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番外編:幽霊3

 

 朝早く、アリエスは執務棟の廊下に飾られた絵画を眺めていた。

 使用人棟の廊下は殺風景で窓にガラスさえないが、執務棟にはところどころに絵画が飾られているのだ。

 とはいっても、主棟や貴族たちが利用する両翼棟の装飾品とは違い、政務官が趣味で描いた絵画である。

 その中でも見栄えのいいものが選ばれ飾られていた。


 アリエスが眺めているのは、春の風景を描いたとされている油絵だった。

 油絵にはお金がかかる。

 そのため、貴族の趣味だったり、貴族たちをパトロンとした画家くらいしか描けないのだ。

 一面に黄色い花が咲き誇り、その中で一人の貴婦人が花を摘んでいるその絵は、空を抜ける風まで薄い黄色に染まっている。

 政務官たちの間では気持ちが明るくなると評判だった。


「――好きなのか、その絵?」

「いいえ、まったく。ずいぶん早いんですね」

「同じだよ」


 突然の問いにはっきり答えたアリエスに、ジークもはっきり答えた。

 アリエスは意味を問うように片眉を上げる。


「深夜よりも早朝のほうが、ここは静かだからな。使用人棟は明け方から忙しそうだから、ゆっくりするにはこっちのほうがいい」

「そうですね」

「それで、好きでもない絵を何でそんなに眺めてんだ?」

「気分が悪くなるからです」

「それは何となくわかる」


 自分のことは棚に上げて、アリエスは正気か? という視線をジークに向けた。

 すると、ジークはくっくと笑う。


「二年前に飾られたときにはいい絵だと思ったんだけどな。なぜか今は見ていると落ち着かないんだよ」

「この絵を描いた方はかなり神経質なようですから、それが伝わっているのかもしれませんね。緻密な筆遣いに細かい修正の跡があちらこちらにあります」

「絵に詳しいんだな」

「詳しいというより、本で鑑賞の仕方を学んだだけです」

「へえ……。政務官たちは皆、よくこの絵を見ているんだよなあ」

「……政務官の方は男性ばかりですからね。皆さん、疲れていらっしゃるのでしょう。忙しいとはいっても、今はまだ戦争が始まるわけではありませんし、そんなに急いで仕事をしなくてもいいでしょうに」

「恐ろしいことを言うなよ」


 まるでこの先は戦争が始まるかもしれないとでも言いたげなアリエスの言葉に、ジークは笑いながら突っ込んだ。

 だが、その目は笑っていない。

 無言を貫くアリエスに、ジークはこれ以上その話題については無駄だと悟ったようだ。

 またいつもの調子に戻る。


「政務官たちは横領事件の後始末に追われているからなあ」

「後始末は後始末です。皆も給金がしっかり戻ってくると約束され、処理に遅れることをきちんと謝罪されれば、多少は待ってくれるのではないですか? 急いては事を仕損じる、ですよ」

