第67話 虚実古樹の私から②
月光に晒すと、その液体は官能的な琥珀色を魅せる。きっと、陽の光のもとだとより美しいのだろうと、私は少しだけ、人間に嫉妬を覚えた。
グラスを顔に近づけて、少しだけ揺すりながら、粒子が空気中を舞い、グラスのふちを通り、鼻腔を通り抜けるのを待つ。強烈な香水と、血の匂いを感じないほどの、アプリコットのような酸味、それに、上質な蜜のような甘い香り。しばらくこの香りに浸っていたいと思うほど、優雅で、それでいて早く味わいたいと願うほど、魅惑的だった。
私は我慢できず、グラスに口をつけて、緩やかに流し込む。香りと同様にアプリコットの酸味、蜜のような味わいが通り抜けた後、口の中で、次々と華が開いていくような、そんな感覚。
雄大な花畑と、穏やかな風を感じて、こんな風に素晴らしいワインに出会えた時、私は人間と同じ味覚を持つことが出来たことに、感謝を覚える。
「お気に召してくれたかしら?貴腐ワインというものらしいのだけれど。」
男娼のような眷属を何人も侍らせたこの女、真祖『暴食のエリザベート』は私に訊ねる。彼女のグラスには、赤黒い血液が注がれている。
私はため息をつく。
「まず、ワインは最高だ。本当に君のワインの趣味だけは認めるよ。でも、他が最低だ。」
「あら、そうかしら?」
一気に流し込むように血液を飲み干して、席のすぐそばの樽に付いた蛇口から、血液をグラスいっぱいに注ぐ。また、血の匂いが部屋中に充満して、私は苛立ちが募る。
「まずその血の匂いだよ。あと部屋中からする香水の匂い。ワインの香りを楽しみたいのに、邪魔くさくてしょうがないじゃない。あと血液だとはいえ、君のグラスへの注ぎ方も気に食わない。そんなになみなみと注いだら、香りが楽しめないじゃないか。」
「飲み物の楽しみ方なんて、人それぞれじゃないかしら?ねえ?」
「「「「はい、エリザベート様。」」」」
男娼に向かって話しかけると、彼らは一斉にそう返す。
「なにより、君の品性が最悪だね。その眷属どもにも魅了を使っているのかい?」
「いいえ。この子たちは、『血の支配』にかけているだけよ。『私を誰よりも愛して、敬いなさい』って。」
そう言って、グラスを煽るように飲み干して、また彼女は血を注ぐ。『血の支配』、真祖より眷属へ行う命令の事だ。ヴラドも眷属に行っていたが、私は面倒だし、楽しくないのであまり行っていない。
そう言う意味でも、この蛇女とは気が合わない。元々蛇は大嫌いだが、彼女のせいでより嫌いになりそうだ。吐息がかった喋り方も、無駄に多い露出も、樽詰めの古い血液を美味しそうに飲む様も全て不愉快だ。
「貴方も良ければどう?」
「生憎、今日は既に食事は済ませていてね。で、今日は何の用だい?」
ワインに釣られて来てみたが、こんな空間では楽しめない。さっさと要件を済ませて、数本ワインをかっぱらって帰ることにした。
「エディンム、あなたはもう城を持つつもりはないのかしら?」
「城?ああ、ないね。」
最後に城に構えたのだって、200年以上前だ。しかもその最期は、城住まいに飽きてヴラドの所や諸外国を歩き回っていたら、気が付くとヴァンパイアハンターに滅ぼされていたという、非常にあっけない最期で、私は城住まいが向いていないことを悟った。
「そう。なら私の下に来なさい。」
笑いながら、エリザベートは私に提案をする。何を言っているんだろうか、この馬鹿女は。私は不愉快を通り越して、呆れてしまう。
「それは、本気なのかい?『暴食のエリザベート』の『邪眼』も随分曇ったようだねえ。」
「前から思っていたのよ。『『適応のエディンム』なんて、本当に私とヴラドに並んで真祖と呼ばれる存在なのか』って。」
クスクスと、男娼達が笑い出す。足元にも及ばない癖に、態度だけは偉そうで、私の嫌いな雑魚どもだ。
「へえ?私を腹立たせる為の作戦としては有効な手段だ。余程命がいらないと見える。」
「だってそうじゃない?適応する必要があるのは弱者だけよ。しかもヴラドの『咆哮』や私の『邪眼』のような特性もないでしょう?眷属もなくて、特性もない。力でも私達に劣る。あるのは弱者としての素質と、長く生きたという事だけ。本当にあなたは真祖なのかしら?」
嘲るように、彼女は高笑いをする。私が腹を立てたのはその発言の方ではないのだが、逆にその勘違いのおかげで少し苛立ちは収まった。むしろ、これは彼女なりの余興なのではないかと思えてきた。
「だから、お優しいエリザベート様は私を下僕にしてくださると?」
私は、必死で笑いを堪えながらわざとそうやってへりくだる。
「ええ。私達に及ばないとはいえ、あなたが優秀な吸血鬼であることには変わりがないわ。であれば、私が使ってあげるのが一番でしょう?ヴラドはとっくに死んでしまったのだし。だからーーー」
「ンフッ…………フフフフフフッ…………。」
駄目だ、もう堪えきれない。ここ数百年で、一番面白いかもしれない。急に笑い出した私に、エリザベートは驚いたような表情をしている。
「フハッ、フハハハハハハツ、アハハハハハッ!!いいよ、最高じゃないか!!そんなジョークを考えてくれていたなんて!!いいワインに最高のジョーク!!最高のおもてなしだ、君の事が少し好きになれそうだよ!!」
しばらく、私の笑い声が部屋中に響く。私は少し落ち着いて、彼女に聞いた。
「ごめんよ。堪えきれなくなってしまって。それで、オチはなんだい?それを聞いてから、本題に入ろうじゃないか。」
今なら、多少の要望は聞いてあげよう。そんな優しい気持ちで彼女を見ると、死人のように白いエリザベートの顔が、微かに赤く染まり、顔は怒りで歪んでいた。
「…………え?本気だったのかい?」
私は、思わず焦ってしまう。本気で、真祖ともあろうものがあんな事を言い出していたなんて。
「話は以上よ、エディンム。愚かで弱い、真祖の偽物!!貴様は無様に死になさい!!」
こうなるだろうなとは思っていたけれど、ここまで彼女が愚かだったとは。これだから本当に、蛇は嫌いだ。




