番外編:幽霊12
三日後の夕暮れ時。
アリエスは資料室に戻ると、女官姿のフロリスに声をかけた。
「フロリス、悪いけれどメイド姿に戻ってユッタの仕事を手伝いに行ってくれる?」
「かしこまりました」
フロリスは突然の予定変更に理由も訊かず、素直に頷いた。
アリエスは陰ですでに女官服に着替え始めている。
そして大した時間もかからずフロリスが資料室から出ていくと、入れ替わりにジークが入ってきた。
「すまないな」
「すまないと思うなら、突然の訪問はやめてください」
「趣味の邪魔をしたか?」
「いつも邪魔しているではないですか」
アリエスが不満を訴えてもかまわず、ジークはカーテンをわずかに開いて窓台に座った。
おそらくいつ誰がきても隠れられるようにしているのだろう。
アリエスはテーブルの上に置かれた、フロリスのやりかけの本の修繕の続きを始めた。
少し暗いが、ジークが開けたカーテンの隙間からの光でも作業は十分できる。
「読んだよ」
「わざわざ感想を伝えにきたのですか?」
「どちらかというと、礼かな? アリエスから聞いていなければ、シャルル・タイザムに肩入れしていたかもしれない」
「逆に、余計な先入観を与えてしまったかもしれません。あれが嘘とは限らないのですから」
「まあ、そうだよな」
唐突なジークの言葉に、アリエスは不機嫌に答えた。
ジークは笑いながら話を続け、ため息を吐く。
「バウアーが昨日、また倒れたのは知っているだろ? これ以上は放っておけないから、医務局で当分は休ませることにしたよ」
「監視付きで、ですか?」
「昨日は暴れたらしいからな。中毒症状も相当酷くなっている。なあ、治療方法を知らないか?」
「知りません」
「そうか。残念だな」
「ええ」
同情の言葉にアリエスが素直に同意したからか、ジークは軽く眉を上げた。
アリエスだって鬼ではないのだ。
あそこまで症状が進んでいなければどうにかできたかもしれないが、今はもうどうしようもなかった。
「やっぱり、あの絵を見ているようだったよ」
「日記ですか?」
「ああ。あの黄色い絵と同じ違和感だ。もやもやとして気分が悪くなった。だが自分で日記を見つけて読んでいたとしたら、その気持ちを悪行が見逃されているせいだと思っただろう。そして、正義を行使しなければと使命感に燃えたかもしれない」
「正義とは厄介なものですからね」
「そうだな。あの一文のように、時に身を滅ぼすこともある」
ジークは今回のことを口にしながらも、別のことを考えているようだ。
だがアリエスはわざわざ問いかけることはしなかった。
何を考えていようと、頭の中は自由だ。他人が干渉することはない。
「日記を読んですぐに調べたよ。バウアーの母親の死因を」
「わかったのですか?」
「いや、心臓を悪くしていたからな。それが原因とされていただけだ。ただ亡くなったとき、バウアーはおらず、シャルル・タイザムが看取ったらしい。アリエスは知っていたのか?」
「いいえ、そこまでは知りませんでした。私はジギタリスとヘベノンを結びつけて推測しただけですから」
シャルル・タイザムがバウアーの母親にヘベノンを飲ませて容態が急変したなら、さぞ恐ろしかっただろう。
その理由を知りたくて――自分の正当性を確かめたくて、薬草についての本を手に入れたのかもしれない。
そして、シャルル・タイザムは自分の犯してしまった過ちに気付いたのだ。
「シャルル・タイザムがヘベノンを手に入れたきっかけは、バウアーの母親のためだろう。とはいえ、やっぱりあれもこれも推測でしかないな。タイザムがバウアーの母親を殺してしまったかもしれないってのは、もう確かめるすべはないんだから」
「そうですね……」
ジークの言葉に、アリエスは静かに答えた。
過去はどんな人間にも変えることはできない。
だから忘れてしまえればいいのだが、囚われてしまうのが人間なのだ。
「それにしても、なぜシャルル・タイザムはバウアーにヘベノンを飲ませたんだ? 人事異動の書類を署名前に改ざんしていると気付かれ責められた腹いせか? 日記にはバウアーに――友人に裏切られた可哀想な自分のことしか書いてなかったぞ」
