第16話 訓練の日々②
この日の訓練が終わった夕刻。水を浴びて服を着替えたフリードリヒは、与えられている自室に戻った途端、ベッドに倒れ込んだ。
「きっっつい……」
ベッドと机と棚があるだけの質素な部屋の中、天井を見上げながら、訓練中は言わないようにしている弱音が零れた。この訓練が必要なことであると分かってはいるが、それでもやはりきついものはきつい。
おそらく自分がぎりぎり乗り越えられるようにグレゴールは調整してくれているのだろうが、それでも今の時点でこれだけ辛いのだ。一か月、二か月と経つ頃にはどれだけ厳しくなっているのか、想像したくない。
「フリードリヒ、入るね」
扉の外からユーリカの声が聞こえた。彼女はフリードリヒの隣に部屋を与えられている。
フリードリヒの返事を待つことなく、すぐに扉が開いてユーリカが入室してくる。彼女はそのままベッドに飛び込み、フリードリヒに抱きつく。
「お疲れさまフリードリヒ。今日も頑張ったねぇ」
艶やかな表情で甘く囁いてくる彼女に、フリードリヒは思わず微苦笑を零す。こうしていると、ボルガで暮らしていた頃を思い出す。
ボルガを発ってから、まだ一か月と経っていない。それなのに、あの日々が遠い昔のことのように感じられる。
「ほんと、自分で身体を動かすようになって、ユーリカがいかに凄いのかを思い知らされてるよ」
「私が戦って、フリードリヒが頭を使う。それが私たち二人のやり方でしょう? だから気にしないで。フリードリヒは凄いよ。私なんかよりずっと」
頬や首筋にユーリカの口づけを受けながら、フリードリヒは思う。
甘やかされている、と考える。まだ王国軍への入隊も済ませていない半人前の自分が、こうしてユーリカと触れあえるような環境にいることを許しているマティアスに。
フリードリヒとユーリカが恋仲であることはマティアスも当然知っている。にもかかわらず、二人は同じ屋敷に暮らし、部屋は隣同士という環境。深夜に自室を抜け出したユーリカがこちらの部屋にやって来たのも一度や二度ではない。
これを甘やかされていると言わずに何と言うのか。これほどの待遇を与えられているからこそ、いざ王国軍に入った後に見込み違いと思われたら恐ろしいと、フリードリヒは考える。
「フリードリヒくん。入ってもよろしいかしら?」
そのとき。部屋の外から声がかけられる。
ホーゼンフェルト伯爵家の家令、ドーリスの声だった。
「は、はい!」
フリードリヒは慌てて答え、ベッドから飛び起きようとする。しかしユーリカが抱きついたままだったので、失敗して再びベッドに倒れる。
そして、ドーリスが入ってきてしまう。
「あらあら、お邪魔だったかしらね」
二人の様を見たドーリスは、にっこりと笑みを浮かべながら言う。年齢で言えばアルマと同じくらいの彼女は、しかし厳格な性格のアルマとは違って柔和な印象の老女だった。
「いえ、あの、すみません……ちょっとユーリカ」
「ふふふっ、ごめんねぇフリードリヒ」
ふざけて絡みついてくるユーリカの腕から逃れ、フリードリヒはようやく立ち上がった。ドーリスはフリードリヒたちの態度を気にした様子もなく、むしろユーリカと顔を見合わせてクスクスと笑っていた。
「お食事の用意ができたので呼びに来ましたよ。食堂にどうぞ」
「は、はい……ありがとうございます。わざわざドーリスさんが呼びにきてくださるなんて」
「いいんですよ。私がそうしたくて自分で呼びにきたんですから」
そう言いながら廊下を歩くドーリスは、見た目こそ温和な老女だが、屋敷を空けることの多いマティアスに代わってホーゼンフェルト伯爵家の家政を統括する人物。財務管理から、使用人たちの指揮、得意先の商人や職人との連絡交渉までを担っている。
従士歴ではグレゴールよりも遥かに上なので、従士長の彼でさえも頭が上がらないことも多いという。「ただの婆さんだと思って侮るな」と、フリードリヒは屋敷に来たばかりの頃にグレゴールから忠告された。
「ああ、そうそう。今夜は旦那様があなたたちと一緒に夕食をとりたいそうです。あなたたちが席についた後、旦那様をお呼びするから、少し待っていてくださいね」
「分かりました」
フリードリヒは少しの緊張を覚えながら答える。
主人であるマティアスと夕食を共にするのは、これで三度目。訓練の日々や王都暮らしの感想を聞かれながら食事するだけであるが、まだ慣れない。
