ただ娘のために
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あいつらの姿が見えなくなって、私も手を振るのを止めた。いつまでもトロトロと歩いてるから、汗かいちゃったじゃないのよ。
「行ってしまいましたね」
「……そうですね」
「おや?泣いているのですか?」
「汗です。レディの汗をじろじろ見ないでください」
「……ふふっ、そうですか。随分と暑がりな目なのですね」
ええ、そうよ。私の目は汗っかきなのよ。……無事に生きて帰ってきなさいよね。じゃないと夢見が悪いから。
と、感傷に浸っていた私を横に、オフレ子爵が顎を撫でながら感慨深げにつぶやきだした。
「しかしカロリーヌのやつはともかく、本当に全てを捨てて旅に出てしまったな、あの2人。しかもサウスクレイに向かうとは……奇妙な縁を感じさせてくれる」
「どういうことよ、あなた?」
「いや実はな、数年前にユベールのやつとサシで飲んだ時に聞いたんだが、ユベールって名前もサウスクレイに居ついてから名乗りだした名前らしくてな。片や旅に出る時に姓を捨て、片や旅の終着点で名を捨てる。面白い対比とは思わないか?」
親からもらった名前を捨てるなんて私には考えられないわ。きっと私が仮に旅立ったとしても、ドロテ・バルテルって名前は変えないでしょうね。
「ふーん……?改名前はなんて名前だったの?」
「ショウタロウ・タニウミという名前だったらしい。なんとも変わった響き――」
「なんですって!?」
うわっ、びっくりした!?
「確かにそう言ったの!?」
「お、おお。嫁のスズカとニホンを探してたと聞いた時から、放っておけなくなったらしいぞ。安心しろ、お前を狙ってるとかそんなんじゃないと言っていたから」
「お馬鹿!なんでもっと早く私に言わなかったのよ!?ああ、神様仏様……この世界は残酷すぎます……!」
なんか悲嘆に暮れてるところ申し訳ないんだけど……私も疲れているから、先に帰らせてもらうわ。夫婦喧嘩はお好きに続けてて頂戴。
あー……でも会長にあの二人の事を話しておかないとよね。もう、面倒事ばっかりだわね、あいつが絡むと。もうこの際、諦めてるけどさ。
「ドロテ君」
「何ですか、先生?私もう帰りたいんですけど」
「君が言っていた夢の話、私に詳しく話してもらえますか?」
「……別に詳しく話すほど考えてる訳でもありません。魔法と魔力しか見ていない連中を排除して、本当の意味でこの国を支えたいと思っている人たちが重用される世の中に変えたい。それだけです」
それだけのために、一体どれだけの犠牲が生まれるかは想像もつかないが、あいつに宣言した以上は何が何でもやるしかない。口だけで終っては、かつての馬鹿令嬢達と同じになってしまうだろうから。
「よろしい。もし戦力が欲しい時は、いつでも私を頼りなさい。一個中隊程度なら受け持って差し上げます」
それはそれは、随分と頼もしいことで。……ジョークよね?