「想像ですが……人は悲しみの淵にいるときには、思ってもいないことを口にしたりします。バウアーさんは、自分が母の死を看取れなかったことで後悔と怒りがわき上がり、タイザム卿に八つ当たりをしてしまったのではないでしょうか? その中には『お前のせいだ』などといった言葉もあったのかもしれません。そして罪悪感を抱えていたタイザム卿はそれを受け流せなかった。それどころか自分の罪を知っているバウアーさんの口を塞いでしまいたかったのかもしれません」
「たとえ殺してでも、か。日記を読んだ今なら納得できるな。あれは全て責任転嫁の言い訳ばかりだった」
シャルル・タイザムがバウアーを騙してヘベノンを飲ませたと考えるようになったのは、幽霊騒動のときだった。
アリエスが首を絞められたとき、バウアーは「お前を信じていたのに」と言っていたのだ。
「そういや、バウアーは母親が亡くなり落ち着いた頃になって、人事操作に気付いたらしい。母親が寝たきりになってからは心配で上の空だったらしいからな。そして、シャルル・タイザムにどういうことか問い詰め、告発すると言ったらしいぞ」
「まるで本人に聞いたかのようですね」
「聞いたからな」
ジークの返答に、アリエスは珍しく驚きを顔に出した。
しかし、すぐに険しい表情になる。
「まさか、催眠薬で聞き出したのではないでしょうね?」
「問題あるか?」
「催眠薬は体だけでなく心にも負担をかけると聞いています。今のバウアーさんの状態で催眠薬を飲ませるなど、かなりの負担だったはずです」
「アリエスも似たようなことをしていたじゃないか」
「全く違います」
何の道具もなしに催眠をかけられる者もいるらしいが、たいていは導入に薬物を使うのだ。
ジークが何も言わないということは、やはり薬物を使ったのだろう。
しかし、ジークに悪びれたところはなかった。
「バウアーはそもそも罪人だ。タイザムの横領への関与を知っていながら黙っていた。それに騙されたとはいえ、ヘベノンを継続して使用している。他にも余罪はあるが、まともに聴取できないのだから、薬に頼るのも仕方ないだろう?」
「催眠薬で話すことがすべて事実だとは限りません。本人が事実だと思っていることも、事実として話すのですから。ヘベノンの中毒状態と大した変わりはないはずです」
「昨日はもう、催眠薬を使わなければ話すこともできない状態だったらしいぞ」
思っていた以上に、バウアーの症状は進んでいるらしい。
アリエスは小さく息を吸って、何の感情もない目でジークをまっすぐに見つめた。
「やはりあなたは決める側なんですね」
「何のことだ?」
「いえ、別に……。それで、ヘベノンを飲み始めたきっかけは聞けました?」
「……ああ。アリエスの予想通り、気持ちが落ち着くハーブ茶だと勧められたらしい。気がついたときには、もうやめられなくなっていた、と。それなのに、タイザム卿がヘベノンを隠してしまったから、探さなければならないと言っていたそうだ」
ジークはアリエスの言葉の意味を理解しかねていたようだが、流すことにしたようだった。
アリエスの質問にあっさり答え、質問を返す。
「それで、シャルル・タイザムが飲んで死んだ毒はわかったのか?」
「それは永遠の謎になりそうです。ヘベノンを致死量飲んだとしても、服毒から死亡するまでが早すぎます。手元にヘベノンが残っていたのですから、ジギタリスなどと一緒に飲んだ可能性もありますが……全く違うものかもしれません」
「なるほどな……」
本当に目の前でバウアーの母親が亡くなったのなら、シャルル・タイザムはそれがどれほど苦しむことになるのか知っていたはずだ。
それなのに、そんな死に方を選ぶだろうかと、アリエスは疑問だった。
実際、法務官の前で苦しむそぶりは見せなかったらしい。
「そもそも、シャルル・タイザムがどこでヘベノンを手に入れたかなんだよなあ。他に変な毒が流通していても面倒だろ?」
「それを調べるのは、私の仕事ではありません」
「それもそうだな。ところで、アリエスはどうしてそんなに毒に――薬に詳しいんだ?」
「……女性はたいてい男性より詳しいものです。知っていないと不便なことが多いですから。それに加えて、私は読書が好きですから、本で知ったことばかりです」
「本か……」
ジークは資料室の中をぐるりと見回すと、窓台から立ち上がった。
そのまま真っ直ぐ扉に向かう。
「じゃあ、また何か本で読んだら教えてくれ」
振り返ることなく手をひらひらさせ、ジークは出ていった。
アリエスは扉が静かに閉まると、知らず詰めていた息を大きく吐き出したのだった。




