76通目【懐郷病】
ロンダリエ公爵邸の門をくぐったあたりで、リゼットはそわそわするのを止められず、小窓にへばりついていた。
邸の入り口で扉の前に立つふたりの貴婦人の姿を見つけた途端、思わず立ち上がってしまい、馬車が停まるまで立ち上がるなとウィリアムにお叱りを受ける。
まるで子どものようだと自分でも思うが、じっとしていられないのだ。
「スカーレット様!」
馬車が停まり、ウィリアムが先に降りるのも待っていられず、使用人が扉を開けた瞬間、リゼットはドレスの裾を持ち上げながら外に飛び出していた。
ウィリアムのエスコートを待たずに腕に飛びこんだリゼットを、スカーレットは目を丸くしながら受け止めてくれる。
「リゼット!?」
「お、お会いしたかったです、スカレーット様ぁ」
スカーレットのバラの香りに包まれて、心底安心する。
王女宮での生活は楽しかったが、半分を過ぎた頃にはスカーレットが恋しくなっていた。これが物語で時折出てくる、ホームシックというやつだろうか。
図々しくもスカーレットを家族のように、ハロウズ伯爵邸を第二の実家のように思っているらしい。
「やれやれ、泣いてるのかい? ほら、顔を見せておくれ」
「うう……泣いてません~」
「泣いてるじゃないか。デビュタントを済ませたというのに、まだまだ子どもだね」
そう言ってあきれながらも、スカーレットはリゼットの瞳に浮かんだ涙をぬぐい、抱きしめ返してくれる。
優しくされると涙がこぼれそうになるのでやめてほしい。もう立派な淑女なのだ。絶対に泣いたりはしないと、気合を入れて鼻をすする。
「た、ただいま帰りました! スカーレット様、グレース様!」
「ああ、お帰りリゼット。待っていたよ」
「お帰りなさい、リゼットさん。大変だったみたいね」
いたわるようなグレースの声に、リゼットは目を瞬く。
もしかして、もうふたりには昨日あった出来事が伝わっているのだろうか。だがウィリアムを見ると、首を横に振られる。
「王宮から使者が来たんだよ。でも詳しいことは聞けていないから、お前たちの口から聞かせておくれ」
「食事はもうとった? まだならお昼までまだ時間があるから、軽いものを用意するわね」
ふたりに背を押されるように邸に入り、朝の陽ざしで輝く庭に面したティールームに通された。
侍女やメイドたちが準備万端でしたとばかりに素早く軽食を準備していく。
王宮の侍女たちの動きも洗練されていたが、ロンダリエに仕える人々もまったく引けを取らないなと、改めて働く女性たちに尊敬のまなざしを向ける。
まずウィリアムからふたりに事件のあらましが説明された。リゼットにも時々質問がきて、答えられることには答えていく。
話が進むうちに、スカーレットとグレースの顔はどんどん強張っていった。
「……信じられん。王宮でそんなことが」
「リゼットさん、本当に大丈夫だったの? 怪我をしたりは?」
「私はこの通り大丈夫です! でも私を助けるために、ウィリアム様が怪我をしてしまって……」
「ウィリアムは頑丈だからいいのよ! この子は馬車に轢かれたって死なないわ」
さすがに馬車に轢かれたら、ウィリアムもただでは済まないと思う。怪我は間違いなくするだろうと思ったが、ウィリアムは無反応だ。
まさか、実際に轢かれたことがあるのだろうか。そしてまさかの無傷だったのだろうか。
「それで、犯人は王太子が連れて行ったのかい」
「ええ。事件を公にしないために、処罰についても秘密裏に決定されるようです」
「とりあえず、もうリゼットさんが狙われることはないのよね?」
「はい。それは殿下に保証いただきました」
ウィリアムの説明を聞きながら、リゼットは昨日のジェシカの去る姿を思い出した。
これから彼女はどこに向かうのだろう。
天国のような場所に、というのは無理だろうが、食事と暖がとれる場所であればいいなと願う。
約束した通り、手紙を書こう。返事はなくても、ジェシカは読んでくれると信じて書き続けよう。
「リゼット?」
「あ……はい! 何でしょう?」
「大丈夫かい?」
どこかウィリアムに似ているスカーレットの瞳が、真っすぐにリゼットを見つめている。
それだけで胸が熱くなって「はい、大丈夫です!」と元気よく答えていた。
だが、スカーレットは眉を寄せて、他のふたりと顔を見合わせる。
「本当に?」
「え……?」
「本当に、大丈夫なのかい」
その再確認は、リゼットを疑っているというより、言葉の裏側にある本心を確かめるような響きがあった。
つんと鼻の奥が痛んで、唇を嚙みしめる。
大丈夫と言ったのは本心だったはずなのに、どんどん胸が苦しくなっていく。
「……大丈夫じゃ、ない、かも……しれません」
「ああ」
「スカーレット様、私……私は……どうしたらいいのでしょうか」
胸に輝くフェロー子爵家の小さな家紋が、ひどく重たい。
ジェシカがいなくなった。継母も、顔を合わせることなく他人となった。リゼットが想像もしていなかったことが、想像もしない速さで起きて進んでいく。こんな重たいものをつけることになるなんて、ロンダリエの邸を出たときは想像もしていなかった。
心がついていかないのだ。自分には荷が重い。後継者になるどころか、その期間を飛ばして即爵位を継承することになるなんて。
「私は、スカーレット様の代筆をするために、王女様の指南役を目指したのです。それだけでもいっぱいいっぱいだったのに、家族がバラバラになって、そのうえ私が子爵位だなんて……」
「お前の戸惑いも葛藤も、当然のものだ。悩むのはおかしなことではないし、すべてさらけ出してしまうといい」
「そうよリゼットさん。ここにはあなたの味方しかいませんからね!」
「一人で悩むな。俺を頼れと言っただろう?」
大きな手が、ぽんと頭の上に乗せられる。
もうそれだけでほっとするようになってしまったことに気づき、リゼットは小さく笑った。
何だか手懐けられたペットにでもなったようだ。
「皆さん、ありがとうございます……」
「元気を出して? ひとつずつリゼットさんの不安を解消していきましょう?」
「そうだね。焦ることはないよ」
「はい! では……どうしたら、爵位を引き続き父に持っていてもらうことが出来るでしょうか?」
いま一番聞きたい、一番重要な問いかけを口にした途端、ティールームが静まり返る。
無言で顔を見合わせる三人を見て、一気に不安が押し寄せた。
「あ、あの……?」
お願いだから三人とも黙らないでほしい。
泣くものかと思ったばかりなのに、もう涙があふれてきそうだ。
「リゼット……」
「リゼットさん……」
ロンダリエの親子がそろって残念そうに俯くではないか。
(やめて、俯かないで! どうかおふたりとも「大丈夫」って笑ってください……!)
しかしリゼットの願いもむなしく、重々しく開かれたスカーレットの口から、最後通告が言い渡された。
「残念だがリゼット、おそらくそれは不可能だ」
胸の家紋章が、またずしりと重くなるのを感じた。
スカーレットが言うのだから、爵位の継承を回避する方法は本当にないらしい。
どうやら早急に実家に戻り、父と話をする必要があるようだ。
結局固まってしまったリゼットに、スカーレットは「まぁ、落ち着きなさい」と苦笑する。
「実は、リゼットが王宮に行っている間に、邸の修繕が終わったんだよ」
「警備の見直しも済んだぞ」
「え……では!」
「ああ。私たちの家に戻ろうか」
私たちの。
そう言ってくれたスカーレットに、リゼットは心からの笑顔でうなずくのだった。
無理なものは無理なのです。