「まあ……じゃあ、覚えておきます」
「ええ、覚えておいてください。では、また明日学園で会いましょう」
……はぁ。じゃあ、行きますか。カヴァンナ邸に。うー、気が重いなぁ……。
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あいつからの伝言を伝えた時、一番冷静にそれを受け止めたのが会長で、次に公爵、最も錯乱したのは公爵夫人だった。
「……そうか。あの子はカヴァンナの姓を捨てると言ったか」
「確かなのかね!?あの子が、まさか……私達を見限ったというのか!?」
「ああ……っ!いやあぁぁぁ!セーレ!セーレぇぇぇ!!」
案の定と言うべきなのか、セーレの母親は人目もはばからずに大泣きし、私は帰るタイミングを完全に逸してしまった。分かってはいたけど、非常に損な役回りだと思う。でも仕方ない、先生が言った所で信ぴょう性が生まれない。あの人、無駄に胡散臭いから。
「あの、公爵様、奥様。セーレ様は皆様を見限ったわけじゃないと思います。旅立つ前のセーレ様は、ご家族の事をとても心配しておいででした。国外でしっかり学んだ後で、必ず帰ってくるともおっしゃっていましたし、きっと大丈夫です」
我ながら心無い言葉だと思う。見限ったのでなければ、幼い妹と親愛なる兄を残して黙ったまま旅に出るはずが無いではないか。だが、少しでも自分を慰められる言葉が無いと、この人たちは立ち直れないだろう。
そう、思っていたのだが。
「……確か、ドロテさんだったね。娘の伝言を届けてくれて、ありがとう。あの子がそう言ってくれたなら嬉しいが……恐らくは本心ではあるまい」
「え……?」
「父上……」
公爵の目には、鈍く強い光が宿っている。それがどんな感情なのかは、平民の私には窺い知れない。ただ――
「それが本当なら、伝言で済ます必要が無い。……だからこそ黙って旅に出るしかなかったのだ、あの子は。マリエットの輝きにはしゃぐ我々が、死体と揶揄された自分を守るはずが無いと、そう考えたに違いない。あの子を強くするために敢えて魔法不能者として扱ってきた私達の愛など、あの子にとっては苦痛でしかなかったのだろうな……」
遅すぎる後悔に身を焦がす公爵からは、ただならぬ高貴さが放たれていた。
「あなた!?何を言っているの!?私達は十分にあの子を愛していたわ!!魔法不能者であってもあの子を――」
「やめるのだ、ジネット!両親から魔法不能者として扱われ続ける姉が、マリエットの目からどう映るのかを考えたことはあるか!?」
「あ……」
「……そうだ。私達はそれを考えなかった。いや、そもそもエクトルの目からどう映るのかさえ考えてこなかったのだ。私達の誤った認識と、親としての未熟さが、あの子を追い込んだのだ!あの子がこの家に失望し、国外へ希望を求めるようになったのは……私達がそうさせたからなのだよ」
「そ、そんな……わ、私、そんなつもりでは……!?お腹を痛めて産んだ子よ!?魔力が無くても可愛いに決まっているじゃない!?私だって可愛がりたかったわ!!魔法不能者としてではなく、普通の娘として!!でも、でも!!……ああっ……!ごめんなさい……!私が、間違っていたのね……!セーレ……!」
「セーレ……今まですまなかったな……。せめて、お前の無事を祈らせておくれ……」
……普通の親でありたかったのに、公爵家として王国の範であろうとするあまり、愛し方を間違えたというのか。本当に貴族は度し難い。こうして後悔できるだけまだマシなのか、それとも気付くのが遅すぎると断ずるべきなのか、私には判断できなかった。
「ドロテ君。すまないが帰る前に少しだけ俺の部屋に来てくれ。話がある」
「……はい、会長」
ありがたい。正直この空間に居続けるのは堪える。
「俺の両親に気を使わせてしまって、すまないな。だが……妹のやつは、本当は何も言い残さなかったのだろう?」
