番外編:幽霊16
使用人が動き始める早朝。
アリエスは部屋へと近づいてくるフロリスの足音で目が覚めた。
結婚していた六年の間、ボレックがいつ寝室にやってくるかと常に怯えていたせいか、眠っていても足音などには敏感になってしまったのだ。
「フロリス、入っていいわよ」
「おはようございます、アリエス様」
アリエスが起き上がって声をかければ、そっと扉を開けながらフロリスが入ってくる。
フロリスはいつも朝になると扉の前でアリエスが起きているか気配で探ってから入ってくるのだ。
そもそも普通の女官は――貴族たちはこんなに早く起きたりしない。
そのため、フロリスも初めの頃はアリエスの起きる時間がわからず、かなり戸惑っていたようだった。
「階下が騒がしいようだけれど、何かあったの?」
「それが、男性使用人が死んでいたとかで……」
「それでこの騒ぎ?」
「はい。どうやら食中毒らしいのですが、三人も死んでしまったようです」
「三人も?」
使用人が――特に下男が突然死ぬことはそれほど珍しいことではない。
無理な労働やケンカによる怪我、そして酒に酔っての事故など原因は様々だった。
もちろん食中毒もないことはないが、三人も急に死ぬなど怪しすぎる。
アリエスはフロリスが運んできたお湯で顔を洗うと、急いで着替えた。
「朝食の前に、様子を見に行ってくるわ」
「ご一緒いたします」
「大丈夫よ。フロリスは食事の用意をしてくれる?」
「……かしこまりました」
下男の部屋は使用人棟の半地下にあり、あまり女性が近付くことはないのだ。
それでも今は、アリエスの部屋まで騒ぎの声が届いていることから、一人でも問題ないだろう。
衛兵もいるはずだ。
その予想は当たり、半地下まで降りると、人だかりの中にガイウスの姿が見えた。
そして、誰かがアリエスに気付いて嬉しそうに声を上げる。
「クローヤル女史よ!」
「ほんとだ! クローヤル女史が来たぞ!」
集まっているのはほとんど男性だったが、何人かは女性もいる。
皆が道を空けてくれるので、アリエスはすぐに目的の場所までたどり着くことができた。
「――何が原因なんですか?」
「まだわかりません。とにかく部屋が汚くて……おそらく腐った肉でも手に入れて食べたんでしょう」
アリエスが挨拶もなしに問いかけても、ガイウスは気にした様子もなく答えた。
そのガイウスが鼻を押さえているのは、かなり臭いからだ。
皆も同様に鼻を押さえているが、アリエスはくんくんと臭いを注意深く嗅いだ。
「……よく平気ですね」
「もちろん不快です」
そう答えながらも、アリエスの表情はいつもと変わらない。
アリエスは吐瀉物で汚れた室内を見回し、倒れたままの三人を観察した。
「気の毒に……」
「自業自得ですよ。やつらはよく食堂やら高貴な方々の残された食事をくすねる常習犯ですからね」
「いえ。気の毒なのは、この部屋の後片付けをしなければならない方たちです。このまま放置というわけにはいかないでしょう? こういう場合は特別手当など出るのですか?」
「さあ、どうでしょう」
「出すべきです。ところで、医務官はいらっしゃらないのですね」
「そりゃまあ……」
わざわざ医務官が下男ごときの不審死を調べたりなどしない。
本来なら、アリエスほど身分の高い者がこの半地下に足を踏み入れること自体ありえないのだ。
「それで、クローヤル女史はどう思われますか?」
「何のことかしら?」
「彼らが死んだ理由ですよ」
「ああ……。おっしゃる通り、腐った肉か何かではないですか? あそこに吐き出したミートパイらしきものもありますから。私は食中毒で死んだ人を見たことがなかったので、後学のために見学に来ただけです」
「簡単に言うと、野次馬ですか?」
「簡単に言わなくても、野次馬よ」
楽しげなガイウスの問いにしれっと答えたアリエスは、足下近くに転がっていた空き瓶を手に取った。
その空き瓶にはラベルが貼ってある。
「ずいぶん高いお酒を飲んだようね」
「あー、今回はその酒を手に入れた祝宴ですね」
「要するに?」
「どこからか盗んできたんでしょう。確か、こいつは翼棟の雑用係、こっちは騎士宿舎の掃除係、あっちが庭師ですから。盗人はあの二人のうちどちらかでしょうね」
アリエスはガイウスから死んだ男たちについての話を聞きながら、空き瓶を軽く傾けた。
すると中から酒の雫が一滴こぼれ落ちる。
それを指で受け止め、アリエスはさり気なくにおいを嗅いだ。
そしてぺろりと舐め、眉を寄せた。
「どうかしましたか?」
「いえ、ずいぶん劣化していたようですね」
「そりゃ、こいつらが盗んできたものなら仕方ないでしょう」
「なるほど。色々と勉強になりました」
ガイウスに空き瓶を渡すと、くるりと回って部屋を出た。
途端に、集まっていた人たちが再び道を空ける。
「皆さん、そろそろお仕事を始めてはどうですか? ここの後始末をされる方は、ガイウス隊長が特別手当を出してくださるそうですよ」
「は?」
「では、失礼します」
勝手なアリエスの言葉にガイウスは驚き、皆は顔を輝かせた。
それから喜ぶ声と、我先にと片付け始める音がする。
アリエスは足早に階段を上り自室に戻ると、フロリスが用意してくれていた水を一気に飲んだ。
グラスが空になると、ピッチャーから注いでもう一杯飲む。
おそらく大丈夫だろうが、用心するに越したことはない。
「……アリエス様?」
「フロリス、食事にするわ」
「かしこまりました」
常ならぬアリエスの様子に、フロリスが心配する。
しかし、何も言わずに食事を頼めば、フロリスはもう触れなかった。
あの惨状を見た後でも朝食をしっかりとったアリエスは、幸い食中毒にはならなかったのだった。




