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13.兄嫁

 

 ぼんやりとした意識の中で、朝の光がカーテンを透かして視覚を刺激する。いつもと違う天井、いつもと違うベッドの香り。

「そうだ、私は結婚したんだ」

 桜子は隣で寝息を立てている紀隆の顔を見つめた。未だかつて、紀隆がこんなに無防備な姿を桜子に見せた事は無かった。桜子に対する紀隆は、いつも男らしく頼りになる存在だったのだ。そんな男が今、まるで少年の様に無防備な寝姿を晒している。桜子はまるで母親にでもなったかのような愛おしさを覚えた。


 微笑みながらじっと見詰める桜子の視線に気付いたのか、紀隆の目が開かれた。

「ん? もう朝か、おはよう」

「おはようございます」

 そう言いながら、桜子は紀隆を見つめ続けた。

「どうした?」

「いいえ、なんでもありません」

 そう言って微笑む桜子を、紀隆の腕が抱き寄せる。

「なんで笑っているんだ? そんなにだらしない顔をしていたか?」

「いいえ、だらしないなんて……。ただ、可愛らしいなって思いましたわ」

 紀隆は言葉の代わりに桜子の唇を自らの唇でふさいだ。


 閉じられていた桜子の目が開かれた途端、枕元の時計が視界に飛び込んで来た。

「たいへん、もうこんな時間だわ」

 桜子は慌てて紀隆から身体を離し、ベッドから飛び降りた。急いで着替えを済ませ、階下へと急いだ。

 桜子がキッチンに入ると、そこには使用人のウメと鈴子が朝食の支度をしていた。


 紀隆と鈴子の母は千代と言い、鈴子によく似た美人であったが、病弱で十年前に亡くなっている。病弱だった千代の為、紀隆が生まれて間もない頃から乳母としてウメが奉公していた。そのウメは現在も使用人として百地家の家事を行うために住み込みで働いているのだ。


