番外編:幽霊15
翌日の昼下がり。
カーテンの引かれた資料室は明かりをつけていても薄暗く、さらには遠くで雷鳴まで聞こえ始めていた。
「本当に幽霊が出そうだな」
「幽霊のほうがまだマシですけどね」
音もなく現れたジークを見上げ、アリエスは答えた。
ジークは丸テーブルの上に置かれているポットを見て、わざとらしく驚く。
「アリエス、ポットから湯気が出ているぞ?」
「ええ、先ほど淹れてもらったばかりですので。フロリスが出ていくのを確認してから、いらしたのでしょう?」
どうせこの時間にやってくるだろうと予想していたことが当たった。
昨日の言葉で二人ならまた降霊術に喜んで参加するだろうと思ったのだが、ここまで時間ぴったりだとそんなに暇なのかと疑ってしまう。
さらに、にこにこしながら入ってきたヘンリーを目にして、アリエスは盛大に舌打ちした。
「女性が舌打ちする姿を初めて見ました」
「それは新しい経験ができてよかったですね」
ヘンリーが笑顔を崩さず言うので、アリエスも無表情を崩さず答えた。
その間に、ジークはカップにお茶をまた自分で注いでいる。
「わあ、湯気が出ているなんて、美味しそうなお茶ですね。あ、そうそう。差し入れを持ってきたんですよ。法務局内で人気の焼き菓子なんですけどね、ぜひアリエス殿に食べていただこうと思って」
「法務局内で人気だなんて、どんな粉を使って作っているのかしらね」
「普通の焼き菓子ですよ。ハーブなどは入っていません」
ヘンリーはさりげなく嫌みを混ぜて喜んでから、菓子籠を差し出した。
それを見たアリエスが眉をひそめると、ヘンリーは籠を開けて一つ摘まむ。
礼儀としてあり得ないが、毒見のつもりだろう。
ただし、他の焼き菓子も全て同じものとの保証はない。
そもそも法務局内で人気の菓子を差し入れたということは、この内容は法務官たちに――少なくとも法務長官のガスパル伯爵には筒抜けになるということだ。
ヘンリーの単独行動とは思っていなかったが、ここまであからさまにされるのもいい気はしなかった。
しかも、以前持ち出したハーブについては見逃してやると言っているのだ。
(……自分たちの仕事を押し付けないでほしいわ)
しかし、アリエス・クローヤルとして、法務局とは持ちつ持たれつの関係を築いておいて損はない。
むしろ今は貸しのほうが多いのだ。
ジークはここまでのヘンリーとのやり取りをにやにやしながら呑気にお茶を飲んでいる。
ただ好きに生きていたかっただけなのに、こんな面倒くさい人たちに関わることになった自分を呪いながら、アリエスは丸テーブルの上に小さな巾着袋を置いた。
「ずいぶん可愛らしい袋だな。また香袋か?」
「以前はそのように使われていたようですね。香りが残っていますから。ちなみに、これは昨夜とある執務室から持ち出したものです」
「さらっと不穏なことを言うなよ」
「あら。皆さん、これを期待されていたのでしょう?」
公にはできないが、それでも今回のことに関しては法務局もアリエスに協力すると焼き菓子で示している。
そのため、遠回しな言い方はしなかった。
すると、ヘンリーが苦笑する。
「各執務室は政務官が退室時には、きちんと施錠していたはずですが……」
「施錠だけではなかなか安心できませんよね?」
「普通は施錠で十分なんだよ」
「普通は、もっと衛兵の見回りもあるはずですけどね」
ジークの白々しい突っ込みにアリエスが答えれば、ヘンリーがまたいつもの胡散臭い笑顔に戻る。
今回の一連の事件については、法務局にいいように使われてはいるが、アリエスは諦めた。
「それで、この袋はどこで見つけられたのですか?」
「バウアーさんの執務室です」
「バウアーの?」
「ええ」
二人はバウアーの執務室と聞いて驚いているらしい。
そんな二人に、アリエスは嫌みを言う。
「報告はなかったのですか? バウアーさんが医務局から抜け出したとき、先に自分の執務室に入ったと」
「さあ、何のことだ?」
白々しくジークは答え、ヘンリーはにこにこしたまま。
そんな二人を前にして、アリエスはこれみよがしにため息を吐いた。
「……タイザム卿の執務室に落ちていた創国記ですが、以前お邪魔したときには書架に並んでいたのを確認しております。ですが、あの幽霊騒動のときにはバウアーさんの執務室にありました。それが昨夜、タイザム卿の執務室に落ちていたということは、バウアーさんが移動させたのでしょう」
「まさか、各部屋の書架に何の本が並んでいるかまで覚えているのか?」
ジークはアリエスに問いかけながらも、バウアーが自室から本を持って出たのか確認しなければと考えていた。
アリエスを疑っているのではなく、騎士たちから報告がなかったことが問題なのだ。
もちろん騎士たちは、医務局から抜け出したバウアーの後をつけていた。
