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68.果実酒

 

「ずいぶんお元気そうですね?」

「そうでもないさ。この間もらった薬のせいか、しばらく微熱が続いていたんだ」

「まあ、そうでしたか。そのような噂は耳にしなかったものですから。体調が悪くても隠さなければならないなんて、お気の毒ですね」

「よく言うよ」


 小さく笑いながら部屋に入ってきたジークは、さり気なくベッドへと目を向けた。

 リクハルドはすっかり眠っている。

 それから長椅子のほうへ視線を向け、ぴたりと足を止めた。


「来客予定だったか?」

「ええ。ちょうどいらしたところですから、一杯いかがですか?」

「あり得ない歓待ぶりだな。今度はどんな薬が入っているんだ?」


 長椅子と一人掛け用の椅子の間にある小さなテーブルの上にはボトルが置かれていた。

 グラスは二客あり、アリエスが一人で飲むつもりはないことがわかる。


「ただの果実酒ですよ。普段あなたがどんなものをお飲みになっているのかわかりませんでしたので、問題ないだろうものにしました」

「媚薬ならいつでも歓迎なんだがな」

「まだお若いのに、そんなものを利用しないとダメなんですか?」

「精力剤じゃねえよ」


 再び笑うジークにアリエスはボトルを差し出した。

 先ほどのアリエスはジークの酒の嗜好ではなく、毒薬について言ったのだ。

 ジークが耐性をつけるためにどんな毒薬を飲んでいるかわからない、と。


「開けてくださる?」

「もちろん」


 新しいボトルを開けさせることで、毒は入っていないと示唆している。

 ただの伯爵令嬢だったはずのアリエスが、結婚している間にどんな経験をしてきたのか、ジークは今まで以上に興味が湧いていた。

 もはやこの気持ちが恋情なのか憐憫なのか、好奇心なのかさえわからない。

 ジークはグラスに酒を注ぐと、長椅子に腰を下ろしたアリエスに差し出した。


「ありがとうございます」

「いいのか? 殿下が起きたら驚くだろう?」

「……殿下が目覚める兆候はわかりますし、突然目を開けられたとしても、それは寝ぼけているようなものですから」

「なるほど」


 そう答えると、ジークはもう何も言わず、酒をしっかり味わうように飲み始めた。

 アリエスが飲む前に口をつけるなど無用心だが、匂いや舌触りを確かめてもいるようだった。

 しばらく沈黙が続いたが、ようやくジークが口を開く。


「見事だったよ。無味無臭、痺れや発疹が出ることもなく、すぐに症状が出るわけでもない。子どもの頃から様々な毒を飲んで耐性をつけているはずの俺でも熱が出たんだ。毒を飲んだなんて普通なら気付かないだろうな」

「調合しだいで即効性にすることも可能ですよ」

「本当に恐ろしいな。それに、ポルドロフ王家の秘伝をよく知ることができたな」

「偶然見つけたんです。ハリストフ伯爵家の図書室で」

「そういや、性悪の王女様が降嫁したんだったか? それにしても扱いが雑だろ?」

「以前お話しましたが、ハリストフ伯爵家に降嫁した王女様の持参金には毒薬も含まれていたようです。どうやらそれは王女様が勝手に持ち出したものでもあるようですが……。先々代のハリストフ伯爵の経営手腕は運を味方につけていたことも大きかったそうですよ。政敵などが次々とお亡くなりになったのですから。ですがその強運は次代には引き継がれなかった。さらに現伯爵は運に見放されているようですね」


