第200話 虚実古樹の私から、槁木死灰のあなたへ
「フ、フフ。」
今日見た夢を思い返して、思わず笑みが零れる。随分と懐かしい夢を見た。ここ300年程は、ヴラドの事も、マリアの事も、ほとんど思い返す事は無かったのに。
「何を笑っているんだ?気持ちが悪い。」
彼、岸根涼はわざとらしい程に悪意を込めた口調で私に言った。彼らしい。彼らしいけれど、結局彼は彼らしいままで、ギルのようにはならなかった。
ギルのようだった目も、今は黒く濁っている。情けない死にたがりの、負け犬の目だ。
「君と出会った時の事を思い返していたのさ。あの素敵な出会いをさ。」
「……記憶に無いな。覚えているのは反吐が出る程気色の悪い、吸血鬼の真相様の顔だけだ。」
「ああ、そうだった。」
君の記憶は、私が奪ったんだったね。心の中でそう呟く。やはりあれは失敗だったかな。彼の積み重ねていた20年程が彼をかたどっていたのならば、それを奪えば彼の形が変わるのも自明の理だ。
カーテンを開ける音が聞こえた。
「危なくないのかい、それ?」
「日が出ていれば危険だが、出ていなければ危険では無い。」
「『危険な可能性がある』、という事は危ないという事だよ。まあ、自殺志願者の君からしたら、日が出ていようが構わないのかもしれないけれど。」
私の言葉には返事をせず、彼は恨めしそうに、乱暴に音を立ててカーテンを閉めると、言った。
「こっちは陽が昇ってきたぞ。」
「今昇りだしたのか。随分夜が伸びたねえ。」
私は、ずっと同じ事を言っているな、と言いながら思う。涼がどう思っているか、正確には分からないが、恐らく彼も私に同じ事を思って呆れていそうだ。
暗い樹海の中では、どうしても季節の移ろいは感じづらい。気温変化に私達が強いというのもあるのだろうけれど。
「そういえば」
ふと思い出して、私はその言葉を口にした。
「そういえば、誕生日おめでとう。」
今日は、彼を吸血鬼にしたあの日だ。だから、私はあの懐かしい夢を見たのだろうか。
私は本心からその言葉を彼に伝えた。『君のおかげで、私は今も生きている』と。けれど、涼は別の印象を受けたのだろう。
「うるさい。」
そう、苛立った声が聞こえた。表情は分からないが、恐らく不快そうな顔をしているのだろう。
相変わらずだなあ。思わず苦笑しながら、それならば、と私はそこでようやく悪意を込める。
「今年で何歳になったんだっけ?」
彼が死にたがっているのを知っていて、敢えてそう訊ねる。
「……丁度300歳だ。」
「へえ。もうそんなに経ったんだねえ。もういい加減、諦めたら?」
嘲るような私の言葉に、彼は沈黙する。『死ぬのを諦めればいいじゃないか。』という意図で言ったが、それとは別に、その言葉は自分にも向いていた。
『もう、彼をギルにするのは諦めるのはどうだ?』
彼は吸血鬼になってから、腐っていくばかりだ。私に勝てず、死ぬ事も出来ず、何も成し得ない彼は自分の無力感を噛み締めるように腐っていった。こうなってはグールと変わらない。腐るのが心か、体かの違いだけだ。そんな涼もそれなりに愉快だが、それでもやはりギルには及ばない。
彼は、あと何があればギルになるのだろう。その答えはついぞ300年出なかった。
だが、この日の私は、ふとある事に気付いた。
『執着』ではないだろうか。
思い返してみれば、全ての生き物が最も力を発揮するのは、何か強い執着がある時だ。
獲物を狩る時、子を守る時、縄張りを守る時に、獣は力を発揮する。
考えてみれば、マリアやヴラドもそうだ。マリアは『私』への、ヴラドは『王』という立場に。涼だって、村を守ろうとして私と闘ったあの時が、一番強い光を放っていた。
そうだ、それならば。
「夜が明けたからもう切るぞ。」
面倒くさそうに電話を切ろうとする彼を私は慌てて止める。
「あ、少し待ってくれないか。」
そうだ、彼に執着させる物を作ればいいんだ。
その為に、彼に送ろう。死にたがりの彼へ、王としても、真相としても、ギルの友としても死ねなかった私から。
「300歳の誕生日プレゼントだよ。いい話をしてあげよう。」
私の声は思わず弾んでいた。そうだ、もっと早くこうすれば良かった。何故こんな事にも気が付かなかったのか、理解に苦しむ。
「君の死に方についてのヒントだよ。」
「え?」
こうしてエサをチラつかせて、彼が執着心を抱いた物を、私が壊す。きっと涼は、私に対して強い怒りを覚えるだろう。恐らく、殺意と呼んでも差支えのない感情を。
それでいい。それこそが、私の望みだ。ギルに出逢えるならば。瞬きでも、刹那でも。もう一度、彼に逢えるのならば。
その一瞬の為ならば、全ての過去は捨てていい。その覚悟として、私は今まで涼に1度も話してこなかった、彼女の話をする事にした。マリアを、エサにすることにした。
「自殺を成功させた、彼女の話をしよう。」
私に執着して、人を愛して、誰よりも死を恐れた、マリア・ローズの話を。彼女が、自殺した、あの日の事を。
「まだ君と出会うより前、今から700年くらい前だっただろうか。僕の第3眷属、名前は…なんだったかな?確かマリアだったと思う。」
彼女が死んだ時の話を、私は伝えた。
死んだ理由は、『家畜の死に心を痛めた』という事にした。私が原因だとは、言えなかった。言おうとも思えなかった。
あくまで、『退屈に飽きたから』という体をとった。私の心からの願いがそこにあると気付かれれば、涼は従わないかもしれない。だからそうした。
一通り言いたいことを伝えると、私は
「じゃあ次もいつも通り一週間後の木曜日に、3時から話そうか。お休み。」
とだけ伝えて、逸る心を彼に悟られないように電話を切った。
深く息を吐いた私は、とっくに日が昇っているにも関わらず、外に飛び出したくなるほど心が落ち着かなかった。
期待と、不安。彼がギルのようになれば、という期待と、彼がこのままだったらどうしよう、という不安。
ああ、こんな気持ちは久しぶりだ。涼は、次の木曜日に、どんな報告をしてくれるのだろうか。
ざわめく心を必死に抑えながら、私は目を瞑った。
すぐには眠る事が出来なかったが、しばらくすると私は深い眠りに落ちた。




