サディアスと恋の諸々1
ありがたいことに本作の漫画の連載が始まりました!
ということで、以前から読んでくださっていた方、新しく知ってくださった方への感謝を込めてぼちぼち短いお話をあげていく予定です。サディアスとアマーリエ、オルヴィアの話などなど、ゆっくりですが更新していけるよう用意しております。
アマーリエもサディアスもとっても魅力的に描かれた漫画版「アマーリエと悪食公爵」もよろしくお願いします!pixivコミックにて無料で読めるみたいです→ https://comic.pixiv.net/works/10753
初めて憎しみを食べた時のことは忘れられない。
どろりと熱く、脳天を突き刺すように苦く、なのにかすかに甘い。
強烈な苦みと、ちぐはぐな甘さに頭が混乱して、まだ少年だった僕はたまらず吐いてしまった。吐いた分、息を吸い込めば、今度は胃酸に焼かれた喉に激痛が走り咳き込む。
ひとしきり咳き込み、肺がぺしゃんこになるのではというころにやっと落ち着いた。
きっと今日のために腹を空かせておけと食事を制限されていたところに、劇物のようなものを食べたせいだ。
そうしてやっとまともに息を吸えるようになって、僕はしまったと顔を青ざめさせる。
汚い口元を手で隠し、恐る恐る仰ぎ見た父の顔。
あの顔を僕は一生忘れないだろう。
無様に吐いた息子を見下ろす父の顔には、失望という言葉がありありと浮かんでいた。
「お前にはガッカリした」
僕はこの時、自分と父を繋いでいた細い繋がりが切れしまったのを感じた。
人の感情を食べて生きる、この世界でも二人しかいない同じ生物という、最後の繋がりが。
「サディアス様、お会いしたいというお嬢様がいらっしゃっています」
マーサの声に僕は重たい瞼を持ち上げる。
消化不良を起こした胃を少しでも落ち着けるために横になっていたが、少し眠っていたらしい。ソファのひじ掛けに放り投げるようにしてのせていた脚を下ろし、体を起こした。
胃がひきつったように痙攣し、思わず手でおさえると、マーサはわかりやすく渋い顔をする。
僕の乳母でもあった彼女が、次に言うことはもうわかっていた。
「胃が痛むのですか?お客様はお断りして、今日はもう休まれた方が……」
「大丈夫だ。少し水を飲めば落ち着く」
「ですが」
「追い返してはそのお嬢さんがかわいそうだ。客間で待ってもらいなさい」
「……承知いたしました」
言いたいことを飲み込み、マーサは心配と不服の匂いをまとわせ退室した。
悪食公爵らしく訪ねる人々の悪感情ばかりを食べて、僕の体はすっかり弱っていた。元来、胃が弱いということもあり、快調な日などここ数年一日もない。
胃の内側で石が暴れるような痛み。
水を飲んでも満たされない乾き。
食べているのにいつもうっすらと感じる空腹。
それらは慢性的に僕を苦しめている。
一方で胃が弱れば弱るほど嗅覚は冴え、近くにいる人間から香り立つ感情の匂いを判別するのはお手の物になっていた。
ここ数日は特に体調が優れず、匂いですら吐き気を催すこともある。
ほとほと己の厄介な体が嫌になる。
水差しからコップに水を注ぐのさえ億劫だ。
それでも「悪食公爵」を求める客人が来たというのならば、役目を果たせねばなるまい。
それが自分の務めだと気合を入れなおし、僕はぬるい水を一気に煽る。務めなどと綺麗な言葉で、父への当てつけのように「悪食公爵」ぶっていることも、自暴自棄になりかけていることも誤魔化す自分への嫌悪感も飲み込んでしまえればとばかりに。
客間で待たせているお嬢様とやらは、何を僕に食べさせるつもりだろうか。
恋敵への嫉妬か。
叶わぬ思いに裂かれる痛みか。
それとも若い身からは想像もできない悲しみか。
なんにせよ、苦行のような食事であることには違いない。
最低限の身なりを確認して、僕は扉を開けた。
最初、僕はてっきり喪に服す女性が座っているのかと思った。
というのも彼女は顔を覆い隠すヴェールを被り、あまりにもひっそりと座っていたからだ。
しかしよく見れば、服装は喪服ではなく地味なワンピースで、隠してはいるが出自の良い女性のようだった。
膝の上で行儀よく重ねられた手にも、伸ばされた背、白く長い首、すべてから教養と品性が感じ取られる。
若い女性、もしかしたらまだ少女というべき年齢かもしれない。
だというのに彼女のまとう雰囲気はあまりに寂しく、どこか空っぽだった。
「お待たせしました。自己紹介は必要ですか?」
内心彼女の身の上に興味を引かれつつ、挨拶もそこそこに対面に腰かける。
彼女はゆるゆると首を横に振った。緊張のためか強張った手の甲がますます白くなり、目に眩しくすらあった。
いつものように貴族であることを証明するよう要求し、おざなりに確認する。
興味を引かれる部分はあるが、正直親身になって対応できるほど体の調子が良くなかったのだ。
さっさと本題に入ろうとヴェール越しの顔を見ると、彼女もまたじっとこちらを見つめていた。
「何か?」
彼女は答えず、代わりにほんのりといい匂いが鼻先をかすめる。
これは何の香りだろう。
不快ではない香りなんて、もうずっと嗅いでいなかった気がする。
香りの正体が知りたくて、少々険しい顔になってしまっていた。
今はそんなことを考える必要はないと自分をいましめ、何の感情を食べて欲しいのだと問いかけると、彼女はこう答えた。
「家族に対する憎しみを食べてもらいたいのです。いいえ、できるならば心ごとすべて食べてほしいのです」
ハンカチを握りしめ決意のこもった声だった。