 そこまで話して喉が渇いたのか、アリエスはグラスを一気に仰いだ。

 その様子を何か言いたげに見ていたジークだが、結局は何も言わなかった。

 伝え聞いた話では、現ハリストフ伯爵は病で床に臥せっているらしい。


「お願いが三つあります」

「三つ? それではかなりの対価を期待していいのか?」

「それなりですね」

「それじゃ、先に一つ目の願いを聞こうか」


 椅子の背にもたれて、ジークは促した。

 アリエスはグラスを置いて答える。


「アリーチェ様を――カスペル侯爵令嬢を殿下の侍女として認めてください」

「おいおい、それはずいぶんな願いだな」

「ご心配なさらなくても、推薦状はこちらで用意いたします」

「そういう問題じゃねえよ」

「確かにアリーチェ様は少々残念です。殿下付きという立場に必要な責任感、思慮深さはありません」

「ダメじゃねえか」

「ですが、殿下のお立場はよく理解なさっているでしょうし、同じレベルで――いえ、同じ目線で接してくださると思います」

「言い直しても同じことだぞ」

「何より、テブラン公爵派に、あの傲慢さで対抗でき得る唯一の女性です」

「不安しかねえよ」


 アリエスの説得に突っ込むのも疲れたのか、ジークはふうっと大きく息を吐き出した。

 それから自分で再びグラスを満たす。


「また憶測を呼ぶぞ」

「アリーチェ様のことですから、ご本人はお気になさらないでしょう」

「ロレンゾのこともあるんだぞ?」

「陛下にはテブラン公爵に対抗し得る駒がカスペル侯爵家しかない。――って、面白いじゃないですか」

「面白くねえよ」


 未婚の王子の傍に未婚の女性を置くことがどういう意味になるのか、アリエスもよくわかっていた。

 今回の場合、リクハルドとアリーチェの年齢が離れすぎているため、王妃を亡くして独身である国王との仲を邪推される。

 しかもアリーチェとはつい最近、話題になったばかりの因縁の仲なのだ。


「で、その対価は?」

「お引き受けくださると判断していいんですね?」

「まあ、それくらいならな。それで、もうそろそろ証拠は掴んだのか?」


 その言葉に首を傾げ、アリエスもまた自分でグラスを満たした。

 ジークはその動きをじっと見つめながらグラスを口へと運ぶ。


「正直なところ、証拠はまだありません」

「まだかよ……」

「公爵家については、とある人物にお願いして色々と調べてもらってはいます」

「その人物は大丈夫なのか?」

「わかりません。それなりに信用はできても、なにせ素人なので。もちろん彼も危険は承知の上です。どうやら弟さんのことで公爵家には恨みがあるようですよ。それに、表立ってのやり取りはダフト卿にお願いしております」


 無情なアリエスの言葉にもジークは何も言わなかった。

 政治の駆け引きに命の駆け引きは当然なのだ。

 為政者として、いったい何人が自分のために死んでくれるか、それが大切なことだった。


「それに本音を言えば、証拠はいらないと思っているんです」

「なぜだ?」

「どうしようもないからです。おそらく明後日の建国記念のパーティーで、公爵はご令嬢の――メルシア様の婚約を発表するでしょう」

「国王はまだ許可していないぞ」

「今の陛下に、テブラン公爵の暴挙を止めるだけの力はないのですから、仕方ないのではないですか?」

「相変わらず痛いところを突いてくるな」


 わざとらしく胸を押さえるジークを無視して、アリエスは果実酒を一口飲んだ。

 ジークは降参とでもいうように両手を上げる。


「それじゃあ、国王は一体何をすればいいんだ?」

「わざわざ訊かなくても、もうすでに準備は整えているのでしょう? 婚約祝いの贈り物までご用意されているのですから。公爵より先に発表されるおつもりなのだと思いましたが?」

「ほんと……この王宮の警備はどうなっているんだよ……」

「甘い箇所は多々ありますが、少なくとも殿下の近衛騎士たちの顔ぶれが変わったことでは安心しております。殿下がお部屋から抜け出されたとき、いつも担当だった騎士の顔を見ませんもの」

「ああ、もう。怖えよ、お前。何なの?」

「ありがとうございます」

「褒めてねえよ」


 淡々と答えるアリエスだったが、その表情はわずかに嬉しそうだ。

 いつも無表情なアリエスの感情が少しだが読めるようになってきたことに、ジークもまた嬉しかった。


「それで結局、証拠がいらないっていうのはどういうことだ? 馬鹿な俺にもわかるように説明してくれ」

「そうですね」

「否定しろ」

「先ほども申しましたでしょう? テブラン公爵令嬢とポルドロフ王国王太子の婚約が発表される、と」

「……要するに、王妃に毒を盛った犯人は国外へ――ポルドロフ王国へ行ってしまうってことか?」

「その通りです。前宰相様が疑っておられたように、王妃様に毒を盛ったのはテブラン公爵令嬢――メルシア様ですから」




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