43.日誌
(どうしましょう……困ったわ……)
枕元の蝋燭の明かりを頼りに日誌を読んでいたアリエスは、一度目を閉じて息を吐き出した。
日誌があまりに面白すぎて読むことを止められないのだ。
このままだと明日に支障をきたしてしまう。
わかっているのに止められない。
アリエスが持ち帰った日誌の中で、一番古い日付のものは正直に言って退屈だった。
ただ起こったことを事務的に記録しているだけだったのだ。
それが二冊目からは期待通り噂好きの文官が記入したらしく、当時の世間の噂や主観的な意見が書き込まれていた。
どうやらこの文官はしばらく日誌係となっていたらしく、三冊目も四冊目も担当していてアリエスを夢中にさせている。
実はすでにアリーチェの実父ではないかと思わしき人物は見つけた。
アリエスの勝手な想像に過ぎないだけのものだったのが、今はかなり真実味を帯びてきている。
だからどうということもないのだが、単に他人の秘密を知るのがアリエスは楽しかった。
当時のカスペル前侯爵夫人は貞淑な妻という仮面をかぶっていたらしい。
今のように派手好きな面を見せるようになったのは、舅である先々代侯爵が引退してからのようだ。
人間はどんなに誠実に見えても秘密を持っている。
ちなみにこれはアリエスの偏見であり、その自覚もあるが間違っているとも思っていない。
そのことがまた一つ確認できただけで、カスペル侯爵家の問題に首を突っ込もうとはもう思っていなかった。――今のところは。
(すごいわ、この文官。日誌を誰かに読まれたらどうなるとか思わなかったのかしら……)
宮中の公式行事である晩餐会や諸外国との会談の詳細などは、公文書で記録され一般の者たちが入れない場所で保管されているはずである。
この日誌はおそらく建国当時から続く習慣で仕事として引き継がれてきただけで、見直しや確認を必要とするものではないらしい。
特に理由なく、昔からあるからと続く習慣で無駄なものはたくさんある。
とはいえ、アリエスにとってこの日誌の存在はありがたかった。
もちろん不必要な習慣をなくすべきだ、などと声を上げるつもりもない。
不必要に思えても必要なものなど多くあり、現場の人間でもない者が口を出す問題ではないのだ。
名宰相と呼ばれた先々代カスペル侯爵だって手をつけなかったことなので、いつか誰か気付いたものが経費削減のためにするだろう。
(それにしても、こんなに面白いものを書いた人が未だに出世していないなんてもったいないわね)
アリエスは記入者の欄に署名しているケイヨ・レフラのことを考え、思い当たる人物がいないことを残念に思った。
ひょっとしてまだ王宮で働いているのかもしれないが、アリエスが確認している名簿の中にはいなかったのだ。
アリエスは一度大きくあくびをして、しぶしぶ日誌を閉じた。
これ以上は眠気に勝てそうにない。
また明日、資料室で目を通そうと決めて枕元の明かりを消した。
そして翌朝。
わかってはいたことだが、昨晩の夜更かしを後悔しながらアリエスはベッドから起きだした。
まだまだ眠く、今日こそは早く寝ようと決意して資料室に向かう。
資料室では持ち込んだ日誌に夢中になるあまり、またジークがやってきたことに気付かなかった。
「よお、久しぶりだな」
「そうかしら? きっとそうなのね」
適当に返事をして、アリエスはまた日誌に視線を戻す。
ジークも気にした様子もなく、アリエスの向かいに腰を下ろすと、冷めたお茶を自分でカップに注いだ。
「……昨日、魔女が王宮に現れたそうだぞ」
「まあ、それは大変ね」
「ああ、それで朝から衛兵たちは魔女を捜すよう命じられて、いい迷惑なんだよ」
「へえ? それは大変ね」
「で、王子殿下に何を言ったんだ?」
アリエスはしぶしぶ顔を上げ、ジークを睨んだ。
当然、そんなことでジークは怯まない。
「……どうしてそれを私に訊くの?」
「自分を魔女だと名乗る女官なんて一人しか心当たりがないんだよ」
「そう。王子殿下は秘密を守れないようね」
「まだ子供だからな」
「子供ねえ……。油断しているとあっという間に大きくなるわよ。それに子供は大人が思っているほど何もわからないわけじゃないわ」
「子供はいなかったんだろ? ――いや、すまない」
アリエスの表情は変わらなかったが、気持ちの変化をジークは感じ取ったらしい。
失言に気付いてすぐに謝罪した。
だがアリエスは大したことではないといった様子で肩をすくめる。
「謝る必要はないわ、事実だもの。私は弟妹の面倒をよく見ていたから子供のことに触れただけよ。とはいえ、その子それぞれ個性があるから、一概には言えないわね」
そう答えて再び資料に目を落としたアリエスだったが、ふと気になることがあってすぐに顔を上げた。
ジークはわずかに開いたカーテンの隙間から外を眺めている。
「殿下は泣いていらしたようだけれど……何があったのかご存じ?」
「泣いていた? さあ、それは聞いていないな。俺たちは殿下を惑わした魔女を探すようにと言われただけだ」
「惑わした?」
「ああ。殿下は中庭で出会った優しい魔女にもう一度会いたいと言っているらしいぞ」
「それは私の知らない魔女ね」
優しくした覚えはまったくなく、ただ挨拶しただけである。
本名よりも王子の記憶には〝魔女〟のほうが残ったことも子供ならではで理解できるが、アリエスには少し気になることがあった。
しかし、王子が泣いていたことも知らなかったジークに伝えても意味がないだろう。
「……テブラン公爵は陛下のご忠告を無視して、ポルドロフ王国からの打診を受けるつもりらしいわね」
「よく知っているな」
「この先の動向次第では、国外脱出も考えないとダメでしょう?」
「国を捨てるのか?」
「これからの人生は好きに生きるって決めたから。面倒なことはできるだけ避けるに限るわ」
「王宮に仕える女官なのに、愛国心のなさを堂々と言うなよ」
苦笑するジークを見て、アリエスは顔をしかめた。
さすがに言い過ぎてしまったと思ったのだ。
それもボレックよりも酷い相手に嫁がなければならないかもしれない公爵令嬢のことを考えて動揺してしまったからだろう。
他人のことを今さら気遣うなんて、自分らしくない。
アリエスは気持ちを落ち着けるために一度大きく息を吐いた。
「これは愛国心の問題ではないわ。聞いた話ではテブラン公爵令嬢もなかなかの強者だっていうし、意外と上手くいくかもしれない。そうなると陛下が心配だもの」
「この国の?」
「ええ。もし今回の縁談がまとまれば、ポルドロフの王太子はリクハルド殿下の義理の叔父になるのよ。後見人になるには十分だわ」
「……ずいぶん恐ろしいことを言うな。気をつけないとお前が罰せられるぞ」
「あなただから言ったのよ」
「それは遠回しの告白か?」
「面白くない冗談ね」
アリエスが行儀悪く鼻を鳴らすと、ジークは声を出して笑った。
それからお茶を一気に飲み干して立ち上がる。
「どうやらここの魔女は優しくないようだから、殿下の捜されている魔女とは違うな。というわけで、俺は仕事に戻るよ」
「ええ、それがいいと思うわ」
アリエスは立ち上がることもせず、また適当に答えると日誌に目を落とした。
ジークも気分を害した様子もなく、笑いながら資料室から出ていった。