まあ、会長なら気付くよね。そもそもあの内容なら自分で伝えてから旅立てばいいし、ここに帰ってくるつもりなら姓を捨てる必要だって無いもの。
「はい。でも会長には伝言を頼まれました」
「そうなのか?セーレはなんと?」
「今はとても幸せだとのことです。……良い笑顔でしたよ」
さいっこーにムカつくけどね。今でも思い出すわ、あの歯を見せてニカっと笑う、ガキっぽい笑い方。……きっとガキの頃のあいつは、本来あんな感じだったんだろうね。出来ればその頃に会ってみたかったかもしれない。
「そうか……セレスティーヌは、ちゃんと自分の幸せを見出したんだな……」
数々の苦難と引き換えにだけどもね。
それでもこの国で高級娼婦として客をとるよりはずっとマシな決断だったはずだ。そんなことになれば、あいつ自身が不幸になるばかりか、周りの人間がどう動くか分かったものじゃない。
殿下は確実に暴走したろうし、この国を嫌いだと明言したカロリーヌおよびその御一家と、兄妹愛の厚い会長が結託して何かやらかす可能性もあった。そうでなくても、あの怪物教師が黙っているとは思えない。……ロクな未来が無いわね、ほんとに。
「ドロテ君、君には感謝している。あの子の競争相手が君で良かった」
「まあ、私もそれなりに楽しませてもらいました。……それで会長、マリエット嬢はどうなるのですか?」
別にあいつの妹がどうなろうと私には関係ないのだが、生後間もなくして婚約させられたばかりか、その当日に婚約者が姉と駆け落ちしてしまったも同然なのだ。いくらなんでもこのままでは不憫すぎる。
「それについては、ファブリス君の元側近を名乗る者から提案があった。今回はそれに乗って、俺も動こうと思う。父上にも、今なら俺の言葉が届くだろうからな」
「提案、ですか?」
「内容を教えてやってもいいんだが、流石に色々と巻き込んでしまうかもしれない。とにかく、今後マリエットが一方的な婚約を結ばれないよう、ファブリス君が策を残してくれたのだとだけ言っておく」
なんだかトラブルの予感しかしない……あの赤子がひどい目に合わないように動くのだと、それさえわかれば十分だ。ここは大人しく退散するとしよう。
「マリエット様のために動くのだと、それさえわかれば十分です」
「そうか。それにしても今回ドロテ君には随分世話になってしまったな。もし君が王城で勤務する際、後ろ盾が欲しい時は俺に相談してくれ。望むなら君を公爵家の一員にしてもいい。養子縁組なり、仮の婚約なり、喜んで相談に乗ろう」
養子縁組?会長と仮婚約?……会長も随分お疲れのようね。無理も無いけども。
「後ろ盾はありがたいですが、公爵家の一員になる気はありません。あの方々を仮であっても父上母上と呼ぶつもりはございませんし、私はドロテ・バルテルという名前が好きですから。もし会長がどうしても私と婚約したいのでしたら、エクトル・バルテルとかいう響きの悪い名前に変える覚悟でお願いします」
バッサリと拒否宣言を下したつもりだったのだが、会長が見せた表情は、何故か苦笑だった。その顔は、困った時のあいつとちょっとだけ似ている。
「公爵家の長女と長男が、揃って姓を捨てるのか……面白い。それも悪くないな」
「ご冗談を。兄妹揃って責任放棄をするようでは困ります。ところで、もう帰っていいですか?彼らの卒業試験に付き合ったせいで、ひどく疲れてまして」
「ああ、いいよ。家まで馬車で送ろう」
それにしても、今回の婚約変更は全く理解できない。マリエットの魔力が欲しいだけなら、バカ王子どもが産ませた子供と婚約させれば良いだけだろうに、わざわざ心象を悪くするリスクを冒してまで第三王子と結ばせようとするなんて。
魔力だけを重視して、実務的な能力や器量を重視しないから、こんな歪な判断を下せるんだ。この国の未来は、このままだと本当に暗黒の海に沈みかねないわね。
だけどそんなこと、させないわ。だってここはお父さんとお母さんが、私を生み育ててくれた土地だもの。そんな簡単に沈まれても困るのよ。
