番外編:幽霊14
執務室の中は多くの本が散乱していた。
どうやらバウアーが暴れて、書架から本を次々に抜き出していたらしい。
アリエスがそれらの落ちている本をちらりと見てから顔を上げると、なぜか廊下で警備していたはずのジークまで入ってきていた。
しかも中にはヘンリーもいる。
当然と言えば当然なのだが、この観衆の中でアリエスがどう出るのかを楽しんでいるのが腹立たしかった。
「ここは女性がいらっしゃるような場所ではありませんよ」
「ええ、私もそう思いますわ。申し遅れましたが、アリエス・クローヤルと申します」
アリエスが入ってきたことで眉をひそめて注意してきたのは、医務官の一人だった。
医務局には何度も入ったことのあるアリエスだったが、女官として医務官と顔を合わせたことは一度もない。
「ああ、あなたがあの……」
医務官は言葉を濁したが、見下していることはその表情からわかる。
そんなことはいつものことなので、アリエスは気にせず死体に――バウアーに目を向けた。
侮られているのなら(それに応じて使い様はあるので)そのままでかまわないが、今さら死体を見て驚いたとしても白々しすぎるだろう。
すぐ傍に膝をついてバウアーに触れた。
さすがに室内にはそれくらいで悲鳴を上げる者はいないが、医務官は声には出さないものの驚いたようだ。
「亡くなったのは早朝のようですね」
「そんなことはわかっています!」
「この粉末は何かしら……?」
「ご存じないのも仕方ありませんが、ヘベノンの粉末ですよ」
「まあ、これがそうなのですね! 実物は見たことがなく、本で読んだだけでしたから」
アリエスが周囲に散っている粉末を指ですくって独り言のように呟くと、医務官がふんっと鼻息荒く答えた。
もちろん、アリエスは粉末がヘベノンであることはわかっていたが、十年ほど前から禁止薬物とされているものを知っているなど怪しすぎる。
そこで初めて目にしたようなふりをしたのだ。
「では、やはりヘベノンの過剰摂取で亡くなったのでしょう。瞳孔が開いておりますし、嘔吐物の中にこの粉末……になりそこなった欠片もあるようですから」
ヘベノンは葉を乾燥させて粉末にしたりして飲むのだが、わずかに葉の形状が残っているものも周囲には散っていた。
本来、飲むときにはしっかり細かくするものだが、その余裕がなかったのだろう。
「それももうわかっております。彼は以前からヘベノン中毒の症状が出ていました。それで注意したのに、本人は否定して……特別に医務局に寝泊まりすることまで許したのですが、こうなってしまったことは自業自得ですよ」
「……彼とは今までに二度ほどお会いしたことがありました。ヘベノン中毒の症状が出ているのではないかと、本で読んだだけの私でも思っておりましたから、先生が心配なさっていたのは当然です。残念でしたね」
アリエスの労りの言葉(ではないが)に気を良くしたのか、医務官の鼻の穴が広がる。
そんな医務官からアリエスはその場で無言で立っている騎士二人にちらりと視線を向けた。
「本で読んだだけですけれど、ヘベノン中毒者は幻覚や幻聴の症状が出るらしく、何をするかわからないそうですね。ふいをついて消えてしまうこともよくあるそうですわ」
はっきり言えば、バウアーが抜け出したのは騎士たちの責任である。
だがアリエスがそのことに触れても、騎士たちは気まずさも何もなく微動だにせず立っていた。
やはりバウアーをわざと見逃したようだ。
「それにしても、このヘベノンはどうしたのかしら? バウアーさんがお持ちになっていたわけではないですよね?」
「当然です! きっとこの部屋に隠していたんですよ! 彼は横領には関与していなかったかもしれませんが、タイザム卿と一緒にヘベノンを服用していたことは間違いないです」
「ああ、それでこの部屋にやって来たんですね。ヘベノンのために」
要するに騎士たちがバウアーを見逃し、アリエスがここに呼ばれた理由はそれなのだ。
もし他にもヘベノンが隠してあるなら見つけろ、と。
ヘンリーの胡散臭い笑顔がそう語っていた。
この場にアリエスが呼ばれても、今までの事件解決から不思議には思われない。
むしろ死体がある今のほうが、この執務室内を物色しやすいのだろう。
どこにあるのか――まだ隠してあるとしてだが、大きな物音を無人の部屋でさせるわけにはいかないからだ。
「この部屋はきちんと捜索されたものだと思っておりましたが、まだヘベノンが隠されていたんですね。残念なことに」
「はい。我々の力が及ばず誠に遺憾に思います」
しっかりアリエスが法務官を非難すれば、ヘンリーはしおらしく認めた。
他の二人の法務官も沈痛な面持ちをしている。
だが、法務官が曲者揃いなことはわかっているので、アリエスは二人をじっと見つめた。
ヘンリーに負けず劣らず性格が悪そうだ。――他人のことは言えないが。
「それで、クローヤル女史は何か心当たりはありませんか? バウアー殿にお会いしたことがあるのなら、ヘベノンの隠し場所などわかればいいのですが……」
普通に考えてわかるわけがない。
ここでわかったと答えれば、逆にアリエスもヘベノンの不法所持に関わっていたと思われかねないのだ。
覚えていなさいよ、と言わんばかりの鋭い視線をヘンリーに投げつけて、アリエスは立ち上がった。
「バウアーさんとは他愛ない挨拶を交わした程度なので、わかりませんわ。わざわざお呼びいただいたのに、お役に立てず申し訳ありません」
アリエスが謝罪すると、部屋の外から残念そうな声が上がった。
それでも「医務官と同じように死因を当てたぞ」「やっぱりすごいじゃないか」という声も聞こえる。
それに医務官はむっとしていたが、アリエスは気にせずに落ちていた本を拾った。
「……ポルドロフ王国の創国記ですね。ずいぶん傷んでいますけど、バウアーさんが傷つけたのかしら?」
「ああ、いや。それはタイザム卿が何度も読み返していたせいでしょう。子どもの頃からのものだと、以前伺いました」
「そうなんですね」
バウアーは『秘密の扉』を探すときに、この本に書いてある一文をぶつぶつ呟いていたのだ。
アリエスは本を書架へと戻し、ヘンリーたち法務官を見た。
「ヘベノンの隠し場所が気になるのでしたら、降霊術でもされてはどうですか? それでは私はこれで失礼します。仕事がありますので」
アリエスの言葉に野次馬たちもはっとしたようだ。
慌てて動き始め、その忙しない空気の中で、アリエスはヘンリーやガイウスたちの答えを待たず、執務室を出ていったのだった。




