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66.愛人

 

「アリエス様、お久しぶりです!」

「ダメよ、ユッタ。そんなに大きな声で呼ばれては、この先はもう二度と会えなくなってしまうわ」

「す、すみません。嬉しくてつい……」

「気をつけてくれればいいのよ。私がこの姿のときはね」


 ヘンリーの部屋へと邪魔をしてから数日経ったこの日も、アリエスはメイド姿で使用人棟へとやってきていた。

 リクハルドは勉強の時間で、今日は用事があるので一緒に授業を受けられないと伝えていた。

 というのも何か面白そうなことが使用人棟で起きているようだと感じたからだ。


 そんなアリエスを、ユッタが目敏く見つけて声をかけてきた。

 だがその呼び声に苛立ち、ついきつく当たってしまった。

 リクハルドの筆頭女官となってから、ユッタとはあまり会えなくなったので、この時間は大切にしなければならない。

 ユッタは貴重な情報源なのだ。


「アリエス様、今から食堂に行きませんか? 私、今日は早番でもう昼食をとる時間なんです」

「そうね。久しぶりにこちらの食堂に行くのも楽しいわね」


 食堂ならサボっていると勘違いされず、堂々とユッタと話もできるのでその提案に乗った。

 とはいえ、それほどお腹は空いていない。

 それでも軽いものを選び、休憩中のふりをする。


 筆頭女官になってから専属メイドが二人になり、他の女官たちもいるため時間的余裕はできた。

 しかしリクハルドがアリエスと離れるのを嫌がるので、趣味(覗き見)の時間が大幅に減ったことが痛手だった。


(誰かもう一人、信頼できる女官がいればいいのだけれど……)


 女官でなくとも侍女でもいい。

 しっかりした身分と愛情と責任感と思慮深さがあれば、若い令嬢でもいいのだ。

 しかもテブラン公爵のメルシア嬢の影響力がない令嬢でなければならない。

 だが今の状況ではあっという間にメルシア嬢に取り込まれてしまうだろう。

 彼女の影響を受けない人物といえば……。


「アリーチェ様はあり得ないわね……」


 思わず口に出してしまって、アリエスははっとした。

 目の前に座るユッタが首を傾げ、それから頷く。


「そうですよね。アリーチェ様は基本的にご自分以外にはご興味がありませんものね」

「ええ。アリーチェ様は無邪気な方だから」


 そう答えて、アリエスは考え事をしながらも耳に入れていたユッタの話に集中する。

 今朝から使用人たちの間で話題になっている出来事。

 ユッタは話し始めたものの前置きが長く、ようやくカスペル侯爵家の名前が出てきたところだった。

 それでつられて、アリエスも侍女にアリーチェをと一瞬考えてしまったのだ。


「今のカスペル侯爵様はとても高潔な方なんだから、どうしてロイヤさんはそちらに相談されなかったんですかねえ」

「関係があったのは先代侯爵で、ロレンゾさんとは面識がある程度だったでしょうから、難しかったのではないかしら?」


 ユッタのもったいぶった言い方にも、アリエスは落ち着いてそれらしく返事をした。

 すると、ユッタがついに衝撃の内容を口にする。


「だって、まさかロイヤさんが妊娠されてたなんて……」


 その言葉を聞いた瞬間、アリエスは動きを止めたが、すぐに何事もなかったように食事を口に運んだ。

 こんな面白い話を本気で聞いていなかったなんてもったいない。

 黙ったままのアリエスの頭は一気に動き出し、計算を始めた。

 ユッタはアリエスがあまり話さないのはいつものことなので、気にせず話を続ける。


「しかも産まれたのは男の子だっていうじゃないですか。まあ、どちらにしろ庶子だからお家騒動なんてことにはならないですけど、赤ちゃんが気の毒だなってみんな言ってるんですよ」