見てなさいよ、アンスラン王国。何年掛けてでも、この私が生まれ変わらせてやる。
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「エクトル。これを見よ」
「これは……!?王室はなりふり構わないというわけか……!」
セーレ、カロリーヌ、ファブリスの3人が旅立ってから一ヶ月後。信じられないことに、再びアンスラン国王から婚約の打診があった。そこにはマリエット・カヴァンナの夫として、ガエル・フォン・アンスラン第二王子を充てる旨が、まるで決定事項であるかのように記されている。
そこまでしてマリエットの子供が欲しいというのか?第三王子が婚約破棄に激怒し、魔力を破棄してからまだ一ヶ月だぞ。政略結婚だとしても、このしつこさは異様と言うほかないな。
いや、この王国の有り様を考えればむしろ当然なのかもしれない。光と炎の複合属性を持つ者が王家からいなくなってしまったのだ。すぐにでも外から取り入れたいと考えているだろう。
殿下の元側近の言葉ではないが、人を魔力の塊としか見ていないという評は的確と言う他ないな。反吐が出る。
「まだ公式には発表されていないが、時間の問題だろう。……どうする、エクトル」
どうするかだと?決まっている。
「マリエットを守ります。それがセーレを守れなかった我々がすべき、最低限の責任です」
「うむ、私も同じ思いだ。もちろん妻もな。例の署名は十分に集まったのか?」
「はい。量が量ですので全てを提出するのには時間がかかりますが、概算の報告書であればすぐに提出できます。……あの王が相手では、これだけで内戦になるやもしれませんが」
「署名如きで軍を動かすというのならば、その程度の国というだけの話だ。魔法戦士の名家らしく、剣と魔法で王家を打倒するまでのこと。何を思い煩うか」
ドロテ君が持ってきた伝言のおかげで、公爵家の雰囲気は変わった。公爵家として民衆に王国の範を示すことよりも、自らが正しいと思うことを率先して行う姿勢に変わりつつある。魔法絶対主義からの脱却を、父上なりのやり方でゆっくりと進めつつあった。
そうでないと、マリエットとセーレにあわせる顔が無いからなと、寂しそうに笑う顔が印象的だった。
……セーレ。マリエットと公爵家は、俺と父上で守る。だからお前も――
――なんですか、貴方達は!?
――きゃあ!
「……何やら外が騒がしいな」
「カヴァンナ公!失礼いたす!」
ノックもせずにぞろぞろと騎士達が入ってきた。この紋章は……第四騎士団か。確か、騎士団の中でも魔力が高い精鋭として有名だったな。
「無礼者!ここをどこと心得る!」
「君達を呼んだ覚えはないが?」
「これは失礼。カヴァンナ公のご招待よりも、国王の勅命が優先されます故。早速ですがこちらにサインをして頂きたい」
それは婚姻承諾書と読める一枚の書類だった。中にはマリエットと第二王子の名前、そして押印欄には公爵家の印を押すように書かれている。
これまでこのような書類は存在しなかったはずだ。……民衆に円満な婚約であることをアピールするための小道具が欲しい訳か。無駄なことに血税と時間を使ってくれるな。
「君にその権限があるというのかね?」
「私の権限ではなく、陛下の権限です。恐れ多くも私の要求を拒否するということは、すなわち陛下の要求を拒否するものと同じですぞ。くれぐれもご注意頂きたく――」
「断る。私は公爵だぞ?騎士風情が調子に乗るな」
父上は毅然として拒否した。その姿は覇気に満ち溢れ、先月まで情けなく泣き、はしゃいでいた姿とは雲泥の差だ。怒りによってなのか、カヴァンナ家が公爵家たる由縁となった人並み外れた膨大な魔力が、騎士たちの動きを縛る。
「なっ……あっ……!?」
「書類を運ぶおつかいを頼まれたに過ぎない小僧が、私にサインを強要するのに陛下の名を使うなど、増長も甚だしい。第一招いてもいないのにズカズカと執務室に入ってくる不審な輩に、渡すものなど何もない。まずは最低限の礼を尽くすことから始めるのだな」
