心が折れる音
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あいつらが旅に出てからの私の学園生活は、あまり良いものにならなかった。知己は出来たし、先生たちからの覚えも良い。だけど……張り合いが無い。生徒会長としての活動はそれなりに楽しかったが、それを共有できる同期が居ない。
こんなはずじゃなかったという思いばかりが強くなっていく中、休日に行うアシム先生との補講……という名の模擬戦闘だけが私に活力を与えてくれていた。
そして来週には卒業試験があるという日でも、先生は模擬戦闘に付き合ってくれた。
「はあ……!はあ……!」
「今日はここまでにしましょう」
「ま、まだやれます!」
「いえ、これ以上はやるだけ無駄です。少しお話をしましょう」
先生に促されて庭園のベンチに座ると、隣に座った先生から溜息がこぼれた。たったそれだけの事なのに、何故か私の心がざわめく。
「……なんですか。言いたい事があるなら、はっきり言ってください」
「つまらなさそうですね」
本当にはっきりと言われて、一瞬思考が固まった。
「……面白おかしく補講を受ける生徒なんていません」
「そうではありません。今の貴方には、何が何でも勝とうという意欲に欠けている。まるで敵がいない現状に喘いているかのようです。……そんなにも学園生活はつまらないですか?」
「先生に何がわかるんですか?」
見透かすような言葉に、私の言葉にもつい棘が生える。
「何をやっても平民にしては頑張ってると上から目線で言われ、努力をしても誰からも評価されない。競う相手もまともにいなくて、戦いで勝っても平民相手だから手加減したとうそぶく連中ばかり。そんな奴らに囲まれてきた人間の気持ちなんて――」
「それで良いではありませんか。貴族など踏み台に過ぎず、所詮利用するだけの駒。適当に媚びて、愛想を振りまいて、自分は優等生で居続けた訳でしょう?卒業式でも首席はほぼ間違いなし。それのどこに不満があるのですか?」
「私はこの国を変えたくて勉強しているんです!貴族に嗤われるために学園に通っていた訳じゃありません!」
「それがあなたの選んだ道です。貴方がそれを問題視するのはどうかと思いますが」
「……っ!?」
先生はどこまでも容赦なく、私の歪みを暴いていく。
「平民であることを何よりも利用してきたのは貴方ではありませんか。血で劣っている自分は、人一倍努力しなければならない……貴方が一年生の時に言っていた決まり文句が、まさにそれを証明している。今更後悔しているのですか?」
この先生を相手に、隠し事なんてできない。わかっていても隠そうとしてしまうのは、もう私の心に染み付いた習性になってしまっているからなのか。それとも、貴族に尻尾を振り続ける自分を、直視されたくないからか。
気にしていた部分を改めて指摘され、ひどく恥ずかしい気分になる。こんな私が、何故あいつらと一緒に過ごせていたのかわからない。今の自分を見られたくない。そんな気持ちが強くなりすぎて、目の前が滲んだ時……先生の手が肩に触れた。
「よかった。貴方は恥を知らぬまま卒業するかと思っていましたが、そうではなかったらしい」
ホッとしたような、見直したような……今まで先生が見せたことのない表情だった。少なくともこの先生は、楽しそうにしていることはあっても、安堵している姿は見たことがない。
「悔しいのでしょう?セーレ君たちと戦っていたあの日の自分から、段々と遠ざかっていることが。数少ない心許せる友に見せたくない自分になっていくことを、貴方は恥ずかしく思っている。違いますか?」
私は……何も言えなかった。何も言えず、喉も痛くなり、頭も痛くなり、視界の滲みも悪化して……気が付けば声も無く泣いていた。
あいつの無邪気な笑い顔が、何故か無性に恋しくなる。
「現状を変えられないことを悔しいと思えるなら、貴方にプライドが残っている証拠です。しかし……」
黙って聞くしかない私に、先生は優しげに、しかし残酷に言葉を重ねていく。
「貴方が就職しようとしている王城の法務室は、学園とは比較にならないほど腐敗しています。あの開かれた生徒会で2年目から生徒会長になった貴方の清潔さは、法務室という発酵された密閉空間では通用しません」
「……そんなの、やってみないとわかりません」
言ってみてから、それがあいつの言葉だという事に気付いた。いつから私は、あいつを模範にしようとしていたのだろう。いつから、あいつに寄りかかろうとしていたのだろう。
先生の言う通りだ。私は……つまらない人間になったのかもしれない。
生徒達のいない、夕暮れで茜色に輝く庭園で、先生は言葉を重ね続けた。