「……みんなって、使用人のみんな?」

「はい。朝聞いたばかりなので今はまだ女性陣だけですけど、こんな醜聞ですからすぐに王宮内に広まると思います」

「でしょうね」


 ユッタの話ではロイヤは移送中に体調を崩し、監視付きでとある町に留まっていたそうだ。

 それが実は妊娠していたらしく、先代カスペル侯爵に助けを求める手紙を密かに送ったものの返事はなかったらしい。

 というのが、出産時に呼ばれた産婆の手伝いが王宮にも出入りしている女性だったため、今朝から話が広がり始めたのだ。

 産み月から考えると、あの密会――横領発覚時にはすでに妊娠していたのだろう。


(まあ、目立たない人もいるし、産まれるまで気付かないっていう人もいるから驚きはしないけど……)


 あの頃のロイヤの姿をアリエスは思い出していた。

 女官の制服は年配の女性にも配慮しているのか、比較的ゆったりした仕立てになっている。


「……どうやら父親は先代侯爵様で間違いないそうですよ」

「そうなの?」

「はい。赤ちゃんはお兄様にそっくりだそうです。金色の髪で、新生児なのに目鼻立ちもぱっちりしていて……瞳の色は青色なんでこれから変わるかもしれませんが、かなりの男前になるだろうって」

「まあ……」


 先代カスペル侯爵がせめて認知すれば、産まれた赤ん坊にはそれなりの未来が待っているのになどと話すユッタの言葉を聞きながら、アリエスは密かに興奮していた。

 上手く事が運べば、以前から計画していたことが簡単に成し遂げられる。

 アリエスにとって彼女は幸運の女神なのかもしれない。


 まだ話し続けるユッタの言葉に耳を傾けながら、これからのことを考えていると、耳障りな鳴き声が聞こえてきた。

 どうやら食堂のすぐ外でカラスが鳴いているようだ。


「うるさいですよね! 最近、カラスがこの辺によく現れてうるさく鳴くんです。なんだか不吉じゃありません? それで男性たちが追い払おうとしても全然ダメなんですよ」

「……カラスはとても頭がいいそうよ。人間の言葉を理解しているのか、悪口を言っている人に仕返しをしたりするらしいわ」

「え……」


 驚きぴたりと口を閉じたユッタが素直で可愛い。

 それからユッタと別れたアリエスは急いでリクハルドの許に戻りながら、再びあれこれと考えを巡らしていた。

 この話は噂として伝わるよりも早くロレンゾに伝えたほうがいいだろう。

 フロリスに似せた姿で自室へと戻り、彼女に声をかける。


「ありがとう、フロリス。ここはもういいから、通常の仕事に戻ってくれる?」

「かしこまりました。……何か嬉しいことでもあったのですか?」

「わかる?」

「はい。何となく、アリエス様が微笑んでいらっしゃるように見えたものですから」

「そうね。心の底から大笑いしたいくらいなの」

「それはようございましたね」


 表情にほとんど変化のないアリエスだが、フロリスは敏感に察知する。

 しかも出しゃばらず、機転が利くだけでなく、アリエスを心から慕ってくれているらしい。

 アリエスにとってはフロリスとの出会いも幸運だった。

 できるだけ恩は格安で売っておくべきである。


(そういえば、ロイヤさんが産んだ子ってフロリスの甥にもなるのよね……)


 フロリス自身は自分の出生の秘密を知らなくても、大恩があると思っている先々代カスペル侯爵の孫になる赤ん坊のことを知れば放ってはおかないだろう。

 潤沢な財産のあるフロリスなら、その子を引き取って育てるとまで言い出しかねない。

 それでは先ほど立てたばかりの計画が狂ってしまうので、急ぎアリエスはフロリスの部屋に顔を出した。


「ごめんなさい、フロリス。仕事に戻る前に少し話をしていいかしら?」

「はい、何でしょうか?」


 ちょうどメイド服に着替え終わったフロリスに声をかけ、部屋に入ると近くにあった椅子に座った。

 フロリスは立ったままだったので、向かいに座るよう促す。

 使用人として遠慮しつつもフロリスが腰を下ろすと、アリエスは赤ん坊について話し始めたのだった。




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