文理選択
11月も半ばに差し掛かるある日の夕方、
京香は駅ビルの本屋で参考書を探していた。
圭介がおススメ本を書いてくれたメモを手に棚を見上げる。
(あ、あった。これだ。良かった)
塾に通っていない京香は学校の授業と参考書頼りなので同じく塾に通わない圭介に参考書のおススメを聞いていたのだ。
お目当ての本が3冊見つかりホッとする。
ついでに大学入試の過去問が収録された赤本も見てみようと裏側に回るとバイト先の先輩である牧野が本を手に取り裏表紙を眺めているところに遭遇した。
牧野はシャツの上に紺色のピーコートを羽織り黒い細身のチノパンを履いていた。
バイトの時はスタッフ用の制服を着て顔を合わせることばかりだったので初めて見る私服姿がより大人っぽい雰囲気を感じさせた。
このままスルーしようかと思ったがそれもどうだろうと思い切って声を掛けてみた。
「こんばんは。お疲れ様です」
牧野が声に気付きゆっくり顔を上げ京香に向く。
「あ、白洲さん。こんばんは」
「今日この時間シフト入ってませんでしたっけ」
「はい、入ってたんですが用事が出来てしまって。終わり時間が見えず明日に振り替えてもらいました」
「そうだったんですね」
「「……」」
ダメだ。バイト中に話したことがほぼないのでどんな話題を振れば良いのか思い付かない。
それにしてもいつも思うが牧野の話し方は先生のようだ。
ふと牧野が手にしている本が目に入り質問してみることにした。
「その本授業で使うんですか?」
「これですか?これは自分で読んでみようかと思って」
牧野が京香の前に本を掲げ表紙を見せてくれた。
超有名経営者のビジネス本だった。
「こういうのも読まれるんですね」
「はい。僕は経済学部なので。教義的な本も読みますが経営者の生の声というものも勉強になるんですよ」
「あ、牧野さん経済でしたっけ」
牧野は圭介が志望する予定の国立大に通っている。
経済学部所属というのは今初めて知った。
圭介が言っていた金融工学のことを思い出し講義にあるのか聞いてみる。
「経済学部の講義に金融工学はありますか?」
「はい。必修ではないですがありますよ。理系の授業ですが経済でも受けられます」
「へー授業あるんですね!」
「金融工学に興味があるんですか?」
「はい。私も経済学部志望なので。大学は決めてないんですけど」
圭介に金融工学について教えてもらった後すぐに調べてみて面白そうだと関心を持っていた。
それがあの大学で学べるなら尚更進路候補としての優先順位が上がる。
「1年なのに志望学部があるなんて偉いですね。僕は3年のときに経済に絞ったんですよ」
「え!?そうなんですか?私は周りが既に決めてる子が多いので焦っていたんですが」
「僕は文転してますしね」
「ええ!?」
理系から文系にクラス変更することを文転という。
京香の高校では3年のクラス編成時に希望可能で、毎年数人は文転者がいる。
逆に文系から理系へのクラス変更は理転と言うが過去に例はほとんどない。
理系の2年終了までに必修科目として学ぶ数学Ⅲ・Cの授業が文系では行われないからだ。
(文転する人ってホントにいるんだ…)
京香は物珍しい生き物を見るかのような目で牧野を見つめた。
「ふっ。そんなに驚くことですか?」
牧野がその視線に気噴き小さく笑った。
正面からちゃんと牧野の笑顔を見たのは初めてかもしれない。
「僕の代はそこそこいましたよ。志望学部が決まっていなくて文理選択に迷ったとき、後から理転は難しいからとりあえず理系に行っておいてやっぱり文系に行くってパターンが多いですね。僕は理系に進むつもりでいたんですが、経済に興味を持ったので。ただ2年まででも理系クラスにいて良かったと思います。経済はやはり数字が必要になるので大学に入ってから役に立ちましたし」
「そうなんですね…」
文系とはいえ経済学は数学との関りが深い。
理系に進んでおいて良かったという牧野の話を聞いて文理選択のことを考えた。
牧野の言う通り理系に進んでおく方がメリットが大きいはずだ。
ただ自分の実力テストの数学の結果を思い出すと踏み切ることができない。
さらに京香は理系必修科目の化学も苦手だ。
決断をするためにもっと色んな検討材料が欲しい。
牧野と話している途中なのに京香は真剣な顔で悩み始めてしまった。
「白洲さん?」
「あ、すみません。実は今文理選択に迷っていて」
「ああ、希望出すの1年の1月でしたもんね」
「牧野さんのお話聞いて理系の方がいいかなって思ったんですが…」
「…が?」
「私数学酷くて…化学も苦手で…理系に行ったらすぐ挫折しそうで…」
「あぁ、なるほど。それで迷っているんですね」
「はい…」
理由が前向きなものではないのでなんとなく後ろめたい。
「僕はさっきああ言いましたが別に理系に進んでおかなければならないわけではないですよ。経済で数学を使うといっても文系範囲で完結出来ますし。微分積分はわかりますか?最低それが理解できれば大丈夫だと思います」
「そうなんですか…」
「あと高校在学中はわからなかった数学の問題も大学進学後理解できるようになったりしますよ。数学は考え方を学ぶ学問なので頭を使い続けていると分かるようになることもあるんです」
「へー…!」
「あの高校の中で数学が出来ない方だったとしても普通の人よりは数学が理解できているはずですから落ち込まなくていいですよ」
今度はニッコリ笑顔で言われた。
目の笑い皺がくっきり出て突然幼い印象になった。
それよりも京香は牧野の言葉が心に染みて有難かった。
経験者に言われるとそう信じてみたくなる。
牧野はただ単に後輩を慰めていただけなのだろうがべきべきにへし折られていた自信が少し回復したような気がした。
本当に先生と話しているようだ。
ちなみに京香の担任は適当で大雑把なおじさんなのでここまで心を配ってくれる感じではない。
京香としては放任主義な感じが嫌いではないが。
もっと色々話を聞いてみたい。
ぐずぐず迷っていたが勇気を出して牧野に連絡先を訊いてみた。
牧野は目を丸くして驚いた様子だったが快くIDを交換してくれた。
いつでも連絡をくれても良いと言ってくれたので遠慮なく質問させてもらおうと思った。
こういう場合は何でお返しすればいいのだろう。
真面目な京香はまた頭を悩ませた。