「あ、あぅ……!」
隊長と思しき男は、喉を締められたように呻くばかりだ。この騎士達は恐らく、公爵家から多少強引でも良いから婚約を確約させてこいと命じられたのだろう。そうでなくては武力をもってここまで参上する理由がない。
だが20名程度の騎士では見積もりが甘すぎる。確かに父上は、マリエットよりも魔力が少ない。だがそれはマリエットが異常なだけであって、この人の魔力も人並外れている。国内でも頂点に近い、超一流の魔法戦士であることに変わりはないのだ。
「父上。ある意味これは丁度いい機会です。……動きましょう」
「そうだな。おい小僧、私も陛下にこの件でお話があるところだったのだ。今すぐに謁見の間まで案内しろ」
「ひっ!?し、しかし、謁見のお約束は――」
「君が私に謁見する際は、必要なかったはずだが?」
彼らを動かすのに、それ以上の言葉は必要なかった。ここに来た時よりも遥かに洗練された動きで、父上と俺が乗る馬車の護衛準備が整っていった。
カタカタと揺れる馬車の中、父上は眠ることもなく小窓から外を睨みつけていた。まるで敵陣を偵察するかのような鋭さに、俺も思わず剣の位置を確かめてしまう。
「エクトル」
「はい、なんでしょうか」
「礼を言うぞ。お前が幼い頃からセーレを支え続けてくれたお陰で、かろうじて私も人の道を踏み外さずに済みそうだ」
「……いえ、違います父上。これはセーレが頑張った結果です。俺は……何もしてやれなかった」
父上と母上に命じられるまま、あの子をセーレと呼び続けた俺も、痛みの一つであっただろう。まだ子供だった俺は、愛称で呼ぶことに抵抗がなかった。だがそのせいで、あの子をセレスティーヌと呼ぶ家族が居なくなってしまったのだ。
だからこそあの子も、死体もどきと呼ばれても傷付かない強い少女像である、セーレ・カヴァンナという殻を作り上げてしまったのだ。
剣や魔法陣を教えるよりも、俺はまず、妹をセレスティーヌと呼び続けるべきだったのかもしれない。
「生意気を言うな、青二才め」
「ち、父上……?」
「当時7歳の子供が、親に逆らって何が出来るのか。お前は愚かな私達の育成方針の中でも、兄として出来ることは精一杯やっていたではないか。お前は立派に、あの子の兄を務めていたよ。自分さえもっとしっかりしていれば良かったなどという考え方は、些か自分を過大評価し過ぎというものだ」
そう、なのだろうか……。だが……。
「お前はあの子の兄であって親ではない。……間違えたのは私達だ。もう自分を責めるな。それは、私とジネットだけがすればいいことだ……」
もっと早くにその心境に至ってくれていれば、きっとセーレもまだ家にいただろうにと、そう思わずにはいられない。だが、それを責める資格すら、今の俺には無い。
「……父上。私ももう幼児ではない。セーレが帰る家とマリエットを守るため、力を尽くしましょう」
「ああ。頼りにしているぞ」
城門をくぐったとき、共通の敵を前にして俺たちの間に、新しい絆が結ばれつつあるような気がした。
「よく来たな、カヴァンナ公」
「はっ。本日は急な謁見に応じてくださり、誠に感謝の極み――」
尊大な態度で玉座からこちらを見下ろしてくる王に対し、俺と父上はあくまで礼を尽くす。礼を尽くした上で剣を交えるのが、貴族本来の戦い方というものだ。
「ファブリスが狂を発したのは残念だった。あれは元々、魔法に対して不信感があったようなのでな。勇者の魔力を失うのは惜しかったが、あのままでは危険と判断し、私の判断で魔封じを行い、廃嫡させたのだ」
勝手なことを……!私達が真実に気付いていないとでも思っているのか!殿下が自ら望んで全てを捨てて旅に出たことは、ドロテ嬢を通じて俺も父上も承知している。平民のドロテ嬢とこの国の王、そのどちらかを信じるべきかなど明らかではないか!
平民の方が信じられると我々に思わせるほど、貴方は人を裏切り過ぎたのだ!
