56.人事異動
マニエル夫人からのメモは『上手く事を運ぶことができており、あとは許可待ち』とだけあった。
アリエスは資料室の整理の仕方をもう一度フロリスに伝え、この一年ほどでずいぶん綺麗になったことに満足を覚えた。
そこに激しい足音が聞こえ、フロリスに隠れるように言う。
別にフロリスがいてもいいのだが、女官長には会いたくないだろうと思ったのだ。
フロリスは感謝しながら書架の奥へと姿を消した。
「クローヤル女史、あなたの新しい仕事が決まりました」
「女官長、ここは確かに皆が自由に使える資料室ではありますが、ノックをしてくださってもよいかと思いますが?」
「あなたに礼儀がどうのこうのと言われる筋合いはありません。聞いていましたか? ここはこれからあなたの職場ではなくなるのです」
「ですが、まだ資料整理は終わっておりませんが……」
驚いた様子でアリエスが答えると、女官長はしてやったりといった表情になった。
人のことは言えないが、本当に意地悪だなと思う。
だが最近はそんな女官長に、アリエスは好感を抱き始めていた。
もちろん女官長にすればいい迷惑だろう。
「あなたには、今から王子殿下の筆頭女官として働いてもらいます」
「ひ、筆頭女官ですか?」
我ながらうまく驚いてみせたなとアリエスは内心で自画自賛した。
女官長の後ろでマニエル夫人は笑いを堪えているように唇を噛んでいる。
「ですが、私は子育て経験もありませんし、きちんとした教育も受けておりません。殿下付きの女官の一人ならともかく、筆頭女官などとそんな大それたお役目は私には……」
「あら、いつもあんなに偉そうなことを言っているのに、できないの? ムランド伯爵夫人にもずいぶんな言い様だったじゃない。それなのにできないと言うの?」
「できないとは言っておりません。ただ驚いただけです」
得意げな女官長にムッとしてアリエスが言い返す。――ように見えるが全て演技である。
「王子殿下の筆頭女官という大役、陛下に私を推薦してくださった女官長のためにも、精いっぱい務めさせていただきます」
アリエスが深く頭を下げると、女官長のごくりと唾を飲み込む音が聞こえた。
女官長はマニエル夫人に乗せられて嫌がらせのためにアリエスを筆頭女官に推薦したのだろうが、今になってその意味を理解したらしい。
アリエスが失敗すれば、また女官長の責任にもなるのだ。
「そ、そう。それなら頑張りなさい。さ、今から行くわよ」
「かしこまりました」
女官長はびしっと背筋を伸ばすと、アリエスを待たずに踵を返した。
その後ろに肩を小さく震わせながら、マニエル夫人が続く。
アリエスは書架の間からそっと顔を覗かせているフロリスに頷いて、資料室から出ていった。
リクハルドの部屋がある棟は王族の居住区でもあるので、本来はとても警備が厳しい。
それなのにリクハルドはアリエスが知っているだけで三回も抜け出しているのだから、できるだけ早く抜け道を確認しようと決めた。
そして先ほども来たばかりのリクハルドの部屋の前に立った途端、中から叫び声が聞こえてくる。
それは小さなもので誰かに口を塞がれたのかすぐに聞き取れなくなってしまったが、アリエスは確信して扉をノックもなしに開けた。
「何を――!?」
「アリエス!」
「魔法の呪文の効果はありましたか?」
驚くムランド夫人を無視して、アリエスは苦痛から喜びに顔を輝かせるリクハルドに声をかけた。
落ち着いて見えるアリエスだったが、内心では自分の見通しの甘さとムランド夫人への怒りで冷静さを失いそうだった。
「クローヤル女史、あなた――っ!? ムランド夫人、あなたは王子殿下に何をしようとしているのですか!?」
「こ、これは……」
後から入ってきた女官長はアリエスを叱りかけ、目の前の光景にぎょっとした。
殿下はテーブルに手をつき、ズボンを下ろして薄い肌着だけで立たされている。