「おはようございます」

 桜子が声をかけると、鈴子とウメが振り返る。

「おはようございます。若奥様」

「おはよう、桜子。昨夜ゆうべはよく眠れた?」

「うん、寝坊するほどよく眠ってしまったわ」

「お嬢様、手が止まっていますよ」

「はいはい」

 鈴子がぺろりと舌を出して作業に戻る。

「あのう……、私は何をしたら良いかしら?」

 桜子の言葉に、ウメは振り返る事も無く冷ややかな声音で応じた。

「今日は初めてですから、若奥様は何もしなくても結構です。ダイニングでくつろいで居て下さい」

「でも、それでは……」

 困った顔の桜子に鈴子が助け船を出す。

「桜子はダイニングテーブルを拭いて。はい、台布巾」

「はい」

 桜子は鈴子から台布巾を受け取ってダイニングテーブルの方へ向かった。

「ウメさん、桜子には優しくしてあげてね」

「わかっていますよ。でも、若奥様として恥ずかしくない様に成って頂かなくてはなりませんからね」

「それも大切だけれど、急には無理でしょう? 長い目で見てあげてね」

「はいはい、わかっておりますよ」


 朝食も済み、桜子と共に自室に戻った紀隆が出勤の準備をしている時だった。

「失礼します」

 声と共に部屋に入って来たウメは、紀隆の上着にブラシをかけ、ネクタイ選びを始めた。

「若旦那様、ネクタイはこれでよろしいですね」

「あっ、うん」

 紀隆は桜子に同意を求めるように視線を向けたが、桜子は突然の事に反応が出来ない。

 ウメは唖然とする桜子を尻目に、自分の選んだネクタイを紀隆の首に巻きつけて結び始めた。

「若旦那様はこの赤いネクタイがお似合いですよ」

 ネクタイを結び終えたウメは、上着をハンガーから外して紀隆に着せかける。

「うん、ありがとう。父はもう出かけたの?」

「はい、旦那様は既にお出かけになりました。若旦那様もお急ぎになって下さい」

「はいはい、わかっているよ」

 そう言って紀隆は玄関へと急ぐ。我に返った桜子も慌てて紀隆の後を追う。

「じゃあ、行ってきます」

「行ってらっしゃいませ」

 間髪を入れずにウメが応えた。

「あっ、行ってらっしゃい」

 後れを取った形で桜子も応えたが、釈然としない思いが心を占めた。



 紀道と紀隆を仕事に送り出すと、百地家は桜子・鈴子・ウメの女三人だけになる。掃除や洗濯と言った家事が待っているのだが、今日は鈴子が買い物に行きたいと言うので、家事をウメに任せて桜子は鈴子の買い物に付き合う事となった。


 桜子は街のカフェでお茶をしながら、鈴子に不安を打ち明けた。

「私、ウメさんと上手くやっていけるかなぁ?」

「ウメさんはちょっとキツイ所もあるけれど、根は良い人だから許してあげてね」

「わかっているんだけれど……。今日は私も寝坊しちゃったしね。明日からは頑張って早起きをしなくちゃね」

 鈴子が笑顔を返した。

「でもさぁ、まさか紀隆さんの着替えまで手伝うとは思わなかったわ。ネクタイまで結んでもらっちゃって……」

「うちはお母様が病弱だったから、私とお兄様にとってウメさんは母親みたいな存在なの。ウメさんはお兄様が生まれた時から働いているから、お兄様には特に思い入れがあるみたいなのよね。本当の母親以上にお兄様の事は気にかけているみたい」

 笑顔で言う鈴子とは正反対に、桜子の表情は不安に満ちていた。

「そうみたいね。母親であり、妻でもあるみたいで……。私の入り込む隙間なんて有るのかなぁ?」

「母親ではあると思うけれど、妻は無いでしょう? お兄様は桜子と結婚したんだよ。もっと自信をもちなさい」

「そうよね。自信を持たなくちゃね」

 鈴子の言葉に少しだけ勇気をもらい、桜子は笑顔を取り戻した。

「そうそう、頑張ってね。私はいつでも桜子の味方だからね」

 鈴子はテーブルの上の桜子の手を、両手で包むようにやさしく握った。

 しかし、鈴子も紀隆と同じ様にウメに育てられ、ウメを母親の様に思っているのではないのか? そう思うと、桜子の心の中に一抹の不安がよぎった。

「ありがとう。でも……、鈴子にとってもウメさんは母親みたいな人でしょう?」

「うーん。そうだけれどもね。ウメさんはお兄様にばかり手をかけていて、私なんか二の次だったからなぁ」

「そうなの?」

「うん、お兄様はいつもウメさんと一緒にいたけれど、私は病気で寝ているお母様のそばで遊んでいたわ。本を読んだり絵を描いたりしていたの。だから、お母様が死んだあと、私はひとりぼっちになっちゃった」

 先ほどまで笑顔だった鈴子の顔に暗い影が落ちた。桜子は鈴子の手をそっと握り返した。

「さみしかったのね」

「うん、あの頃はそう思っていた。でも、本当は違ったみたいなの。私は生まれたばかりの時からウメさんに育てられたのに、全然ウメさんに懐かなかったらしいの。後からお父様に聞いたわ。そして物心ついた頃から、何故かウメさんを避けていたみたいなの。ウメさんと遊んでいても、いつの間にかお母様の所に行ってしまったって」

「何か原因でもあったの?」

 鈴子はまるで遠い昔を映すスクリーンでもあるかのように天井を見つめていた。数十秒の思考の後、笑顔を桜子に向ける。

「うーん、思いあたる節はなにも無いわね。特に理由は無かったのかしら?」

 桜子は鈴子の笑顔にあきれた表情を返す。

「まったく無責任な子ね。理由も無く懐かれなかったウメさんが可哀想になって来たわ」

「なにも思いあたらないから仕方ないじゃない」

 そう言って、舌をぺろりと出して屈託なく笑う鈴子を不思議そうに眺める桜子であった。






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