「とんだ不埒者と婚約させてしまったようだな、許せ」
父上は何も言わず、跪いたままだ。だが青筋が浮かんでいるところに、相当な怒りを覚えていることは間違いない。
「父上、くれぐれもご冷静に」
「……出来かねる」
これは、駄目かもしれないな……。いざとなれば、覚悟を決めよう。
「さて、我が次男ガエルと、マリエット嬢との婚約式の日程を決めねばならんな。いつがいい?既にミロワールクリスタルには触れておるわけだし、5歳まで待つ必要も無かろうな」
その一言が、父上の父性と怒りを爆発させ、俺の中で剣を握る覚悟を決めさせた。
父上は俺よりも先に立ち上がると、サインがされていない婚姻承諾書を王に向けて見せつけた。
「……なんのつもりだ、カヴァンナ公」
「これが答えです、陛下」
父上はその婚約書を、光の魔力によって瞬時に消滅させた。灰すらも残らずに消えたのを確認した王は激怒し、立ち上がる。
「貴様!!婚約を破棄するというのか!?」
「これは異なことを。マリエットとファブリス元殿下との婚約を、元殿下の廃嫡という形で破棄されたのは王家でございましょう?」
「ぐぬっ……!?」
「その前に、我が娘セーレとファブリス元第三王子との婚約を破棄されたのも王家です。二度に渡って一方的に婚約破棄をしておきながら、こちらが破棄するのは許せぬと?」
「……だから今度は公爵家が破棄しても良いと言うつもりか?」
この時の父上の表情は、俺が今まで見てきたことのない、この人に似つかわしくないものだった。深い嘲笑……そして軽蔑。人の良さだけが際立ち、民からもその人柄を評価されてきた父上が、国の頂点たる国王を軽蔑し、嗤っている。まるで……あの頃のセーレ・カヴァンナのように。
セーレは否定するだろうが、間違いなく妹は父親似だ。
その普段とのあまりのギャップと凄みに、周囲の騎士はおろか、王や俺でさえ信じられない思いで動けなくなった。
「違いますな。そもそも我々は、娘とガエル第二王子の婚約に一切の相談も、合意もしておりません。婚約破棄ではなく、これは婚約拒否です。こちらをご覧ください」
カートに載せられた膨大な量の書類が運ばれてきた。ただし、その数は尋常ではない。
「エクトルの指揮のもと、公爵領の私兵や領民にも協力させて集めた、マリエットと王家の婚約に反対する署名です」
「な、なんだその量は!?それが全て反対署名だと言うのか!?」
カートにして10台近くにのぼるその署名の数、概算にしておよそ2万3千枚。婚約に関する署名の数としてはこれだけでも異常なのだが――
「まさか。あまりの量で現地から屋敷に運び切らない物もありますので、全て合わせれば30万枚にも達します。これでは婚約をしても誰からも理解されず、国内を揺るがすだけでしょうな」
「さんっ……!?」
それらが一枚一家族と考えると、実質的な反対人数は120万人を超えている計算となる。これは全国民の約7割に相当する人数であり、領地外からも反対運動に賛同する者がいたことに他ならない。
まあ、実際には家族全員に書いてもらっていることの方が今回は多いのだが、ブラフとしては上等だ。
「私は親としては大変不出来でしたが、領民から比較的慕われていましてな。二度に渡り婚約を破棄されたことに心痛めた領民たちが、私のために動いてくれたのですよ。中にはマリエットの婚約者に立候補する小さな男の子もいたほどです。魔法不能者でしたが、良い子でしたよ」
親として未熟であっても、治世において無能であるとは限らない。父上は領民たちを、セーレと同じく魔法不能者と区別することはあっても、魔法不能者を見捨てるような統治は行わなかった。娘と民を平等に観察し、そして理不尽な不平等が起こらないよう尽力していたのだ。
根強い差別的文化の中で育ちながら、それでも守るべき民として平等に守るという、凡庸な領主なら簡単に超えてしまう一線を、父上は踏み越えずにいた。その危うくも絶妙な政治感覚が、領民たちからの支持を集めていたのだ。
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『……エクトル。私はこの領地を、大人になったあの子が暮らしやすいように願って統治してきたのだ』
『そうなのですか?』
『ああ。入浴設備と上下水道の整備促進……公共交通設備の増設……魔法不能者の自由と安全を確保するための設備規制強化……そのどれもが大人になって結婚したセーレが、子供たちと一緒に不自由なく街を歩くのを想像しながら立案したものだったのだ』
