第129話 飛花落葉の私と、桃李満門のあなた達
逃げるように、涼は帰っていった。
混乱と、静寂。それに、人差し指の第二関節の小さな痛みと、そこから流れる。細い血の川。緊張が解けたのか、方から力が抜ける二葉に一果と、それでも解けない張りつめた表情。
「…………むーちゃん。指の怪我、大丈夫ですか?」
こちらを向いて、二葉は悲しそうな笑みを浮かべる。
「え?う、うん。ちょっと、痛いけれど。」
「そっか。そしたら、一回傷口を洗おっか。」
一果はそう言いながら、視線は扉に向けたままで、真剣な表情をしていた。
その言葉に従って、私はキッチンの蛇口を捻り、穏やかな流水で傷を洗う。
「…………二葉。」
「………わか、ったのです。」
「ごめん、つっきー。私ちょっと用事が出来たからさ。手当は二葉にお願いして。」
そう言って一瞬私に目線を向けて、優しく微笑むと、すぐに先程の表情に戻り、リビングから出ていく。
流れる水を見ながら、私は少しずつ、頭の中を整理した。
先程の涼の様子は、明らかにおかしかった。
気が付くと私の横にいて、普段は夜のように暗い瞳は血走っていて、央と同じ赤い、危うい光を放っていた。
呼吸は浅く、乱れていた。それでいて、私から離れた時、異常に怯えた表情をしていた。
それに、その時の、2人の様子と、最近の涼の異変。
薄々、彼に何かがあったことには気が付いていた。けれど、それが何かまでは分からなかった。
それが、今日分かった。涼は、人の血に飢えているのだろう。
そして、彼は私の血を吸おうとしていた。皆の反応から、それが分かった。だから、2人は涼を警戒して、涼は私達から逃げた。
別に私は涼に殺されたところで構わないけれど、皆はそういう訳にもいかないのだろうな、とは私も想像できた。
「そのくらいで、大丈夫なのです。」
二葉のその声で、私は思考の世界から戻ってくる。水を止めると、傷口からは水で滲んだ血液がじわじわと流れ出る。
「傷は浅めですね。良かったのです。」
傷口を見ながら二葉は胸を撫でおろすようにそう言うと、顔を上げて私と目を合わせる。
「包丁を使う時は、手元から目を離しちゃだめですよ。怪我をしちゃうのです。」
そう言う二葉の顔は、怒っているというよりも、悲しそうな表情に見えた。
机の上で、傷口の処置をしてくれた。清潔な布で水分を拭き取り、絆創膏を貼る。
その間、一言も私達は言葉を発さなかった。静かに、手慣れた手つきで私の傷の処置をする二葉は、とても失礼だけれど、今までで一番聖職者らしく見えた。
「とりあえず、これで、手当はおしまいなのです。包丁は少しーーー」
「涼を、殺すの?」
二葉は、俯いて答えなかった。それが、何よりも雄弁に語っていた。
「…………包丁は、少し早かったですね。もう少し、簡単なところから、初めて行くべきでした。」
「一果は、連花さんに連絡し行ったのの?涼がいなくなったら、央はどうするの?」
「目玉焼きなら、きっとむーちゃんでも作れるのです。今度、一緒に朝ご飯でも作りましょう。」
「涼は、私を殺してないよ。少しだけ、危うかったかもしれないけれど、大丈夫だった。」
「…………その少しが、危ないのです。」
少しの沈黙の後、二葉はそう、口を開いた。
「あなただから、彼は吸血衝動に耐えれたのです。もしあの時の対象が、一果だとしたら、めーちゃんだとしたら、ハルだとしたら?名前も知らない、誰かだとしても、彼は、耐えられたのですか?」
私は、すぐには答えられなかった。
「今も、彼が吸血している可能性だってあるのです。………涼が、悪い奴じゃないのは、私だって知っています。けれど、彼は吸血鬼なのです。人を殺す、…………化物なのです。」
俯きながら、二葉は絞り出すような声で言った。
涼は、面倒臭がりで、愛想もないけれど、優しくて、人を傷つける事を嫌う人だ。それは、間違いない。
けれど、それでも彼が吸血鬼なのは、変わらない。そして、その本能である吸血欲に、彼は抗えずに今まで生きている。それだけは、変えようのない事実だった。
それは、私にも分かる。
けれど、その上で、私は涼を愛そうと決めていた。彼の為に生きようと。涼が罪を犯したのなら、その上で、私も一緒に償うと。
「二葉。ごめんね。」
私がそう言うと、彼女は俯いた顔を上げる。その顔は、今にも泣き崩れそうな表情をしていた。
彼女も、本当に優しい人だ。二葉も、一果も連花も、常盤だって、皆、私に優しくしてくれた。それに、色々なことがあって、本当に楽しかった。
一緒に服を買いに行ったり、花見をしたり、アイリスが我儘を言いに来たり。最初に教会に来た草刈だって楽しかった。
教会の皆には、感謝しかない。けれど、12月からの私の楽しい思い出は全て、涼のおかげだから。
だから、涼を守る為に、私は明かす事にした。
「ちょっと、連花さんにお願いしてくるね。『涼と闘うのを辞めて』って。」
「…………無駄なのです。めーちゃんは、それを使命に生きてきたのですから。」
「そっか。でも、大丈夫だよ。」
私が、あなた達を裏切り続けていたと。
私なら、涼も、もしかすると央だって、殺す事が出来ると。