心すべて、などとまた思いつめたことを言う。
思わず目を見開いた僕を、彼女は臆することなくまっすぐと見つめ返す。
それだけ本気ということか。
家族に対する憎しみから解放されるためなら、自分の心すらなくなってしまっていい、と。
本気でそう思っているとでも……。
だとすれば、彼女は心をなくすことがどういうことなのか想像できないほどの愚か者か、そこまで追い詰められてしまった人間のどちらかということだろう。そして前者ではないことは、彼女の佇まいや瞳の強さから容易に理解できた。
憎しみを手放したいという人間は実はそう多くない。
憎しみというのは悪い側面ばかりではなく、時には活力を生むし、何より執着する人間が多いからだ。
この恨みは絶対に忘れないぞ。
というやつだ。
つらい。悲しい。妬ましい。恐ろしい。不安だ。心配だ。
それらを食べて欲しい人間に比べれば、憎しみから解放して欲しいという人間の少ないこと。
憎んで憎んで、それでもやはり憎みたくはないのだと、憎しみなどなかったことにしたいのだと願うのが、どれほど悲しいことか。
どれほど優しく、自分を傷つけることなのか。
「悪食公爵」が知らないわけではないのだ。
だからこそ、よっぽどのことなのだろうと勝手に僕は彼女に憐れみを抱いたのだった。
「心をすべて食べられるということがどういうことかわかっているのですか?」
「いいえ。でも、あるよりはきっとマシだわ」
「心を食べられるということは、あなたという存在が消えることと同義。一種の死だ」
わざと怖がらせる言葉を選んで伝える。
考え直してくれればそれが一番だ。
せめて憎しみを食べて、心を軽くすることを選んでくれればいい。
僕にとって憎しみという感情は、最も不味く、苦い記憶を刺激するものではあるが……。
こちらがそこまで考えているというのに、彼女は急に関係ないことを言った。
「その申し訳ないのですが、もしかしてお加減が悪いのでは……」
一瞬、呆気にとられそうになるが、気にしないでくださいと答える。
もしやこちらの体調を心配して遠慮するつもりだろうか。
それでは「悪食公爵」の名折れである。
僕は彼女が再び口を開く前に、畳みかけるように言った。
「巷では私が乙女の心を丸のみするのを好むなどと言われていますが、私は悪食なのです。憎悪や嫉妬以外のものは食べる気になどならない。ですからあなたがどんなに望もうと、私はあなたのご家族への憎悪しか食べるつもりはありません」
「それならば、それで構いません。対価に何をお支払いすればいいでしょうか?」
心をなくしてしまうことは、考え直してくれたようだ。
よかったと胸を撫でおろす。
心を丸ごと食べられるなんて、大罪人ですら滅多に下されない罰だ。
そんな恐ろしく、悲しいことを彼女が選ばなくてよかった。
正直、今の自分の体にも耐えられる行為ではない、という理由からの安心もある。
その昔、それこそ僕のご先祖様である怪物や、父をも超える悪食として名を馳せた当主たちならできたのだろうが。
「対価など求めません。私にとって、これはただの食事ですから」
「……人の憎しみが美味しいのですか?」
「ええ」
美味しいわけがないだろう。あんなものを食べるくらいなら、泥でも食べたほうがマシだ。
思わず心の中で毒づくと同時に、憎しみの味の記憶が急に蘇る。
あの脳天と舌を突き刺す苦みと、ねっとりとした熱さ、そしてちぐはぐな甘さ。
吐き気がこみ上げ、胃が悲鳴を上げる。
吐き気はなんとか飲み込んだが、その代わり冷汗が一気に噴き出した。
取り繕うこともできずに胃をおさえて背中を丸める僕に、彼女は慌てて駆け寄った。
痛みに意識がかすみそうになる中、幻覚だろうか、なぜかまた良い香りがした。
「すまない。少し休めば収まるから」
「いいえ。嘘はよくありません。人を呼んできましょうか?」
このまま倒れるわけにもいかず、好意に甘えて、マーサを呼んでもらうことにした。
おぼつかない手つきで薬を口に運び、水を含もうとするが、こぼして服にかかりそうになる。
親切にも彼女は僕の口元に自らのハンカチを当て、服が濡れないようにしてくれた。
「お使いになってください」
薬を飲んで、やっとまともに息を吐くと、さきほど口元にあてられていたハンカチが差し出される。
その時、僕はようやく先ほどから幻のように鼻先をかすめていた香りが、彼女からしていたことに気が付いた。
「君、いい匂いがする」
清涼感のある香りだ。
けれど香水のような香るためのもではなく、例えるなら捥いだばかりの果実から放たれるような。
「たしなみとして香水はつけていますけど」
「いや、そうじゃなくて……」
どこかとぼけた返事に気が緩んだ瞬間。
僕は喉の乾いた人間が果実にかじりつくように、彼女の感情を食べていた。
甘すぎず、どこか不安の酸味もする、なんとも美味な……。
生まれて初めて乾きが癒されたような心地に、目の前の霧が急速に晴れていく。
そして次に現れたのは、自分でも呆れるほどの空腹だった。
そうして僕は初めて、自分が本当はずっと飢えていたのだと自覚した。
彼女と、アマーリエと出会うまで、僕はずっと飢えて乾いていたのだ。
けれど一つだけ言わせてほしい。
僕は決して食欲だけで彼女に恋したのではない、と。
ヴェールを外して、ほつれた髪を撫でつけるアマーリエの横顔を見た時。彼女の静かな美しさと、温かい青い瞳を知った時、僕は彼女に一目惚れしてしまったのだ、と。
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