51.女官長補佐
「クローヤル女史? 相談があると伺ったのだけれど、いったい何かしら?」
警戒しながら資料室に入ってきたのは、女官長補佐のマニエル夫人だった。
女官長が今日は所用で外出すると知っていたので、アリエスはフロリスを通じて呼び出したのだ。
この資料室はよく密会に使われるように、出入りをあまり人に見られない。
そのためマニエル夫人も受けてくれたのだろう。
「どうぞおかけになってくれませんか、マニエル夫人? 今日は温かいお茶を用意しましたの」
「……ありがとう」
温かいお茶など当然だろうという顔で、マニエル夫人は勧めた椅子に腰をかけた。
ジークならきっと大げさに感激するだろう。
どうでもいいことを思い出してイラっとしながらも、アリエスはいつもと表情を変えず、マニエル夫人の向かいに腰を下ろした。
「単刀直入に伺いますが、マニエル夫人はなぜ女官長補佐になられたのですか?」
「……え?」
「私が伺った話では、現女官長のヨハンナ夫人が女官長になられるとき、補佐に誰がなるかでロイヤさんと争われたとのことでしたが事実なのでしょうか?」
以前のアリエスはその噂の真偽を確かめようとは思わなかったのだが、実際にマニエル夫人を見ていると真実には思えなかった。
マニエル夫人は率直なアリエスの問いに驚いたらしい。
一瞬呆気に取られたようだったが、すぐに表情を引き締めた。
「……あなたが率直に訊いてくれたから私も率直に話すけれど、その噂は半分は本当、半分は嘘ってところかしらね」
「では、本当の部分と嘘の部分を教えてください」
まどろっこしいことは言わず、さらに率直に訪ねれば、マニエル夫人はふふふと笑う。
どうやら気分は害していないようだ。
「本当の部分は私が女官長補佐になるのだと私自身思っていたことよ。嘘の部分はロイヤと争ったというところ。争うも何も、気がつけば彼女がすでに補佐の座に就いていたんだもの。びっくりよ」
「私はこの王宮に職を得て……というよりも生まれてこのかた王都に来たのも今回が初めてで、まだ一年にもなりません。それまでは他国におりましたし、この王宮のことには疎いのです。ですから、なぜそのようなことに――ロイヤさんが女官長補佐になったのか教えてもらえませんか?」
自嘲ぎみに言うマニエル夫人に同情をいっさい見せず、アリエスは淡々と質問を続けた。
マニエル夫人も同情を期待しているわけではないらしい。
少し考えるように首を傾げて答えてくれる。
「私はただの紳士階級の娘なのよ。だけど社交界デビューが一緒の時期だった彼女と――女官長と仲良くなって……。彼女は伯爵家の令嬢だったから素敵な紳士からのお誘いも多くて、私はそのおこぼれにあずかっていたの。おかげでそれなりの方と結婚できたわ。今の夫だけれどね。彼は小さな領地があるから、そちらで暮らしているの。夫婦仲が悪いわけじゃないのよ。ただね、女官長は将来の伯爵様と結婚したのだけれど、運悪くご夫君は落馬事故で亡くなられて……。爵位を受け継ぐ前に亡くなられたものだから、彼女はほんの少しの寡婦手当しかなくて、王宮に職を得たってわけ。それで私も一緒に働いてくれないかって頼まれたの」
「働く必要もないのに?」
「当時は子供もできなくて夫婦仲がちょっとうまくいっていない時期だったから、ちょうどよかったのよ。それが十年ほど前かしら? それで働き始めたのだけれど、すごく面白くて。だって私が自分の力でお金を稼ぐことができるのよ? 結局、私の子供はいないけれど、別にいいの。だってこれが天職だと思うから」
最初に警戒していた姿が嘘のように、今のマニエル夫人はいきいきとしていた。
本当に女官の仕事が楽しいらしい。
そして何より、話を聞いてもらうことを喜んでいるようだった。
「私、もともと家事の采配をするのが好きだったのだけど、王宮は規模が違うでしょう? 細々したことの手配から人員配置を考えたり、彼女が女官長補佐の頃から手伝っていたの。補佐の補佐って感じね。だから彼女が女官長になるときには当然私も補佐になると――名実ともに女官長補佐になるんだと思っていたわ。だから驚いて彼女に訊いたの。どうしてロイヤを選んだの? って」
「それで、何て答えだったんですか?」
「ロイヤのほうが身分が格段に上だからよ。って」
「身分? それを素直に信じられたのですか?」
「そうね。あなたは伯爵令嬢で伯爵夫人でもあったからわからないかもしれないけれど、私たちただの紳士階級の者たちは爵位を持ち出されたらどうしようもないの。まあ、今はそれだけじゃなかったってわかっているけれどね」
ロイヤには先代カスペル侯爵の後押しがあったことを言っているのだろう。
だがマニエル夫人は気にした様子もなくあっさりしている。
「……マニエル夫人は将来的に女官長になりたいとは思われないのですか?」
「ええ、まったく思わないわ。私は裏方が一番なの。だから今の立場でも過分だと思っているわ。それに多くの女官が有爵家出身の方たちばかりでしょう? 誰も私の言うことなんて聞いてくれないわよ」
「それでは、はっきり言って女官長のことはどう思われます? お好きですか?」
「本当に遠慮ないのね」
アリエスがストレートに訊けば、マニエル夫人は驚きながらも笑った。
しかしすぐにその笑みを引っ込め、内緒話をするように前屈みになってアリエスに顔を近づける。
「はっきり言うなら……嫌いよ。昔から。ええ、出会ったときから」
「気が合いますね。私も同じです」
意外でもない答えにアリエスも同調すると、マニエル夫人は声を出して笑った。
そのうち目に涙まで滲ませている。
「ありがとう、クローヤル女史。あなたのおかげで久々にすっきりしたわ。それで、本題はあなたが女官長になりたいってこと?」
「いいえ。残念ながらそれはありません。まあ、少しは考えたのですが、それではあまり身動きが取れなくなってしまうでしょう?」
「そうね。言いたいことはわかるわ。それじゃあ、なぜ私を呼び出したの?」
「マニエル夫人の本音が知りたかったからです」
「そう。では、これでわかったわけね」
「はい、ありがとうございます」
アリエスが座ったまま頭を下げると、マニエル夫人は顔の前で片手を振った。
その顔は終始笑顔だ。
「先ほども言ったように、私はすっきりしているの。口に出して言うことで、ようやく自覚ができたんだもの。それに最近になって彼女が思っていたような恐ろしい怪物じゃないってわかったわ。きっとみんなそうじゃないかしら? だからお礼をさせてほしいの。私は何をすればいいかしら?」
若い頃に植え付けられた恐怖はなかなか消えない。
おそらくマニエル夫人は仲良しという〝呪い〟に知らず縛られ、女官長に支配されていたのだろう。
アリエスはそんなことよりもマニエル夫人が予想以上に話がわかる人物であることが嬉しかった。
「……今のままでいてください」
「今のままで?」
「はい。女官長は少々うるさくはありますが、大した害もありませんし、何より責任者ですから。問題が起こったときに責任を取ってくださるなんて、ありがたいことですもの」
「……あなたって本当にどうしようもない人ね」
そう言ってマニエル夫人は再び笑った。
その顔は今までとは別人のように輝いていた。




