第167話 踊る男、笑う女
「涼、起きて。」
「……ん?……ああ……。」
身体を揺すられ、私はまだ眠い眼をゆっくり開ける。目の前には、たおやかな笑顔を浮かべる槿が、ベッドに横になっている私を覗き込むようにしていた。そうだ、私は昨日、槿の正面の部屋に泊まったのだったか。
窓の外からは鳥のさえずりと、風に揺られた木の葉がこすれる音が聞こえた。穏やかな目覚めだ。朝に起きることなどほとんどないが、こんな朝なら悪くない。そんな風にすら思えた。
「連花さん、ついさっきここから出て行ってたよ。早く起きないと、デートが始まっちゃうよ。」
……デートの尾行とかいう、訳の分からない用件さえなければ、だが。
「……なあ、今からでもやめにしないか?やはり、良くないと思うのだが。」
眠い目をこすり、身体を起こしながら槿に提案する。あの2人に比べれば、槿の方が幾分良心がある。もしかしたら私の言葉を聞いてくれるかもしれない。そう思っていた。
「確かに、涼の言う通り、良くないことだけれど、一果の思いもあるし。それに……。」
「それに?」
そもそも、その一果の思いと言うのも、槿の思うような『自分の片思いに区切りを着けるため。』のような純粋な思いではなく、純粋な欲求を満たすものであるのだが、私はそれは指摘しないことにした。
「それに、楽しそうだから。」
「……それなら、仕方ないな。」
悪びれる様子もなく、いつものように愛らしい笑顔を浮かべる槿に、私は呆れと諦めが混じった目線を向けた。すまないな、連花。槿の楽しみを邪魔することだけはしたくはないんだ、と心の中で連花に謝ることで罪悪感を薄めた。
それに、どうせ気付かれたところで怒られるのは私以外の3人だろう。私が自発的にこういう事をしない事くらい、連花は理解しているはずだ。
「それで、どこに行けばいいんだ?リビングか?」
「うん。一果はもう連花さんの後を追いかけたから、今一階には二葉だけだよ。」
まさか連花も、一世一代の大勝負を幼馴染に尾行されているなど思っていないだろうな、と少し気の毒に思いながら、私は階段を槿と降りる。
短い廊下を歩き、リビングの扉を開けると二葉がスマートフォンを眺めていた。何故か、サングラスを掛けながら。
「……何故、二葉はサングラスを掛けているんだ?」
後ろを歩いていた槿に耳打ちをするように顔を向ける。と、彼女の目の周りを、先程まで存在しなかった黒いものが覆っていた。サングラスだ。何故か、槿も掛けている。カーテンが閉め切られた室内だというのに。
「……何を、やっているんだ?」
「尾行をするから、サングラスしてるんだ。」
サングラスのつるを指で持ち上げるようにしながら、誇らしげな表情を浮かべているのがサングラス越しでも見て取れた。
「なのです。」
会話が聞こえていたのだろう。二葉も同じような仕草をする。何をやっているんだ、と思いながら、ここ数日で何度目か分からない呆れの目線を向ける。
「いつも思うのだが、槿は意外とノリがいいな。今回に関しては、それがよくない方向に向かっていると思うが。」
「え?似合ってない、かな?」
「そういう問題ではないのだが……。まあいい。それで、今はどういう状況なんだ?」
これ以上サングラスの件について追及したところで、得るものがないと判断した私は二葉にそう訊ねる。彼女は再びスマートフォンに目を見やった。
「今、めーちゃんが集合場所に着いた所なのです。大分早いので、まだハルは来てなさそうです。」
その言葉を聞いて、壁掛け時計に目を向けると、8時15分付近を指していた。
「集合時間は、何時だ?」
「10時なのです。」
「随分早いな。というか、そんなに早く着いて何をするんだ?」
「それは、『ごめん、待った?』『ううん、今着いたところ。』をやるためだと思う。」
目を輝かせる槿の様子を見るに、きっとそういうやり取りが憧れとされているのだろう、と察して私はそれ以上何も言わなかった。よくわからなかったが、自分に理解できない事をわざわざ腐す必要もない。
「と、いう事で、待っている間に涼もこれを着けるのです。」
スッと二葉が机の上を滑らすように私に差し出したそれに目を向ける。案の定、サングラスだった。
「……これは?」
「サングラスです。むーちゃんとお揃いのにしました。」
「星型もあるよ。どっちがいい?」
私に見せつけるように、胸の位置で掲げた槿の浮かべた笑みは、明らかに私をからかうような笑みを噛み殺していた。
「着けなければ、いかないのか?」
一縷の望みにかけて、私は槿にそう訊ねた。すると彼女は、
「着けなくてもいいけれど、着けてくれると嬉しい、かな。」
と楽しげな笑顔を浮かべる。そう言われたら、断れないではないか、と私は深いため息を吐いた。
「君とお揃いの方でいいか?」