『……何故それをセーレに言ってやらなかったのですか!?そうすればあの子は!』
『言えるか。公爵家当主として、他の魔法不能者と娘を平等に扱うと言った私が、娘を贔屓して領地運営しているなどと、言えるはずがないではないか。……それも親子ならば言葉にせずとも伝わると、勝手に思い込んでいたのだ』
『そんな……父上……!』
『言葉にすることを怠った私が全て悪いのだ。だがそれでも、この領地が私の誇りであることに違いは無い。エクトル、私が引退した後は、お前が私の意思を継いでくれよ。これはセーレを正しく導いてきた、お前にしか頼めない』
『……わかりました。それにしても……すれ違い過ぎましたな、俺達は』
『…………ああ』
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全ては娘が独り立ちした時、セーレが悲しい思いをしないようにという親心。セーレ、お前はちゃんと父上から愛されていたんだ。ただ、この人はとても不器用なだけだったんだよ。
「で、デタラメだ!そんな署名、信用できるものか!!」
「ええ、信用して頂かなくて結構です。陛下に信用して頂けないなら、陛下以外の人間に信用して頂くまでのこと。我々の婚約を見守っているのは、国内だけではありませんので」
絶句する国王と、これまでとは様子が全く異なる父上の覇気に、変革の訪れを感じずには居られなかった。
「き……きさまは、公爵家だろう……?私に逆らえばどうなるか、わかっているのか……!?」
「ほお……優れた魔法戦士を数多も輩出してきた、カヴァンナ公爵領との内戦をご希望ですか?陛下をお守りする騎士団のうち、何割が我が領地の出身者かお忘れで?」
「い、いや、そのようなことは……!?」
「それは大変結構……もしそのような事になれば――」
より一層の凄まじい魔力の奔流が謁見の間を支配した。それは統治者というより支配者、あるいは奪還者のそれであり、かつて魔王を討伐したとされる光の勇者を彷彿とさせる力強い光だった。
「我がカヴァンナ家が、何故古来より公爵家として国を支え、幾千万の敵を屠ってこれたのか。それを御身をもって知らしめることになっていたでしょうから」
「…………っ!!」
暗愚であろうとも、国内有数の魔力を誇るアンスラン国王が、身動き一つ取れずにいた。謁見の間に起立する騎士達も、銀の剣を握る手に力が入りすぎて震えている。
もしかしたら父上は、自分の膨大な魔力が人を恐れさせる事を自覚していたから、普段は努めて穏やかな好々爺であろうとしてきたのかもしれない。だからこそ却って魔力を一切持たないセーレの気持ちが測れなくて、他の人以上にどう接したらいいかわからなかったのか。
本当に不器用で、優しい父親だ。だからといってこれまでの過ちを擁護することも、俺には出来ない。でもなセーレ……お前にも今日の父上を見せてやりたかったよ。
「一人の父として言わせて頂きます。今後マリエットの婚約は、マリエット本人の意志を尊重して決めさせて頂きます。王家との婚約をご希望であれば、それに相応しき男児をご用意ください。尤も、マリエットがそれを待つ理由はありませんが。……では、我々は失礼させて頂きます」
父上は、お前と妹の為に、国と戦う決意をしてくれたぞ。
「セーレが知れば、何を今更と笑うだろうな」
「いえ、とてもご立派でした」
帰りの馬車の中で自嘲する父上は、元の人の良い父上に戻っていた。しかしその目の力は全く衰えておらず、むしろ力強さを増している。きっと、今の父上ならマリエットを真っ直ぐに育ててくれることだろう。
「……はっ!?エクトル、もしかしたらこれでお前の覚えまで悪くなってしまったのではないか?その……また、私がやらかしたから」
「いえ、父上が立たなければ、私はあの場で剣を抜いていました。正直助かりましたよ」
「……ははっ、そうか。ならいい」
セーレ。お前が苦難を乗り越えて未来に向けて歩いてくれたおかげで、俺も父上もちゃんと真っ直ぐに前を向けるようになったよ。もう、我が家はきっと大丈夫だ。
ありがとう、俺の自慢の妹よ。お前の旅が、ずっと幸福なものでありますように。
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