55.メモ
「殿下! どれだけお捜ししたか! このゲニーを心配させないでくださいとどれだけ言えば――」
「まずは殿下にお怪我がないか、ご無事を確認するのが先ではないですか? あなたがどれだけ心配しようと勝手ですが、それならなぜ殿下から目を離されるのです? 好奇心旺盛な男の子が外に出てしまうことはよくあることでしょう?」
リクハルドの部屋がある王族専用の棟へ入った途端、女官たちが駆け寄り、部屋に戻ればムランド伯爵夫人ががなりたてた。
今回は近衛騎士に捜索を依頼していなかったようである。
それで殿下の手を引くアリエスを騎士たちは不審者として呼び止めることもなく、この部屋までスムーズに戻ることができたのだろう。
王子を再び見失ったなど大失態であり、ムランド夫人の処分は免れないため内密に捜していたらしい。
「あ、あなたね! あなたが――クローヤル女史が殿下を誘拐したのよ!」
「まあ、それは大変。私のようなただの女官が殿下を連れ出すことができるなんて、皆様は何をされていたのかしら? 近衛騎士にも責任を問わなければなりませんね」
「こ、今回のことは不問に処すわ。だけど覚えておくことね! このままではすまさないわよ!」
「かしこまりました。よおく覚えておきますわ」
アリエスはいきり立つムランド夫人にも淡々と答えると、屈み込んで強く手を握ったままのリクハルドに再び視線を合わせた。
そしてその手を優しく包む。
「殿下、お一人で怖かったでしょう? ですがもう大丈夫ですからね。痛い思いをされることもございません」
アリエスは慰めるように言いながらちらりとムランド夫人を睨むように見て、またリクハルドに視線を戻した。
リクハルドは小さく震えていたが、力強く頷いて手を離す。
まるで弱味を見せないようにしているようだ。
「それでは私はこれで失礼いたします」
「ありがとう、アリエス」
中腰のまま後ろに下がり、それから辞去の礼をしたアリエスに、リクハルドははっきりした声で答えた。
小さな体でまっすぐ立つその姿は立派な王子である。
まだたったの四歳なのに、とアリエスはらしくもなくリクハルドに同情した。
はじめはムランド夫人に嫌がらせするだけのつもりだったが、今はテブラン公爵の野望の邪魔をする楽しみも見つけたのだ。
それにリクハルドを少しでも救うことができるのだから、この遊びは本気で取りかかろう。
アリエスは中庭に置いたままの本を取りに戻りながら、次の手を考えていた。
その後、資料室に戻ったアリエスは、新たなメモを書いてフロリスに託した。
この時間なら女官長補佐のマニエル夫人は部屋で一人作業をしているはずだ。
フロリスを送り出したアリエスは、再び老侯の日記を開いた。
すると、しばらくして扉が開き、誰かが入ってくる。
「お、差し入れは全部食ったのか?」
「ええ、アリーチェさんが美味しいとおっしゃっていましたよ」
「アリエスの感想は?」
「……甘いものはあまり好きではないのですが、美味しかったですよ」
「無理するなよ。あと、苦手なら先に言えよ」
「苦手ではありません。ただ食べようとは思わないだけです」
ジークは不満そうに言いながらも顔は笑っていた。
そして勝手知ったる様子で、冷めたお茶をカップに注ぐ。
「今、王宮中がすごい噂でもちきりだが、真偽を知っているか?」
「さあ、何のことでしょう?」
「テブラン公爵令嬢とポルドロフの王太子の縁談のことだよ。だが、王太子にはかなり問題があって公爵令嬢が気の毒だってさ」
「まあ、それはそれは。またメイドから詳しく聞いておきますわ」
アリエスが白々しく答えると、ジークはにやりとしてお茶を一口飲んだ。
さすがアリーチェは仕事が早かった。
朝から王宮内はどことなくざわついていて、アリエスがのんびり別の遊びをしている間も噂は飛び交っていたのだ。
おそらくムランド夫人や他の王子付き女官たちもその噂に気を取られ、王子が抜け出したことに気付かなかったのだろう。
「そういや、先ほど殿下を誘拐したらしいな」
「どなたからの情報かは知りませんが、正確には誘拐ではなく、誘惑したのです」
「おいおい、何の冗談だ?」
「本気ですわ。はじめは新しい筆頭女官にマルケス夫人を推そうかと考えていたのですけどね」
「いや、マジで冗談はやめてくれ」
「ええ、やめました。彼女はどうやらテブラン公爵と手を組んでいらっしゃるようですので、つまらないでしょう?」
「……よくわかったな」
とぼけた調子で答えていたジークは、テブラン公爵と聞いて真剣な表情になった。
やはりジークたちもその情報は摑んでいるらしい。
アリエスはなぜかジークを驚かせたくなった。
「ですから、私が筆頭女官になろうかと思いまして、殿下を誘惑しましたの。陛下にもその旨の上申書がそろそろ届くはずですわ」
ジークは期待通り驚いたらしく、一瞬目を見開いた。
だがすぐにいつもの余裕ある表情に戻る。
「……この資料室はどうするんだ?」
「子供の成長はあっという間です。情緒やその他諸々が安定されるまでの間、お世話させていただければと思っております」
将来の王としての教育は別の者に任せればいい。
リクハルドは普通の子供よりも子供でいられる時間は短いのだから、ほんの少しだけアリエスは手を貸そうと思っていた。
また、アリエスの言う諸々の意味はジークも理解しているはずだ。
「なあ、いっそのこと俺と結婚しないか?」
「お断りいたします」
「少しくらいは考えろよ」
ジークは堪えた様子もなく小さく笑う。
そこでアリエスは少し考えるように首を傾げた。
「私の一番の望みは自由です。それを捨てるメリットがない限りはあり得ませんね」
「生活は保障するぞ」
「自分のことは自分で保障しますから必要ありません」
「では、愛に満ちあふれた家庭というのはどうだ?」
「欺瞞に満ちあふれた家族ごっこはけっこうです」
「そうか、残念だな」
そう言って、ジークは立ち上がった。
何が残念なのかわからないが、アリエスもまた残念な気がして不思議な気持ちになる。
「さて、では仕事が溜まってそうなんで帰るよ」
「優先順位をつけてお仕事なさってくださいね」
「わかってるよ」
ジークは手をひらひら振りながら資料室を出て行った。
それからすぐに小さな足音が聞こえる。
これはフロリスのものだろう。
ジークもこの足音が聞こえたはずで、それで早々に帰ったに違いない。
アリエスは椅子に座り、再び日記を開こうとして手を止めた。
何だか胸がもやもやする。
だがそれは、フロリスが女官長補佐のマニエル夫人からメモで返事を持って帰ってきたことで忘れることができた。




