54.魔法
アリーチェに託されたロレンゾからの包みは、先々代カスペル侯爵の日記だった。
しかも日付はアリエスが望んでいた頃――ムランド伯爵が結婚した頃のものだったのだ。
おそらくアリーチェからメルシアの縁談の話を聞いたロレンゾが気を利かせてくれたのだろう。
アリエスはロレンゾに感謝しながら、日記を開いた。
「――アリエス様、そろそろお部屋に戻りませんと……」
「まあ、もうこんな時間なのね。ありがとう、フロリス」
フロリスに声をかけられて顔を上げると、外はかなり暗くなってきていた。
一度部屋に戻らなければユッタが心配するだろう。
アリエスはカーテンをきちんと閉めてから、日記数冊をフロリスと手分けして持ち、自室へと向かった。
日記は一見してそれとわからない装丁でありながら、中身を見ればまるで誰かに当時の出来事を伝えるような内容だった。
おそらく老侯は読まれることも想定していたようだ。
(子供の頃の日記はどうかわからないけれど、ここ十数年は政情についてかなり詳しく書かれているものね。老侯の日記に目をつけ、さらにそれを手に入れることができる者へのご褒美ってところかしら?)
老侯はそれが孫息子であることを想定して書いた節もみられるが、それもまだ先のことだったろう。
部屋に戻ってからも食事もそこそこに日記を読み続けたアリエスは、ふうっと息を吐いてぱたりと日記を閉じた。
アリエスの好奇心をこれほどに満たしてくれたお礼に老侯には恩返しをしたい。
そのためには老侯が懸念していたこと――テブラン公爵の野望を打ち砕くべきだろう。
(まあ、野望と言うのは大げさすぎるかしら?)
老侯が予想していたのは、テブラン公爵が王子の後見人として権力を手にすること。
それならいっそのこと王家を乗っ取ってテブラン王朝でも開いてしまえばいいのにと思い、アリエスは鼻を鳴らした。
(権力を手にするにもポルドロフ王国の後ろ盾を得てからなんて、慎重というよりただの腰抜けね。夢は大きく、野望は高く掲げなきゃ)
他国を――他人の力を利用すれば、また利用されることも当然である。
この国がどうなろうと知ったことではないが、アリエスの安息の地を奪われるのは許せない。
今のところ、この王宮を気に入っているのだ。
(四年かけて公爵たちが立てた計画の一つを潰してしまったら、次はどうするかしら?)
そのときのことを想像したアリエスは口角をわずかに上げ、枕元の明かりを消した。
明日からさっそく実行に移そうと心に決めて――。
翌朝はマニエル夫人にメモを書き、フロリスにこっそり渡してくれるように託した。
それから薬草の本を持ってざわつく王宮内を歩き、例の中庭に向かう。
目的の場所にベンチはなかったが、ちょうどいい大木があったのでその根元に腰を下ろした。
この場所なら大きな枝が日差しから守ってくれるうえに、とある窓からはよく見える。
一種の賭けではあったが、ちょろくも――運よくも目的の人物は釣られてくれた。
「……何をしているの?」
「毒入りスープの作り方を学んでいるのです」
「ど、どくいりスープ?」
「ええ、嫌いな人を目の前から消してしまう魔法のスープですわ、殿下」
アリエスがそう答えると、リクハルドは目を輝かせた。
だが、続いた言葉にがっかりする。
「ですがこれは魔法ですからね。とても難しくて殿下にはまだ作ることはできませんよ」
「……じゃあ、嫌いな人に消えてもらうのはどうしたらいいの?」
「そうですね……」
アリエスは考えるふりをして両手を差し出した。
リクハルドは何のことかわからないように首を傾げる。
「殿下、手のひらを見せていただけませんか?」
「あ、うん……」
以前のことを思い出したのか、リクハルドはおそるおそる手を差し出してアリエスの手に乗せた。
アリエスはその手のひらを見つめ、傷が治ってうっすらとした痕だけになっていることにほっとした。
しかしリクハルドの様子からまだ解決していないことを悟る。
「殿下、よろしければここにお座りになりませんか?」
「そこに?」
「はい。お召し物は少し汚れるかもしれませんが、後ほど手で払えばすぐに綺麗になりますよ」
「わ、わかった」
先日は雨に濡れ泥に汚れながら生垣の隅でうずくまって泣いていたのに、今は直接地面に座ることをためらっている。
リクハルドはそれだけあのとき必死だったのだろうと気の毒に思った。
「今日はとても素敵な陽気ですからね。殿下もお散歩にいらっしゃったのですか?」
「おさんぽ? それは何?」
「こうしてお外に出て綺麗なお花を見たりしながら歩くことですよ」
「それは……したことがない。ぼくが外に出るのは剣のけいこのときだけだよ」
「それとこうして黙って抜け出すときだけですね?」
「ち、ちが……わない」
「やはりまた黙って抜け出されたのですね?」
「う、うん……」
少しくつろいでいたように見えたリクハルドが今はぷるぷる震えている。
これは怒られることに酷く怯えているのだ。
結論を出したアリエスは、リクハルドの手を握った。
「殿下、もうそろそろお戻りしましょう。皆が心配しますから」
「だ、だけど……」
「大丈夫ですよ。この魔女も一緒にお部屋まで行ってさし上げますからね」
「本当に?」
「はい」
リクハルドはほっとした様子でアリエスの手を握った。
立ち上がるのを手伝い、アリエスはリクハルドのそれほど汚れていないお尻を軽く払う。
途端にリクハルドはびくりとして、目に涙を滲ませた。
「……殿下、まさか罰としてお尻を鞭で叩かれているのですか?」
今度は声に出さず、リクハルドはこくんと頷いた。
ムランド伯爵夫人は手のひらでは人目につくからと、見えないお尻に鞭を振るうことにしたらしい。
その卑劣さと残酷さにアリエスは本気で怒りの炎を燃やした。
「殿下、秘密の話を教えてあげますね?」
「ひみつ?」
「はい。実は殿下は魔法使いなのですよ?」
「まさか! ぼくにまほうは使えないよ!」
「そうですね。魔法を使うにはとても大変な勉強が必要ですからね。勉強をせずに魔法だけ使っては身を滅ぼしてしまいます」
「みをほろぼす?」
「死んでしまうということです」
「そんな……」
「ですから、簡単に魔法を使ってはいけないのです。ただ殿下には魔法を使うことができるということを覚えておいてください。たくさん勉強すればとても大きな魔法も使えますよ。たくさんの人が幸せになれる魔法です」
「ぼく、いっぱい勉強する!」
澄んだ瞳を再びきらきらと輝かせ、リクハルドは力強く答えた。
アリエスは励ますように頷くと、屈んでリクハルドと目線を合わせる。
「それでは、殿下が今お使いになれる魔法の呪文をお教えいたしましょう」
「うん!」
「もし鞭を振るわれそうになったり、痛い思いをされそうだとお思いになったら、大きな声で『助けて』と叫ばれるのです」
「……それだけ?」
「はい。簡単でございましょう?」
「だけど……ぼくのような立場のものは助けなんて呼んじゃいけないって、ゲニーが……」
「それはムランド夫人が魔法をご存じないからですわ。殿下が大きな声で『助けて』と叫ばれると、たちまち魔法が発動します。どうぞこの魔女を信じてください」
「……わかった」
アリエスの言葉に半信半疑だったリクハルドだが、〝魔女〟のことは信じることにしたようだ。
心を決めたように頷き、アリエスの手をぎゅっと強く握った。