「あなたたち二人がお屋敷に来てから、旦那様が王城に泊まらずお帰りになることが増えて嬉しいわ。グレゴールさんもここ最近はお屋敷にいらっしゃるし、毎日が賑やかで本当に楽しい」
「……一応、僕たちは従士として迎えられたのに、毎日訓練してるだけですいません」
「あら、気にしないで。あなたたちは軍人さんになるんですから。軍人さんは普段は訓練をして、いざというときに戦うのが仕事だと分かっていますよ」
それに、と言いながらドーリスは笑みを向けてくる。
「若い人のお世話をするのは、それだけで楽しいものですよ。ルドルフ様がいらっしゃった頃を思い出すわ」
「……」
ルドルフ・ホーゼンフェルト。名前は聞いている。八年前に戦死した、マティアスの息子。
当主は一人息子を失い、この家は次代の当主を失ったのだと。ここはそういう過去を持つ家なのだと、フリードリヒはドーリスの言葉からあらためて思い知る。
・・・・・・
ホーゼンフェルト伯爵家の食卓では、行儀作法について口うるさく言われることはない。
フリードリヒも、フリードリヒと一緒に暮らしてきたユーリカも、アルマの教えのおかげで平民にしては食べ方は綺麗な方。なのでこの屋敷に来てからも、特に注意はされていない。当主マティアスが目の前にいるときもそれは同じだった。
食事の内容は、田舎の平民出身のフリードリヒたちにとっては非常に贅沢だと感じられるものばかり。マティアスと夕食を共にするときは殊更に。
焼きたてのパンは混ぜ物もなく柔らかく、スープには具がふんだんに入っている。おまけに、塩漬けや燻製ではない肉を毎日食べることができる。牛肉が出ることもある。
訓練は厳しいが、食事のときはここに迎えられて本当に良かったと思える。
「二人とも、訓練はどうだ? 順調か?」
「……順調だと思いますが、正直に言うと、辛い部分もあります。今まで頭ばかり使ってきた自分の体力不足を思い知る毎日です」
パンを千切りながら尋ねるマティアスに、フリードリヒはナイフで肉を切り分ける手を止めて答える。
「そのようだな。前に顔を合わせた四日前の夕食時と比べても、明らかに顔が疲れている。グレゴールがちゃんと仕事をしている証拠だ」
マティアスはフリードリヒの顔を見ながら、小さく笑った。
ちなみに、従士長のグレゴールは夕食を共にしない。彼によると、そもそも主人と従士が共に食事をすることは祝いの日でもない限り一般的ではないという。マティアスがフリードリヒたちを夕食に同席させるのは、二人を気にかけているからだろうと。
「わたひはよゆうです」
「ユーリカは僕の倍近く訓練しているんですが、今のところ難なくこなしています」
肉を頬張りながらのユーリカの言葉に、フリードリヒはそう補足する。
「そうか。この先どこまでその余裕を保てるか見ものだな。グレゴールが本気を出せば、ユーリカとて厳しかろう……ああ、話は変わるが」
マティアスはそこでワインを一口飲んでから、また口を開く。
「お前たちの住んでいた都市ボルガの代官、確かヘルマンと言ったか? 彼の沙汰が決まったそうだ。代官の任を解かれ、ドーフェン子爵家の直営農地の管理役にされたのだとか」
盗賊騒ぎの一件の続報として、自分のもとにも情報が届けられたのだと、マティアスは語った。
「それは……分かりやすい左遷ですね。罰せられなかっただけ、彼にとっては幸いでしょうが」
「あの者は当代ドーフェン子爵の縁者だというからな。ドーフェン卿も身内を罰するのはためらわれたのだろう。一応、あの者が報告したからこそ我々フェルディナント連隊も駆けつけることができたわけだしな」
言いながらマティアスが空けた杯に、給仕のメイドがワインを注ぐ。
「フリードリヒ、あの者が罰せられなかったことに安堵しているようだな。お前たち住民を置いて逃げた代官だろうに」
「……彼は平時に限っては、僕たち住民にとってそう悪い役人ではありませんでした。非常時に逃げ出す臆病者ではありましたが、結果的に僕たちは助かったので、僕個人としては特に恨んでいません。助かっていなければ化けて出る勢いで恨んでいたと思いますが」
「ふっ、そうか」
フリードリヒの言葉に、マティアスは小さく吹き出した。
その後も時おり他愛のない会話をしながら、食事の時間は過ぎていく。
主人と従士というより、まるで父親と息子のようだと、フリードリヒは思う。尤も、親子の夕食時の会話風景など、書物と想像の中でしか知らないが。




