第139話 出会った時と同じ、月の下で①
月に照らされた春濤は白銀に輝いて、群れのように押し寄せては姿を消した。飽きもせずに、それを繰り返していた。
教会から飛んで十数分の距離にある砂浜に私は槿を抱えたまま、降り立つ。
降りた時には既に羽根をジャケットに戻しており、充分減速をしていたので、砂が舞う事はなかった。小さな音を立てて、靴が砂に埋まる。
恐らく昼間は観光客が来るようなところなのだろう。道路と繋がっていた。こういった場所の方が急に水深が深くなっている事も無いだろうと思い、ここにした。
今は人の気配が一切ない。槿の呼吸音と、それをかき消すほどの波の音だけが響いていた。
「初めて来たけれど、凄い。空気がしょっぱい!」
そう言って嬉しそうに私の方を見る彼女に微笑み、私は槿をそっと、砂浜の上に下ろした。靴を取りに行く暇などなかったので、素足のまま、小さな音を立てて彼女は砂浜に立つ。
「凄い、サラサラだ。」
ワンピースの裾を持ち上げて、何度もその場で小さく足踏みをし、何度も砂の感触を楽しむようにしていた。
こんなに喜ぶのならば、もっと早く連れてくれば良かったな、と反省をする。それにしても、彼女の今日の寝巻がワンピースシルエットの物であったため、外にいてもそこまで違和感がない。
もしかすると、彼女はそこまで見越してその服を着ていたのかもしれない、と考えるが、流石に少し考え過ぎのような気もする。
「涼も靴を脱げばいいのに。凄いサラサラだよ。」
別にそれは見ればわかるし、さして興味もなかったのだが、わざわざ意固地になって脱がない理由もない。素直にその言葉に従って、私は靴をズボンの一部に変形させて、素足にする。
確かに、足がさらさらとした砂に沈む感触は、少しくすぐったいような気持ちよさがある。
「確かに、悪くないな。」
「でしょ?」
「ああ。君がいなければ、こういった経験もきっとなかっただろうな。」
そもそも、流水が弱点の私達は基本的には砂浜に近寄らない。彼女がいなければ、来る事自体なかっただろう。
「それは、褒めてくれてる、で合ってる、よね?」
「その通りだ。」
「えへへ、やった。」
そう言って嬉しそうに笑う彼女は、本当に普通の女の子のようだった。決して、これから死のうとしているとは思えない程、陰りが一切見えなかった。
「ねえ、折角だし、少し海に入らない?」
「前にも言ったと思うが、私は流水が苦手なんだ。」
「けれど、入れないわけじゃない。でしょ?」
「その通りだ。」
その通りなのだが、だからと言って入りたいわけではない。こればかりは、砂浜の上で素足になるのとは、少し事情が違う。槿で言うと、味の濃い食べ物を食べさせられるようなものだ。出来る事なら、やりたくはない。
「じゃあ、一緒に行こ?最期なんだし、ね?」
そう言って、槿は私の手を引っ張り、海の方に早歩きで向かう。
「お、おい。」そう言いながらも、私は特に抵抗はしない。彼女に引っ張られるがまま、海の方へ歩いていく。
が、槿は数歩歩いたところで、歩みを止めて、涙目でこちらを振り向く。
「ねえ、砂浜って、結構素足だと痛いんだね…………。」
「大丈夫か!?怪我は?」
槿は砂浜に座り込んで、足の裏を確認すると、
「チクチクするけれど、大丈夫…………。」
と涙目のまま答えた。ひとまず胸を撫でおろし、私は彼女の足の大きさに合わせた革靴を作る。
「とりあえず、これを履くといい。」
「出来たらビーチサンダルがいいな…………。白だと、もっと嬉しい、かも。」
思っていたより余裕があるようで、私は少し安心した。苦笑いをしながら、白いビーチサンダルを作り、彼女に手渡す。
槿はそれを少し気まずそうに受け取って履いた。立ち上がってその場で足踏みすると、先程までの涙目が嘘のように嬉しそうな笑顔を浮かべた。
「初めて履いたけれど、海で皆が履いているのって、ちゃんと意味があったんだね。可愛いだけかと思ってた。」
「大抵皆がしている事には意味があるんだ。吸血鬼が黒い服がほとんどなのも、夜に紛れやすいようにらしい。」
「そうなんだ。」
そう言いながら、槿は私の手を引いて、再び海の方に向かって歩く。
「ねえ、涼。」
「なんだ?」
「サンダルだと、足とサンダルの間に凄い砂が入ってくる……。」
「長靴にでも変えるか?」
「それはあまり可愛くないから我慢する……。」
こんな状況でも、いや、こんな状況だからこそかもしれないが、実用性より可愛らしいか否かで判断をするのが愉快で、私は吹き出した。
槿は私が笑ったのを見て、少し驚いたように目を丸くして、慈しむように目を細めた。
「涼の笑った顔、久しぶりに見た気がする。」
「そうでもない。君といる時は、比較的笑っていると思うが。」
「それは、嬉しいけれど。最近、色々と悩んでいたみたいだから、心配していたんだけれど。やっぱり、最期だから?」
小首を傾げて、私にそう訊ねる槿には、あまりに普段通りで、そういう所も彼女らしいな、と私は目を細める。
「と言うより、決意した。逃げ続けるのは、これで最後にしようと。君のおかげだというのには変わりないが。」
よく分からない、というようにまた彼女は首を傾げる。槿は勘がいい時と抜けている時があるが、どうやら今は抜けている時だ。
私に椿木の事を言及した鋭さはどこにいったんだ、と思わず苦笑してしまう。
「君が大好きだ、という話だ。」
「…………知ってる、けれど。あと、私も……そうだから。」
そう言って照れる槿が、愛おしい。私に『好きだ』と言われただけで照れてしまうような普通の女の子が、私の為に央や、きっと連花とも1人戦ってくれていたのだろう。愛おしいしくて、愛らしくて、苦しい程に申し訳なくなる。
こうして、彼女と2人でずっといれたら、どれだけ幸せだろう。そんな思いも頭に過ぎるが、砂にとられながらの不確かな足取りでも、水際に辿り着く。
そんな時間は、もうさほど残されていない。それは私にも分かっていた。