その報告には、バウアーがまず自分の執務室に入ったものの、すぐに出てきたとしか記載がなかったのである。
「さすがにそれはありません。ただ執務室にまでわざわざ持ち込むなんて、趣味が悪い人だなと思ったので印象に残っただけです」
「前から思っていたが、よほどあの本が嫌いなんだな」
「初代ポルドロフ国王は、王国内では英雄視されていますが、その残虐性は他の殺戮者たちよりも抜きん出ています。その行為を正当化するために書かれたようなものなのですから、タイザム卿の日記と類似していますよね」
「なるほどね」
創国記はポルドロフ王国内だけでなく、男性なら一度は読むべき書物として家庭教師などから推奨されているので、ジークはもちろんヘンリーも読んだことはあるだろう。
嫌悪する感情を全く隠さないアリエスに、ジークはあっさり答え、それ以上はもう触れなかった。
「それで、あの一文が隠し場所を示していたとして、その本に挟んであった……としたら、昨日のうちにわかっているか。じゃあ、どこにあったんだ?」
「書架の背板の裏側です。バウアーさんの執務室の書架は背板が全体を覆うタイプではなく、ある程度の幅のものが等間隔で取り付けられたものでした。さらに背板を壁より少し手前に取り付けて湿気対策をしてありましたので、裏側に太い針を刺して引っかけられたのです」
「そういう隠し場所もあるんですね。参考になります」
「ええ。ぜひ次からは、書架の奥行きと本の背表紙が並んだ位置を確認されるとよいかと思います」
感心したようなヘンリーの言葉に、アリエスはにこりともせずに答えた。
夢遊病のバウアーを執務室に連れて戻ったとき、壁に配置された書架の奥行きが本の横幅と合っていないことにはすぐに気付いたのだ。
それなのに、アリエスは日記の在処に気を取られ、周囲の本より大きい創国記は目立っていたものの、見過ごしてしまっていた。
「シャルル・タイザムがあの一文を呟いて死んだのはバウアーにヘベノンの場所を教えるためでしょうか?」
「私はタイザム卿がそんなに親切だとは思いません。あの一文も、ヘベノンの在処を伝えるためではなく、ただお気に入りの言葉を口にしただけのように思います」
「それはわかる。だが、創国記を目印にはしていたんだろう?」
ヘンリーの疑問にアリエスがきっぱり言い切ると、日記を読んだジークが同意する。
しかし、続いたジークの問いにも、アリエスは首を横に振った。
「目印というよりも、目立たせるためではないでしょうか。おそらくタイザム卿はバウアーさんの執務室も捜索されると思っていたのでしょう。もし禁止薬のヘベノンが発見されれば、ヘベノン中毒の部下を持った可哀想な自分になれますし、罪をなすりつけられるでしょう?」
「クズですね」
アリエスが推測を口にすると、ヘンリーが本音を漏らした。
シャルル・タイザムは調べるほど、我が儘で傲慢な人物にしか思えないのだから当然だろう。
「タイザム卿としては、日記を見つけてくれなかったバウアーさんに対して、ちょっとした復讐のつもりだったのかもしれませんよ? 本当はもっときちんとバウアーさんに日記の在処を伝えていたと思います。たとえば『横領関与については私の単独だと書いている。その日記は弟のところに置いてきてしまった。家族には申し訳ないことをしてしまったな』なんてところでしょうか? 世間から同情してもらうために、あの日記が役立つはずですからね。ところがバウアーさんは日記のことなど忘れて、手に入れられなくなってしまったヘベノンに頭を占められてしまっていたのです。バウアーさんのヘベノン中毒が予想より進行していたのが、タイザム卿の誤算でしょうね」
ヘンリーへの説明をジークは黙って聞いていた。
シャルル・タイザムについてはアリエスの見解に近いのだろう。
「ダフト卿はまだこの日記を読んでないからな。興味があるなら、読んでみるか?」
「はい。ありがとうございます」
「だが、引きずられるなよ?」
「……気をつけます」
意味深なジークの言葉に、ヘンリーは珍しく真剣に頷いた。
それから二人とも立ち上がったが、アリエスは座ったまま焼き菓子に手を伸ばした。
「このお菓子、とても美味しいわ。どうぞ皆様にもよろしくお伝えください」
「ありがとうございます。みんなきっと喜びますよ」
いつもの調子に戻ったヘンリーの手には日記と巾着がある。
出ていきかけたジークは把手を握ったまま思い出したように付け加えた。
「その日記を見せるのは長官だけにしておいたほうがいい」
「わかりました」
結局、今回の一連の出来事はすっきりしないままに終わってしまった。
しかし、たいていはそんなものだろう。
ジークとヘンリーが資料室から出ていくと、アリエスはカーテンの隙間から外を眺めた。
どうやら雷は遠くへ行ったらしい。
嵐にならなかったことを少し残念に思い、アリエスはかすかに笑った。




