第110話 零れ落ちる葡萄酒
「やあ、今日も時間丁度だったね。」
画面越しの彼はいつものように、ニヤニヤと嘲笑うかのような笑みを浮かべた。
ああ、遂にこの時が来てしまった。私が眠れなくなってから、初めて彼と話す時が。
人を喰らう恐怖に怯えながら、それでも微かな希望を抱きながら彼と話すその日が。
先程までの霧雨は雨足は増して、騒がしい程に窓を強く叩いている。私を制止するように、私に何も聞かせないように。
けれど、私は彼と会話をしなくてはならない。それが、唯一彼が下した命令なのだから。
「おや、珍しいね。今日は言わないのかい?いつものように、『当たり前だろ』って。拗ねた子供みたいにさ。」
私のいつもと違う様子を見て、彼の歪んだ笑みは下卑たものになる。彼は気が付いた。お気に入りのおもちゃで、いつもと違う遊び方ができると。
「別に、どうだっていいだろう。そんな事。」
「どうでも良くないさ。いつもと同じ、退屈だけれど尊い会話がいつもと変わってしまったら、それはそれは寂しい思いをする、というのは吸血鬼も人間も変わらないだろう?」
わざとらしく泣くような仕草をする彼に、心底腹が立つ。私を怒らせて楽しんでいる。それが分かっていても、苛立ちを隠すことが出来ない。そんな私を見て、彼は一層嬉しそうに笑う。
「そして、得てしてそれは重要な事だったりもするのさ。例えば、棺桶で寝るのは慣れるまで大変だが奇襲や日の光を防ぐ役目を果たすし、首から吸血することだって、相手の動きを防ぎながら、最も太い血管を狙うという意味がある。…………ああ、そういえば。」
嘲笑混じりに震える声で、彼は続ける。
「お腹が空いていたりしないかい?生憎、まだ自殺志願者が見つからなくてさ。もう少しだけ待って欲しいんだ。」
「ゆっくりで構わない。幸い然程食欲が湧かなくてね。」
それが現状唯一の希望だった。それに縋るように、私は精一杯虚勢を張る。それでも希望がないよりは、幾分余裕があった。
私の態度を見て、歪んだ笑みを見せていた彼は少し不愉快そうに片眉を上げる。
「おや、それは予想外だね。活動量は増えているから、更に代謝が落ちるということは無さそうだが。」
彼としても、予想外の事態という事は、もしかすると本当にこれは『人間への適応』なのかもしれない、と私は淡い光が強くなるのを感じる。
もしかしたら、私の食欲に変化がないのは人間の食事に適応したのかもしれない、と。
「一つ、聞いても構わないか?」
期待で、口角が上がる。鳴らないはずの鼓動が高鳴るような気すらしてきた。
「ん?構わないよ。」
私の態度が変だと気付いたのか、彼は不思議なものを見るように眉間に皺を寄せる。
「吸血鬼の睡眠時間が変わる事とかは、あるのか?」
「あるよ。そもそも私は1週間に1度しか目を覚ましていないし、そもそも君だって違うじゃないか。日曜日と木曜日に起きているなら、1日睡眠時間が違うだろう?」
言われてみると確かに、彼の言う通りだが、私が聞きたいのはそういう事ではない。少しもどかしいような、そんな気持ちになる。
「例えばだが、1日毎に目を覚ます事は、あったりするのか?」
私の問いかけに、彼は少しだけ考えるようにした後、ああ、と小さく呟き、何か納得したように再び彼の声に嘲笑が混じる。
「あるよ。一例だけ、私は知っている。」
「その吸血鬼は、その後どうなったんだ?何か、変化はなかったのか?」
彼の言葉に落胆しかけるが、私はすぐにそう訊ねた。まだ、希望は残っている。もしかしたら、その吸血鬼が人の食事を摂れるようになった可能性だってある。
私の問いかけに彼は答えなかった。笑いを堪えながら、独り言のように呟く。
「そうか、そういう事か。だから食欲も湧かなかった訳だ。それで君は嬉しそうだったわけだ。『あれ』は、そういう予兆だったのか。」
そう呟く彼の顔の表情は、見たことの無い顔だった。瞼は落ち、眉間に皺が寄り、嘆く様にも、困憊している様にも見えるのに、口角は異常に吊り上がっている。
希望に縋り付くような私の思いは消し飛んで、異様な彼の姿への恐怖が沸き上がる。
彼は俯いて、押し殺すように笑う。不規則に漏れる彼の笑い声と、叩きつけるような雨音だけが暗闇に響く。
「きっと君は、人の血を啜らなくてもよくなるとか、そんなことを考えているんだろう?」
俯いたまま、彼はで、そう呟いた。その声は、陽光のように明るかった。
「その願いが叶うか。それは残念ながら、僕には分からないんだ。叶うかもしれないし、叶わないかもしれない。」
「………なぜ?」
彼の質問に、私は答えず、その2文字だけで問い返す。暗闇を進む時、人間はこんな気持ちなのだろう。
前に何があるか分からない。怖がりながら、1歩だけ歩を進めるように、そう訊ねた。
彼は唐突に顔を上げる。ギラギラと輝く彼の緋色の瞳は、画面越しでも圧倒される様な、気味の悪い光を帯びていた。
「自殺したのさ。その吸血鬼は、真祖ヴラドは、君と同じようになってからすぐに絶望して自殺をしたんだ!良かったじゃないか、君のもう1つの願いはきっと叶うよ!」
彼は、高笑いをする。
以前、友と語っているのを聞いた事がある。その死を語る目には悲しみの色が見えないどころか、歓喜という熱を帯びているようにすら見えた。
気持ちが悪い。こいつは、なんなんだ?
「けれどさ。僕は思うんだよ。」
何事もなかったかのように、彼は冷静さを取り戻して嘲笑の笑みを浮かべる。彼の表情に、苛立ちなどもはや覚えなかった。ただただ、気味が悪かった。
「葡萄をワインにすることが出来ても、ワインは葡萄に戻すことは出来ない。それと同じさ。」