「いえ、わかりますよ。貴方はこの国において、あまりにも高潔すぎる。貴方は自分が思っているよりも真っすぐな人間ですが、その美点はあの下水では絶対に通用しません。王の為に信念と正義を曲げ、国のために汚水を飲み、肥え太る豚どもに向けて媚びへつらいながらしっぽを振りつつ、点数を稼ぐ日々が待っています。だから貴方が考える優れた法案も、あそこでは一切通りません」
「まるで見てきたかのように言いますね。……夢を全否定されたようで不愉快です」
「ええ、見てきましたから。私にも若かった頃があったのですよ」
なんで、そんな寂しそうな目をしているのですか、先生。
……先生はかつて、自分の力で何かを変えようとして失敗したのだろうか。先生ほどの実力を持つ人なら、冒険者だった頃だってかなり活躍していたはずなのに。
力の強さだけでは変えられないことが、この世の中にあるのだとしたら、どうして先生は、強くなろうとした私に付き合ってくれていたのだろう。無意味と知っていながら、どうして今も言葉を重ねてくれるのだろう。
「ドロテ君、私は今からとても残酷な事を言います。もしも卒業後に思い出して辛いと思ったら、どうぞ戯言と断じて忘れてください」
「先生……?」
先生にしては珍しく、とても言い難そうにしながら、口を開いた。
「どうか貴方には、その高潔さを失わないで欲しいのです。それはきっと、この国の宝になる。そしてきっとその高潔さこそが、貴方を貴方たらしめているものだ。身分など関係なく、貴方が捨てきれないでいる矜持や誇りを大事にしてほしい」
「それは……」
「……すみません、やはり忘れてください。らしくない事を言いました。では、卒業試験まで日数がありませんから、風邪を引かぬように気を付けてください」
私の矜持や誇り……先生の言葉は、私の心に楔のように打ち込まれ、抜けることは無かった。
その後、無事に学園を卒業した私は、王族以外では最も国の根幹に近い職場とされる法務室へと就職した。だが、そこで目にしたものは……先生の言う通り、腐敗した王国の現状そのものだった。
私がどんな法案を考えても、上司に全て却下されて評議会に上げられない。上司から覚えの良い同期は重用され、出世を約束されていく。その同期が考えて提出した法案の全てが、貴族や高魔力保持者が得をし、平民や魔法不能者がより搾取され、それらを美しい言葉で修飾して聞こえを良くしたものばかりだった。
栄達したいなら同期の真似をすればいいのに、私には出来なかった。平民である私が、平民を虐げる法案など提出できない。しかも私以外に平民などほぼいないから、当然のように疎まれ、ついには同じ法案を提出しても同期だけの手柄になるまでになってしまっていた。
それでも初めの一年目は新人なら当然だと思い辛抱した。
次の二年目もまだ未熟だからと信じて耐えた。
三年、四年と、法案を出しては却下され、膨大な事務仕事だけを片付ける日々。出世した同期を上長としながら、諦めずに法務室に勤め続けた。
だが五年目、たまたま退勤前に聞いた上司と同期の会話が、私の心を砕いた。
「室長殿、いつまでドロテを使ってるんです?あいつが出す法案なんて評議会に出したら、室長殿が睨まれるばかりで損しかないでしょ」
「まあな。だが彼女の事務処理能力は代えがたいだろう?我々の分までちゃんと片付けてくれるからな。おかげで俺らの仕事も楽になった。見た目も悪くないから、目の保養になるし」
「これはこれは。つまり事務員として使い潰すというわけですか?彼女は栄達と国家の健全化を望んでいるというのに」
「ふん、健全化ね。未だにそんなことを夢見ていたとは、やはり所詮平民ということだ。彼女は法案など考えず、事務処理に専念していればいいのだ。もう数年して鑑賞に耐えなくなれば――」
私が会話を聞けたのはそこまでだった。気が付けば私は荷物を全部置いて、無我夢中で走っていた。身体強化を使うのも忘れて、息が切れるまで走って、走って……いつかのように草むらの中に転んだ。
「……ふ……はは……はははは!あっはははは!あはははははは!!」
これまでの自分の必死さが惨めで、滑稽さが可笑しくて、馬鹿らしくて、選び取れたのは笑う事だけだった。でも、そんな虚勢も長く続くはずもなかった――
「は……はは……は……うっ……!!うあ……ああああ……!!うわあああああ!!」
どうしてだ。どうしてこうなったのだ。私が間違っていたのか。やはり平民は搾取されるしかないのか。それとも私だから搾取されているのか。誰か教えて欲しい。誰でもいい。誰か、話を聞いてほしい。
「……もしやドロテ君か?どうした、何故泣いている?」
「……会長……?会長……っ!!」
溢れる涙を止められないまま、エクトル会長の声が私の耳を打った。王城の影はとっくに小さくなっている。私が無我夢中になって走った先は、カヴァンナ公爵の屋敷からほど近い場所だった。
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