「珍しく優しいな」

「私の給金はちゃんと戻ってきましたから」

「ちゃっかりしてんな」

「皆さんも、あなたのようにちゃっかり息抜きができればいいのですけどね。いつか、この絵が下ろされることを願っています」


 そう言い残してアリエスは去っていった。

 人が動き始める気配がしたからだろう。

 ジークはアリエスの背を見送り、もう一度油絵を見上げて眉を寄せ、そして踵を返した。


 アリエスが自室に戻ると、フロリスはほっと息を吐いた。

 朝早くからどこに行ったのかと心配していたのだろう。


「すぐに朝食の用意をいたしますね」

「ありがとう、フロリス。いつもより早く目が覚めたから、気分転換に散歩に行っていたの」

「そうだったんですね」


 正確には散歩ではなく、とある記録簿を借りに行っていたのだ。

 服毒自殺が起きたときに、タイザム卿については調べていた。


 タイザム伯爵の嫡子として生まれたが、出産時に母親である伯爵夫人は死亡。

 当人である赤子――シャルル・タイザムも生死の境をさまよい、その後も体は丈夫ではなかったらしい。

 三歳のときに、父親が再婚。翌年には弟が生まれた。

 シャルル・タイザムは成長しても病弱で、十八歳で継嗣の座を弟に譲り、重圧から解放されたおかげか体調も少しずつ快方に向かい、二十一歳のときに政務官になったらしい。

 しかし、今度は政務官の重責のせいか体調を崩しがちになり、その身分から人事局の補佐になったものの実際は休みがちだった。


 ここまでは、アリエスが調べたときのままだ。

 その後に書き加えられていたことには、継嗣の座を失い、執務も休みがちになって職を失うことを恐れて功を焦ったのか横領に加担。

 父親であるタイザム伯爵からは、事件の関与を疑われた時点で即座に勘当され、今後を悲観したシャルルはある本からの言葉を辞世の句のように引用してから毒を飲んだ。――とあったのだが、アリエスは呆れていた。


 アリエスが借りて読んでいるのは、貴族名鑑とはまた違う貴族に関する記録簿であるのだが、あまりにも主観が入りすぎている。

 シャルル・タイザムが伯爵家の嫡子として重圧を感じていたのか、職を失うことに焦っていたのかなど、本人にしかわからないことである。

 供述したわけでもないのに――実際にされていたとしても怪しいが――公式の記録簿としては相応しくはない。

 誰も読まれず資料室に積み重ねられている日誌とは違うのだ。

 だからといって、そのことに改善を求めるつもりはない。

 アリエスの人生には関係ないことである。


(死人に口なし。タイザム卿についてもっと知るには、幽霊の探し物ね……)


 幽霊の正体はまず間違いなく、バウアーだろう。

 昨日、幽霊の話を聞いて倒れたというバウアーはタイザム卿の補佐だった人物だ。

 補佐の補佐というのもおかしな話だが、正式に任命されていたわけではない。

 政務官となったタイザム卿の下で働くうちに、友人としても付き合うようになったらしい。

 その延長でタイザム卿が補佐に任命されてからも、バウアーが多くの仕事を担っていたようだ。


(その状況で横領について知らなかったなんてわけはないわよね……)


 アリエスはフロリスが運んできてくれた朝食を食べながら考えた。

 バウアーはかなり優秀だと噂されている。

 それならば、横領に関与していたとしても証拠書類から自分の痕跡を綺麗に消すことも可能だろう。

 ただ、ここ数か月は体調不良で休みがちだったらしい。


 昨日、ジークには話さなかったが、医務局に寄った一番の目的は、最近重要な薬剤の紛失事件が起きていないかだった。

 バウアーはついでに診察記録を見ただけである。

 今までに何度か、めまい、嘔吐、意識障害などで診療を受けた記録があり、医務官はヘベノンの使用を疑っていた。

 当然バウアーは強く否定し、それ以上の診療を拒んでいるらしい。


「フロリス、今日の午前中は資料室にいるつもりだから、あなたは別の仕事をしてくれるかしら?」

「かしこまりました」


 午前中にはおそらく来客があるだろうと、フロリスを資料室から遠ざけた。

 フロリスはこういうときに手伝うなどと余計なことを言わず、すぐに察してくれるので助かっている。

 アリエスが資料室に入り、とある資料に目を通していると、予定通りの客が訪れた。


「すみません。ある資料を探しているんですが……」

「こんにちは、ヘンリーさん。珍しいですね。どのような資料をお探しですか?」

「ちょっとした記録簿です。ちょうど、あなたの手にあるものですよ」

「まあ、それは偶然ですね。今朝、ここに来たら見慣れない本が置かれていたものだから、気になって目を通していたところでした。見つかってよかったですね」


 アリエスはまったく動揺もせず答えながら、ヘンリーに記録簿を渡したのだった。



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[一言] 絵ですか…なるほど…な、なるほどぉ
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