序、
「ははは、そりゃ、いい。それぐらいやっていいぞ。もっとぶん殴ったれ」
次はぐーでな、と笑うオーランドに、シャナはからかわれている気がしてならなくて、すねたように唇を尖らせてそっぽを向いた。
「そうかそうか。なら、あいつも新鮮なはずだ。興味持つのはしゃあない」
「だって、平手ですよ?」
「あいつは人に手をあげられる立場にないからな」
「え?」
「それに、女にぶん殴られたのは初めての経験だろ。いいな。いいこと聞いた」
上機嫌な様子のオーランドに、シャナは、ピンときて、目を据わらせた。
「またお兄様、セザール様にこき使われているんですか?」
いきなり低くなった声の調子にオーランドは瞬きをして首を傾げた。
「ああ。馬車馬のように働かされている。それがどうした?」
「……あんだけ言っても聞かないんだ。っち」
鋭い舌打ちにオーランドの目が丸くなる。
「わかりました。私のほうできつく言っておきますので」
「……お前、セザールの行動にも口出しできるようになってんの?」
「ええ。たいてい目を見てお願いすれば、聞いてくれますよ?」
ふふふと、黒い笑みを浮かべて笑うシャナに、オーランドは、言葉を失って、あきれたように笑った。
「そうか。じゃあ、よろしく頼むよ。俺も、リチャード医師がいなくなって忙しくなってるんだ。大体、カレンに相当絞られたはずなのになあ、一割も減ってない」
「……こなす兄さんも悪いと思いますよ?」
「こなさなきゃならないだろうが。仕事として割り当てられたのであれば」
ジャックがいたら、なんというだろうか、とシャナは考えて、振り払った。それよりセザールのことだ。
「割り当てられた仕事でも、倒れるまでしたら、回復するまでの仕事がたまる一方でしょうが。それならば、倒れないように管理するのが上司の仕事ですよ」
「それができれば苦労はしねえよ。社畜だって生まれねえ」
「……」
人手不足なのは知っているが、仕方ないとは思えない。とシャナがいうと、オーランドはふっと笑った。
「ま、ままならないことだってあるのさ。大丈夫。死にはしねえからさ」
ぽんぽん、とシャナの頭を軽くたたいて、オーランドは懐中時計に手を伸ばして時間を見た。
「そろそろ時間だな。俺は、もう行く」
「あ、はい。えと……」
「ここにいるなら、ゆっくりしていきなさい。お代はここに置いていく。マスター」
「はいよ?」
「ごちそうさま。妹をよろしく」
「あいよ」
店の奥にいた、すらりとした長身の、30代半ばぐらいの灰色の髪の男は片手をあげてまた、奥に引っ込んだ。
「鞄は、補給と軟膏材か?」
「ええ。それと、お茶がついていると思います」
「そうか。爺さんに礼を言っておいてくれ」
「はい。わかりました。お体にお気をつけて」
「ああ。お前もな」
やわらかい表情をしたオーランドが、白衣の裾を翻してお店から出て行った。
「しっかり兄貴してんじゃねえか。坊ちゃんよ?」
灰色の髪のマスターはからかうように店の奥でつぶやく。
「もともと、私の前では、ああいった感じのお兄様でしたよ」
本質的には何も変わっていない。
シャナだけに向けられた、少しだけ柔らかな表情も、かすかに笑む口元も、何も変わっていない。
「ほう? 身内にゃデレるタイプか」
「ええ。甘い方です」
紅茶をもらいながら、オーランドの話とマスターとして、丁寧にお礼を言いながら外に出る。
セザールとの相手を気遣いあうようなくすぐったくも奇妙な文通が始まったのは、あのひと騒動が終わって一か月後ぐらいのことだった――。