その背後に鞭を持ってムランド夫人が立っているのだから、言い訳などできるわけがなかった。
子供の躾に鞭を使うことはあっても、薄い肌着越しに打つなどかなりの罰であり、普通はあり得ない。
しかも相手は将来の国王となるべき王子殿下なのだ。
アリエスは急ぎリクハルドの傍に膝をつき、まだ新しく打たれていないことを確認してズボンをはかせた。
弟妹の世話でこのくらいは慣れているが、鞭で打たれた子供の相手は初めてである。
傷痕を見るのと直接目にするのとはまったく違う。
怒りのあまり頭に血が上っていることを自覚して、アリエスは何度も深呼吸を繰り返した。
「殿下……」
「アリエス!」
両手を広げればリクハルドは飛びついてくる。
その体は小さく震えており、アリエスをぎゅっと強く抱きしめた。
アリエスもまた強く抱きしめすぎないように気をつけながら、優しくその腕に抱いたまま立ち上がった。
アリエスに子供はいないが子育て経験はある。
それが成功したとは今の弟妹たちを見ると言えないが、少なくともムランド夫人よりは適任だと思えた。
「殿下、おつらいかとは思いますが、なぜムランド夫人は鞭を持たれたのかお聞かせいただけますか?」
「……ゲニーは、ぼくがわるい子だからだって。ぼくがゲニーに、めのまえからきえてしまえ、って言ったから……」
「まあ……」
その言葉をリクハルドに言わせたのはアリエスのせいでもある。
大失敗にアリエスは内省しつつ、ムランド夫人に向き直った。
ムランド夫人は女官長とマニエル夫人にも冷ややかに見つめられ、真っ青になっている。
「確かに殿下のお言葉は相手を傷つけるものではありますが、鞭を振るうほどのことではありませんでしょう?」
「で、ですが、殿下は今までもずっと……あなただって知っているでしょう? 先ほどだって私たちの目を盗んで抜け出したのですよ? 何度申し上げてもお聞きにならないのですもの。いくら殿下といえども、悪い子にはお仕置きが必要です!」
自分を弁護していて熱が入ってきたのか、ムランド夫人はリクハルドを叱るような口調になっていた。
それにまたリクハルドは怯える。
そんなリクハルドを気遣い、アリエスが何も言わずにいると、意外にも女官長がムランド夫人に厳しく言い渡した。
「弁解はけっこうです。陛下からお預かりしている大切な王子殿下をこのように怯えさせてしまうなど教育係としてもっての外! ムランド夫人は殿下の大叔母に当たる方ですから、亡くなった王妃様の代わりに母君のように接してくれるかと期待しましたが、私の完全な人選ミスでした。陛下のお言葉を受けて体制を見直した結果、ムランド夫人には殿下から離れていただきます」
「そんな……」
「これからリクハルド王子殿下の筆頭女官には、クローヤル女史が就くことになりました」
「やっぱりあなたね……あなたが殿下を誑かして女官長にまで取り入って――」
「黙りなさい!」
筆頭女官がアリエスに決まったと聞いたムランド夫人は責め立て始めたが、女官長が一喝して黙らせた。
テブラン公爵の妹でもあるムランド夫人にここまで強く言えるなど、女官長らしくない。
おそらく何らかの力が動いたのだろう。
ムランド夫人は女官長にきつく諫められ、ぽかんとしている。
「本来ならムランド夫人の乱暴な振る舞いを止めるべきあなたたちも殿下のお傍から離れさせるべきでしょう。ですが急なことでしたし、多くの異動は混乱を招きますからね。このまま殿下のお傍でお仕えすることを許します。ですが、クローヤル女史の指示にしっかり従うのですよ」
「かしこまりました」
やられた。
女官長たちが他の王子付きの女官に命じたことを要約すると、これから女官たちに何か問題があればアリエスの責任になるということだ。
女官長もなかなかただでは引かないなと思い、アリエスは密かに感心していた。




