今さら……」
くそっ。なんだっていうんだ。涙が止まらない。
「それを決めるのは……紗代さんではないでしょうか? あなたはただ、受け入れるしかないのですよ。幸輝くんと会うことを許されても、拒否をされても、たとえ抱きしめられても、強烈な平手打ちが飛んできても、ね」
スズキは訳知り顔で片目を瞑った。そのキザな仕草は、髪を七三に分けた昭和三十年代サラリーマン風の男にはあまりにも似合わない。
「スズキさん……それ、キモい」
ヘンなものを見せられて、昂っていた気持ちは少しだけ落ち着いた。鼻をすすり上げる。
「あなたもね。グチグチとみっともないですよ。お互い様ですね。漢なら当たって砕ける覚悟でいきなさいよ」
そう言うと、スズキは今度は鼻で笑った。




